映画は愉し

2014年
/プラネット・テラー/キューティー&ボクサー/リダクテッド 真実の価
2013年
グロリア/
ミケランジェロの暗号/オルビリオンとクリスティーナの世界/チェ・ゲバラの映画/
/ベネチオ・デル・トロ裸の島に立つ/ロスト・イン・トランスレーション/オールナイト3本たて/忍者狩り
2012年
/襖絵/太陽を盗んだ男/新藤兼人監督/満員電車/
再び「ノルウェーの森」/善き人のためのソナタ/キューポラのある街とにあんちゃん/
映画の黄金時代/おかあさん/警察日記/フェリーニの「道/日本奥地紀行/
2011年

空気人形/
オペラ座の怪人25周年記念公演inロンドン/かっくんちゃんと竹山さん/
ザ・ハリケーン/ツリ― オブ ライフ/新藤兼人監督&ベニチオ・デル・トロ/
運動靴と赤い金魚/二十四の瞳/東京物語/春との旅/レスラー/
2010年
ノルウェイの森わたしの頭の中の消しゴム/
じゃじゃ馬馴らし/裸の島/オランウータン/真夜中のカーボーイ/
デニス・ホッパーさん死去/コマンドー/ブリの太鼓/ 歌舞伎/アバター/
地獄の黙示録 特別完全版/父親たちの星条旗/猟奇的な彼女/1735km
聞こえるのは君の歌声/トンマッコルへようこそ/石中先生行状記/
2009年
すずめの唄/そうかもしれない/アポカリプト/長い散歩/
アジアフィルム・フェスティバル/小説家を見つけたら/ドリームキャッチャー/殺し/絞首刑/
フライ・ダディ/歩く、人/夏至/愛の予感/デス・プルーフinグラインドハウス/街のあかり/
BU・SU市川準監督追悼/ツォツイ/ペレ/ミッドナイトエクスプレス/帝銀事件/
2008年
「鰐」「弓」「絶対の愛」/ROOKIES/
ランボー3/パフューム ある人殺しの物語/
Vフォー・ヴェンデッタ/東京オリンピック/ダーウィンの悪夢/
高の人生の見つけ方(THE BACKET LIST)/
ポストマン/フェリーニ〜大いなる嘘つき/試験さぼって市川崑/CGレジェンド
2007年
高橋孝inオーチャード
フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)/ベルイマン監督/三文役者/
忘れちゃいけない人生座/かもめ食堂/山田洋次監督/フェーンチャン ぼくの恋人/
黒澤に挑む/HERO/ 裸の島ミ/ケランゼロ・アントニオーニ/泉/サバイビング・ピカソ/
NINAGAWA 十二夜/殯(もがり)の森/ロスト・イン・ラ・マンチャ/
裸の島/限りなく透明に近いブルー/
新宿泥棒日記/セブン・ビューティーズ/アッシュ アンド スノー/
