江口彰個展/横たわるモノリス
10月1日から6日 ギャラリー久光


2005/10/6(thurs)横たわるモノリス
 床に広げられた新聞紙に円が描いてあり、日の丸のようではあるが、日の丸が消えかかっていくようにも、成熟の途上にも見える不確かさ。その上に前回の個展でも登場した張りぼて人形が座っており、今回は新たに胸に「LITTLE  MAN」のラベルが貼り付けられている。そのすぐ横に今回の新作・巨石にも見える3.6メートルのモノリスが横たわっていた。
モノリスと言えば「2001年宇宙の旅」の宇宙生命の源基として登場する謎の黒石柱をおもいだすのだが、氏のモノリスは、角張った男根あるいは、日本列島に見えるのであるが、氏がおっしゃるには記念碑、シンボル的意味合いのモノのよう。
素材は和紙の張りぼてに新聞紙とボンドで作った紙粘土を塗り込んだもので、制作には1年を有したと言う。
モノリスには現代の時計、トランジスターラジオが埋め込まれており、発掘物のイメージとは遠い。時間を内蔵した言葉の仮の姿と言ったところか。時計とラジオも説明としては不用と考えられるが、元グラフィックデザイナーであった氏の遊び心と見るべきであろう。記念碑と言う意味合いからは墓石と見てもイイのかも知れない。
氏の集大成とも歴史(時間)の確認とみてもよし。しかし、それは氏が見る側に発するイメージであり、それよりも漠として誰にでもある日常の不確かさの具現化と見るべきだろう。声を大にしなくともすでに、今、todayという進行形の日常こそが全ての時間の上に立って(存在して)いるのであるから。Little Manがメタファーでモノリスがシニファーと見れば今までの表現と基本的には同じ流れにある。外の壁には内部と隔絶したように、砂、流木、本の美術評論(メタファーとシニファーの記事)のページのコラージュの平面作品が展示してあり、それがまた意味性を通り越して素材それぞれが美しく見える作品なのである。
かように、たった3点の作品にもかかわらず、ボクらは再び言葉を復活さし不可思議なるアートを享受できるのである。

過去の個展
2004 / 10 / 14 ( THU )
 江口彰展
 唐人町の久光ギャラリーにいく。「江口彰個展」の立て看板が店頭に目立つ。
ギャラリーに入ると女性2人とおしゃべりしていた江口さんは「よう!・・ひさしぶりやね」と破顔。
  照明を絞ったほぼ画廊一面に糊付けされた新聞紙が広げてあり、その上に氏のこだわり、ひらめき、因縁の品々が雑然と並べてある。
コンセプトアート、インスタレーションと言うのか。
 床上の作品をぐるっと見下ろし、たまに天井を見て、床と天井を同時に視界に入れ「たのしいじゃないですか」と首を立てた。
 気に入った表現は先に結論を言う。作品にも何にも触れず帰る個展が多い今昔。
 シニファーとメタファーの現代を言語化し記号化するのが氏のこれまでのコンセプトであったと思う。比喩と意味性は美術に限らず、
だからこそ見せ場(表現)であるのだが、現代芸術はそこを見よう、具体化しようと意味を問うドグマへと入っていくのであるが、
それも評論家、思想家、哲学者が目指すものであって、表現者はそれをちらっと横目で見ていくぐらいでイイのである。
 しかし、確かにそこでの言葉遊び、言葉確認、は感性だけでなくビジュアルな世界をよりミニマルな言語で見ようとしておもしろいのだが、
詩人でもなく色、形抜きに言語はない。文脈のシニファー、メタファーとしての確認作業にすぎない。
 今回、氏の饒舌さ理屈っぽさが消え、記号化された因縁のオブジェだけが日常的に意味合いを変え、見やすく、わかりやすくなっている。
置き換えるなら「たのしさ」と言う言葉である。
 床一杯に広げられた新聞紙の情報と時間の集積には最早意味はなく、意味があるとするなら新聞紙は氏自身のここ数年の自画像であろう。
 茶の間のちゃぶ台に置かれた新聞。おやじがいて新聞を開き、茶を飲み、テレビからも、お隣からも情報の原語は耐えない。
 そこまで臭ってくるような日常性は美術にはいらない。美術は日常であっても生活ではない、でっち上げなのである。
「芸術と生活の間で行為する」とはPOP前期のラウシェバーグの言葉だが、ポップは下衆でもなく、「たのしいもの」。

2003 / 9 / 27 ( SAT )

江口彰 個展

江口彰さんの個展を久光ギャラりーでみる。矩形の画廊の床と壁面の一つを使って、三点が展示してあるのみ。壁が余っている。すっきりしすぎって、ついつい「あれ、これだけですか」と言ってしまった。けなしたつもりはもちろんない。床に敷かれた白い2メートル四方のフェルトペーパーのうえに江口さんが家の周辺で拾ったと言う部分的に着色された大小の木片(枕木、朽ちた木、折れた木の幹等)が無造作においてある。こうして置くことにより、見捨てられていた木片に視線がそそがれ、何だろうと観客か注視することで、木片は改めて表情をもち、意味をみいだす。一種のデュシャンのレディメイドやディペインズマンなコンセプトであろう。江口さん的に言えば記号論と言うところか。浜辺で拾った流木のような時間的な付加の美と対極にあるタダの木片。それをどう見せるか、どのように見えるのか、に作者の狙いはあろう。現実に少なからずズレを起こすことで現状を再認識しようとする行為、作業なのであろう。まず白い紙の上に置かれた木片たちが意外にもきれいなのである。3点に込められたメッセージはわかり得る。江口さんも懲りずにしつこく現代美術を思考し、実践する人である。


Little Man と モノリス
ラジオに茶こしがかぶせてある 1940年代の写真と時計

トップ