武士の一分/クリムゾン・ゴールド/コースト・ガード/悪い男
2006年
/シャイニング/赤線地帯/春夏秋冬そして春/映画話し/
硫黄島からの手紙/
煉獄エロイカ/クンドゥン/SOW/Shall We Dance/
俺たちは天使じゃない/
海を飛ぶ夢/アザーズ/テシス/オープン・ユア・アイズ/
イージーライダー/ビハインド ザ サン/ペイ フォワード/
恋は五・七・五 俳句甲子園
/クリント・イーストウッド 走り続ける76歳/
雁の寺/アリ/クライング ゲーム/ビッグ・リボウスキ
/
遠雷/ジミ・ヘンドリックス/8月の路上に捨てる/ボックスアート/自費出版アミーゴ展/
吉野ヶ里町に夢のモニュメント/太陽の帝/ラスムスくんの幸せをさがして
菊豆/アラビアのローレンス/スタンリーグラード/墨東綺譚/ピアノ・ブルース
自転車どろぼう/エレファント/パルムドール/阿弥陀堂だより/アンドレイ・ルブリョフ/
シザーズ 氷の誘惑/酔っぱらった馬の時間/動くな、死ね、蘇れ/ダ・ヴィンチ コード/
少女の髪どめ/ 白痴/蜂の巣の子供たち/裸の島/大島渚メモリアルストーン/ショコラーデ/
2005年
三丁目の夕日/ジョゼと虎と魚たち/どぶ/ふんどし医者/ゴースト・ドッグ/
スモークシグナルズ/
初恋のきた道/三丁目の夕日/茶の味/地獄の黙示録/完全版/
悪い奴ほどよく眠る/21グラム/トーク・トゥ・ハー/血と骨/地獄の黙示録/完全版
続夕陽のガンマン/ぼくんち/鉄塔 武蔵野線/妖怪大戦争/冒険者たち/ストレイト・ストーリー/
ライフ・イズ・ビューティフル/ゴーストワールド/隠砦の三悪人/続夕陽のガンマン/絞首刑/
ミスティック・リバー/キッチン・ストーリー/ミリオンダラー・ベイビー/スモーク/
プレイ・タイム
誰も知らない/ダイナマイトどんどん/「肉弾」「独立愚連隊」
EAST MEETS WES/Tアモーレス・ペロス/お葬式/バッドボーイズ/アントワン・フィッシャー/
チョコレート/バッファロー’66/キル・ビル/ ポーリーヌ/第77回 アカデミー賞/きみの帰る場所/
ロシアン・ブラザー/ある歌い女の思い出/テルミン/男と女の詩/2001年宇宙の旅/
サーカスはボクの家//ブレードランナートンネル/さよなら子供たち/
黒澤明/刑事/
2004年
刑事/列車に乗った男/暗殺/華氏911/ヴァン・ヘルシング/
スイミング・プールン/真珠の首飾りの少女幸せになるためのイタリア語講座/
地下室のメロディー/クリクリのいた夏/女はみんな生きている/イノセンス/クジラの島の少女/
フィラデルフィア/白い刻印/西部の男/沼地という名の町/
 
ポロック/ ラストサムライ/
2003年
 東京物語/ 小津安二郎/小津安二郎生誕100年/
 吉本新喜劇/ 
ボウリング フォー コロバイン/ HAZAN /座頭市/ ベトナム戦/
イノセント ライフ/ 過去のない男/ デッドマン/ MISHIMA /
The Pillow Book /ゴジラ 海賊版?/ abl/ 関の弥太っぺ/ 羅生門/タクシー/ 明日があるさ/ 
Die anatherday / まわり道 /真夜中のカーボーイ/ 映画は動く/ 墨東綺譚/ 狼たちの午後
2002年
 狼たちの午後/ ラスト・ワルツ/ マイノリティーリポート /裸の島/

Homeへ

2014年
3月4日(火)プラネット・テラー
”プラネット テラー”はおもしろい。
奇想天外なゾンビホラーB級仕立ての奇才ロバート・ロドリゲス監督。
片足の女性はCGなんだろうが、円谷監督時代の手作りの味がある。
フィルムに雨(縦キズ)が降り、ずいぶんと古いのかと思うがそうではない、
ねらって雨だらけの画面にしてある。
カネはかかっているのに、いかにも安物、B級娯楽に徹する監督である。
この監督の映画に必ず登場するのが、あのタランティーノで、必ず殺される。
血肉が飛び散る残虐な場面もリアリズムとはちょっと違う手作り感が気持ち悪さ消し、
非現実的に生々しく・・おかしい。
筋がないかと思えば、結構きびしい内容が隠し味として忍び込ませてある。
日本で言えば塚本晋也監督だろう。
三池 崇史監督はちょと真似すぎでリアリズムが強い。
映画本来のたのしさというのは、絵が動き、理屈っぽくなく、
アンパン食ってラムネ飲んで、まだ終わるなよぉ〜となるべく世間から離れていようと
するところだろうけど。
映画も上等になると、イイ映画だとか、駄作だとかいつのまにかボクらも
星マークつけるようになってしまった。
そこに徹するのがロドリゲス監督ということになる。
またブライアン・デ・パルマ監督は大作撮ってもB級にしかならないという得人。
リドリー・スコットは生々しさがリアルすぎ、もういいよ、と目をそむけたくなる。
アンディ・ウォーホルも確か、ビルの窓から赤ん坊を放り投げるなどのめちゃくちゃな
B級ホラーを制作してるが、それをまたマネするマイケルジャクソン。
現実と映画との区別もつかなくなってる。
”この世もあの世”ぐらいは、ときには思っていなくば、生きる元気もたのしさもないのである。
2月2日(日)キューティー&ボクサー
篠原有司男ことGyuちゃんと乃り子ことキューティの夫婦の
”CUTIE AND THE BOXER"(キューティー&ボクサー)を地元のシアターシエマで見た。
お客は意外に多く7人だった。
「牛ちゃん、今日は80歳の誕生日よ」と起きてくるところから始まる。
このとき奥さんキューティ・乃り子さんは59歳。
40年間のアーティスト夫婦の記録と言うが、ほとんどは後半一年間の記録だそうである。
生活はきびしくとも相変わらずタフに制作する牛ちゃん。
手に負えぬ猛牛も80歳。
40年を経てやっとキューティもぽろりと表現テーマとスタイルを生み出して作家として
の自分の道を見つけ出す。
アートにはまった男の連れ合いは大変を通り越した開き直りの大変さがあるわけだが・・
そこのところで通じ合えてる二人ってのが深いね。
「ヴァージニア・ウルフが行ってたんですよね。
女性アーテイストがなにかしようとおもったら、少しばかりのお金と、
鍵のついた部屋がいるって。」とキューティはつぶやく。
ガオゥ「アートっていうのは悪魔(デーモン)。悪魔に引きずられていくものが
あるわけよ、アーティストっていうのは。」と笑い飛ばす牛ちゃん。
イイ夫婦だよ。
キューティは富山出身というだけに辛抱強い、というよりはやはり牛ちゃんを
放したくないほど好きなんだなと思わされるようなイイ女性の物語でもある。
劇中、大酒呑みだった牛ちゃんが、呑まなくなってた。
心臓が止まる病気をして以来、酒を断ったようだ。
牛ちゃんがNYの次郎長をやってたころと思われる昔の映像が挿入されるのだが、
いつものように牛ちゃんの家にアーティストたちが集まり、酒盛りをし芸術論を
戦わせているうちに牛ちゃんは号泣して酔いつぶれる。
そんな酒の臭いも感じさせないやる気満々の80歳(現81歳)。
29歳の若い監督が5年間通い撮り続けたという。
当初は「見るからに子どもで・・幼稚な質問したりと・・期待もしてなく、
そのうち家具や電気釜と同じような存在になっていた・・」とはお二人の弁。
牛ちゃんモノではなく、題名どおりキューティーとボクサーの物語である。
役者はこれ以上はなく、カメラは小津ばり、編集が上手く映画になってる。
若い監督も成長させられたのである。
アカデミー賞だって取れたらイイね。
1月30日(木)リダクテッド 真実の価
またしても1+1=1の"灼熱の魂"そして同時間に"リダクテッド 真実の価値“ 。
どちらを見るかで、リダクテッドのチャンネルを選択。
ブライアン・デ・パルマ監督作品は好んでミルが、
個性的というより、野球のちょい前の落合監督のような俺流がイイ。
イラクものではこれに"ハート ブレイカー"が続くが、
場を忘れたサソリがアリの群れに襲われるバトルは、
"ワイルドバンチ"のS・ペキンパーのオマージュ。
サソリはもちろんアメリカであるのだろうけど。
ペキンパーを師と仰ぐのは、C・イーストウッドだけだったけど・・。
最もデ・パルマらしい作品と思うのはヒッチコック"裏窓"を下敷きに、
俺流"ボディ・ダブル"(1984年)だな。


2013年
7月4日(木)グロリア
監督 ジョン・カサヴェテス、 出演者 ジーナ・ローランズ、
1980年 。ジョンとジーナの2人は夫婦である。
再度見ても、おもしろい。
彼女の顔も怖いが、前編が怖い。
移動カメラとオールロケの手法が怖さと関係ありそう。
マフィアをも恐れずピストルを撃ちまくる中年女性・ジーナ・ローランズとマフィア
の秘密を握る少年とのコミカルな友情が親子のように・・。
ジーナ・ローランズのような怖くやさしい演技のできる女優は出てこないね。
「グロリア」をまねたのが「レオン」。シャロン・ストーンのリメークはこけた。
7月3日(水)ミケランジェロの暗号
監督 :ヴォルフガング・ムルンベルガー 。
製作年 2010年 。製作国 オーストリア 。
1938年。オーストリアで画商をするユダヤ人一家。ムッソリーニも欲するほどの
国宝級のミケランジェロの絵を密かに所有していた。その絵の存在を知った
ナチスは没収するが・・。一家は絵を奪われ収容所へと送られる。一方、
ナチスは絵を取引の材料にイタリアと優位な条約を結ぼうとするが、
贋作であることが発覚。一家の父はすでに収容所で死亡、
だが彼は息子に謎のメッセージを残していた。”父の肖像を消すな”と。
息子は母の命を救うためナチスを相手に危険な駆け引きに出る。
贋作は二つあり二転、三転、五点と見る側をスリリングに引っ張る。
ナチは倒れ、一家の画廊を裏切りの竹馬の友が経営し、、
オークションを開くが・・。
ラストがさらりと鮮やか。
父の肖像画を抱え、息子と母と妻の三人が画廊の前を去っていく。
3人のショットが静止画像となり暗転からクレジットへ。
3ショットの静止画はミケランジェロの絵と表裏一体となったようにすばらしいの
であった。これもどこかでは友情なんだろう。
オーストリア映画であり、「ヒトラーの偽札」のスタッフが関わったというだけに面白い。
6月24日(月)オルビリオンとクリスティーナの世界
ぽっかりと空いた月曜日。
酔い覚ましに近くのシネコンへいきトム・クルーズ主演の「オブリビオンを見る。
近未来のSFモノ。半壊した地球。生き残った人間は新たな星へと脱出。
地球に残りを監視、警備するトム・クルーズと攻撃型飛行ロボット。
現代、過去、未来が交錯、コンピューターの反乱、どんでん返しとお決まりの
パターンであるからして筋は大して重要ではない。
VSFXの視覚効果をたのしめばよく、筋などつけたし。
劇中、アンドリュー・ワイエスの絵が登場するのには、驚いたしなるほどとおもえた
。一まずこの映画のテーマは人間が忘れ去った(オブリビオン)緑の自然と
小ブナ釣りし故郷であるようだ。
ワイエスの代表作「クリスティーナの世界」がたびたび登場する。
原作はどうなのか判らないが、監督なりが、クリスティーナの世界をよほどに
好きなのであろう。
草原をはうように横たわる女性が、丘の上の家を見ている「クリスティーナの世界
であるが、実は我が家へ帰ろうと小児麻痺で歩行できない
クリスティーナの必死の姿なのである。
ワイエスは毎年夏にクリスティーナの家にやってきて、二階をアトリエとして借りていた。
よく窓からはいつくばって丘を登ってくるクリスティーナを見ていたのであろう。
絵の方がいかに美しく、生きるメッセージがこめられている、のからしても
、映画や芝居の物語(メッセージ)は饒舌絶後?である。

6月10日(火)チェ・ゲバラの映画
梅雨前線が南の方で停滞しているようで、台風もきているが、
空梅雨というのだろうか。
「チェ 28歳の革命」「チェ 39歳別れの手紙」監督:スティーヴン・ソダーバーグ
製作国:スペイン フランス アメリカ、 2008年。
主演 ベニチオ・デル・トロ (チェ・ゲバラ)。
戦闘シーンも多いのだが、全体に日本人にでも懐かしいような人間の心の通い合い
が普通に演出されているところが、沈潜するように心地よい。
あくまで映画である。オーバーな演技、演出、狙ったショット、顔のアップ等がないだけに、
イイ映画である。
ロバート・レッドフォードが製作した「モーターサイクル・ダイアリーズ(2004年)」もある

70年代前後にゲバラの顔の入ったTシャツを世界の若者が着ていた。
名前はゲバラであった。
彼ほどのことはできないにしても若者はだれもが、悩み迷い苦しむみ、
何かを求めさまよい巡る。
5月29日(水)ベネチオ・デル・トロ裸の島に立つ
新藤兼人監督の大ファンであるベネチオ・デル・トロさんが2012年「新藤兼人・
百年の軌跡」展の広島を訪れたドキュメントを見た。
すごくおもしろかった。
なんといっても被写体であるデル・トロさんが素敵、イイのである。
気さくでかっこつけたところがない自然な感じが逆にかっこイイのである。
しかし、やはり名優のオーラはほとばしっている。
彼も「裸の島」が一番すきという。
アメリカ、ヨーロッパでも新藤作品の自主映画会を開いているという。
裸の島の舞台・撮影地、瀬戸内海の孤島”宿称(つくね)島”を訪れる。
宿称島は広島の三原市に属する。
一新藤ファンのように宿称島に立ちはしゃいでいるデルトロさん。
他の映画祭らをキャンセルして来たというのもこれが最大の目的のようだ。
撮影当時は村上さんと言う方が一人住んでいて、その人の家を「裸の島」では
家族の家として使ったというが、今は荒果て無人島である。
デル・トロさんは場面をよく憶えており、現場と照らし合わせ感慨深げであった。
ボクも最近「裸の島」に行くと宣言していただけに興味深かったが、
宿称島へ行くのは容易でなさそう。実際に潮の関係で小船でしか接岸できないのである。
しかしまぁ、デル・トロさんは頭がよく、気さくでおもしろい男である。
「原爆の子」にあわせ広島では原爆資料館を丹念に見て周り、
アメリカ人館長に疑問、質問を投げかけていた。
かなり予備知識もあるようだったけど、「穴にもぐり、白い服を着る・・」
ということをおかしく学んだよう。
翌日、再び資料館に現れたデル・トロさんは、ミュージアムショップで
”白いTシャツ”を買うのであった。
とにかく、スクリーンとは別人のようにおかしく好奇心旺盛なおもしろい男である。
4月26日(金)ロスト・イン・トランスレーション
ソヒィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トランスレーション(2003年制作)」
を初めって最後まで見た。
TOKYOを舞台に倦怠的なアメリカ俳優とアメリカの若妻のラブストーリー。
いつも見始めてチャンネルを変えていたが、今回はおもしろかった。
異邦人たちと東京の空気感というかフィーリングがイイ。
監督の東京感であろうが、タルコフスキーやヴェンダースの東京とも共通する。
恋愛モノだが、そんな東京がすがすがしい。
「地獄の黙示録」のメーキングフィルムと撮影日記・ノーツ(本)は母親の
エレノア・コッポラだよね。
ダイアモンド・ユカイさんが出た映画ってこれか。
(ラストの)クレジットにボクの娘の名前もローマ字で流れた。
あれっ?・・人違いは明らか。翻訳不能なのである。
4月17日(水)オールナイト3本たて

國連太郎さんが先日亡くなられた。
たくさんの映画にでておられるが、「本日休診( 渋谷実 監督 1952年)」
と「ひかりごけ(熊井啓 監督 1992年 原作:武田泰淳の実際の事件を題材
とした同名)」が思い出される。
スーさんのご冥福をお祈りします。


オールナイト2本立て
「火まつり」監督:柳町光男1985年 原作、脚本:中上健二。
「皆月」監督:望月六郎 1999年 原作:花村萬月。

1月9日(金)忍者狩り
「忍者狩り」(山内鉄也監督、1964年、東映。)があってた。
TVで「隠密剣士」が流行っていたころの映画である。
途中からだったけど、職人的な白黒映像に惹きこまれた。
白黒のバランス、コントラストと深奥さは照明に尽きるようだ。
2012年
6月5日(火)太陽を盗んだ男長谷川和彦:監督脚本1979年。
いろんな意味でおもしろく、見させられた。
「青春の殺人者」1976年の後の作品。
何があったか?これを最後に映画を撮って居ないようだが、
糞馬力がある監督だけに何かやらかしてくれるだろう。

5月29日(火)
新藤兼人監督が亡くなられた。100歳。
日本にも死ぬまで、死んでも映画を撮り続ける人がいた。
枯れるのではなく、気ままに生き、ぎりぎりの人間を見ようとした。
音羽さんと泰ちゃんが水を運んだ不条理の島。
ホームページの表紙にも使っていた「裸の島}をリスペクトとしたい。
あの世で、またみんなと映画を撮られることだろう。
ナムゥ〜・・。
5月15日(火)「満員電車」 監督:市川 崑、1957年。
一流大学を出て、ビール会社に入社して、
もうれつに働く男とマイペースで仕事する男がいる。
一生の生計を立てたりするものの、やがて自殺にノイローゼと来る。
チャップリンの「モダンタイムズ」や増村保造監督の「巨人と玩具(1958年)」
を思い浮かべるが、季節の変わり目の人間社会を風刺している。
脚本は和田夏十と市川崑の協同執筆。
それから50数年。現状は相も変わらず。

3月12日(月)再び「ノルウェーの森」
2年前劇場で見た「ノルウェーの森」がテレビであってた。
劇場版より16分長いそうだ。
トラン・アン・ユン監督は脚本に4年かけたそうだが、原作に忠実である。
改めてのんびり見るに至って、同時代である60年代という若者の心、
精神の閉塞感を通し、
作者(村上春樹)と自分の位置をおさらいするのであった。
作ったのはベトナム人のまだ若いタランちゃんであり、映像は時代に潜む異常さ、
狂気さ、
肉欲に終始するのであるが・・。
何故に海外で180万部も読まれるのか?
新聞で海外の翻訳者が云うには世界共通のテーマであるらしく、日本とか東京と
いう場所を云わなければ、無国籍に共通項であるらしいのだ。
それはそうだろう日常の若者たちの漠とした悩みに他ならない。
それにしてもとおもうところが、村上文学の力とテクニック?かもと・・。
「1Q84」は女必殺仕置人や予備校教師の作家、カルト教団が多角的に絡み
合う現代版で映画にすれば当たりそう。
娯楽映画と文芸作とどこがちがうのかも,アートと一般の絵が何処で違うのか
というのと
同じく現代アートは、それを判り易くしてはいるのだが、さらに読者、観客は混沌と
なるのが必至。
さて、それからすればスパイク・リー監督の「セントアンナの奇跡」(2008年作)
は圧倒的な
迫力ある映像で観客を誘導する。痛く痛く暴力をもってえぐっていくが、ラストが
「ショウシャンクの空」になった。
2月25日(土)善き人のためのソナタ
「善き人のためのソナタ」ドイツ 2006年制作。
ベルリンの壁、崩壊前の東ドイツ。
シュタージ(国家保安省の)監視員と監視、盗聴される西寄りの作家と意外な関係。
「ホッタラケの島」2009年制作。
CGアニメ、冒険ファンタジー。
日本のCGもここまでやれるようになったとはおどろき。
CGは判るのだが、手描きの味や迫力にはまだまだ。
何のためのCGであるかだろう。
2月24日(金)キューポラのある街とにあんちゃん
「福岡はあいにくのお天気です。これも春へ近づく雨ですね・・」と
、ちょっと気のきいたフライトアテンダントのアナウンスがまだ、脳裏にある。
この繰り返しが重要である。ニュートラルでもあるのだろう。
これから先の熟成の準備期間。
ここを過ぎれば一気に細胞も汗もブレインも自然任せに加速するのみ。
大上段から「そうやって半世紀が過ぎた」と云ってみたくなる。
「キューポラのある街」「にあんちゃん」もオールロケである。
時代の空気、臭いまでして、そこにいるのは自分だと思えてきたりする。
二つの映画は昭和30年代のキューポラの街・川口と炭鉱の街・唐津が
舞台になっており、問題もテーマも全くと言っていいほど同じである。
それでも人間は強く前へ歩こうとするのである。
最初から最後までそれなのに、それぞれに新な答を探そうとする。
差別、偏見はを口にする時、人はヒューマンに高揚するが、口に出す程に
偽善な自分も見えて来る。
他方、人間はくじけずにいいだけの動物的なDNAをもっているはずであると。
前へ歩き、キツネもライオンも時に立ち止り、そして振り返る。
中には横歩きするカニさんだっているんだから。
2月9日(木)映画の黄金時代
山田洋次監督が選ぶ100作品 家族編 が昨年から続いている。
今年からは戦前戦後の名作が昼下がり、毎日放映されてる。
見てない作品もまだまだあるようで、毎日がたのし。
白黒映画の時代である。美術、照明の腕の見せどころ。
映画の職人たちが、外国映画の影響も受けながら、これでもかと競い合う強さがある。
特に照明の光と影に目をやると、してやったりの美術、照明の顔が浮かぶ。
やり終えた後の酒もうまかったことであろう。
白と黒をいかに見せるか、いかに見る人にホントのように見せるかとウソ業を
使うことも多かろう。
本日は五所平之助;監督の「煙突の見える場所」1953年作。
まじめに撮れば撮るほど、喜劇じみておもしろい。
でなければ、唯一の大衆の娯楽にはなり得ないだろう。
小津、黒澤を出さずとも、それ以上にすごい監督さんたちである。

2月7日(火)おかあさん
「おかあさん」 成瀬巳喜男監督 1952年制作を見る。
次々と身内が亡くなって行くが、題名とは違うくらいにあっけらかんと明るい。
湿っぽさを強調しない成瀬作品は娯楽性も高く、戦後の暗い時代にあっても、
日々たんたんと暮らす人々を活き活きと描き出す。
18歳の長女役をした香川京子さんが暗さを秘めながらもからっと天使のように
美しく、この映画の骨格になっている。
2月7日(火)警察日記
続いて、思い出してはたまに見ている録画の
「警察日記」久松静児監督1955年製作を見る。
脚本が佐賀県唐津市北波多出身の井手俊郎さんである。
警察日記は子供のころ夏休みに小学校の講堂で見たおぼえがある。
大物俳優のオンパレード。
若いおまわりさん役で穴戸錠さんもデビューを飾っている。
舞台は昭和25年ごろの会津磐梯山の麓の小さな町。
脚本が井手さんだけに佐賀に置き換えて見てもイイ。といより日本中に似た
ような町なり村があったはず。
オールロケで撮られており、やはり風景として人情地として会津磐梯山が
必要だったのだろう。
貧しさゆえのコソ泥、かっぱらい、無銭飲食、口べらし。
もろ、ボクが子供の頃の風景であり状況である。
政治家や役人は威張り腐っているが、ここのおまわりさんたちは、
人情味熱く頼りになる。
人助け、人生相談が主たる仕事である。
窃盗犯を悟、放免しようと努力しポケットマネーまで与える。
罪を憎んで人を憎まず、イイ時代と言うか、実際そんな空気は子供ながらに感じる。
コワイけど頼れた。そうでもなければ、戦争によって
貧しくされた人々は、どうすりゃいいんだ。そこを取り繕っていたのが、おまわりさんたち
であったということができるのかも。
そして、また気づくのだが、たくさんの出来事が挿入され一つの町の人々として物語に
なっている。役者もうまいが、脚本もイイ。
その一つ一つの挿入部分だけをとっても一本の映画になるという贅沢にもむずかしい
脚本である。
現にこの「警察日記」から、部分部分を拝借したというに見える映画が五本はある。
その逆は考えられない。
親に捨てられた姉弟の赤ん坊と幼児を人のイイおまわりさん(森繁久彌)が
抱っこと手を引き、
とぼとぼと、どこか預かってくれるところはないかと、
歩きまわる。乳飲み子を連れて歩くおまわりさん、三つの影が会津磐梯山の風景に
溶け込む。
あの時代ならではのイタリア映画にも共通するシュール。
その幼児役の二木てるみさんが、抜群の演技をする。ここに天才児現るの
由縁があるのだろう。
気は優しくて力持ち。弱き者、小さき者へのおもいやり。暴れん坊でも冷酷者にも
それぐらいは
普通にあった。
「ジョズエ、ジョズエ」はライフ・イズ・ビューティフル。
会津磐梯山、猪苗代湖は元気福島!!
1月24日(火)フェリーニの「道
BSでフェリーニの「道」をやってた。
男女二人の大道芸人の切なくも人間味あふれる旅路。
かつて歯医者の故Sくんも「道」が一番好きと言ってたのをおもいだす。
白黒映画のよさが充満する。
すごく悲しいが、生きる強さを見せつけられる。
「自転車泥棒」「ヘッドライト」「鉄道員」「恐怖の報酬」などの名画がならぶ。
カラー作品よりもモノクロの方がイメージがふくらむ。
動画より写真んの方が・・、写真よりも思い出、記憶の方がイメージが・・
というように、情報が少なくなるにつれ感覚は研ぎ澄まされて、
イメージを最大に喚起させようとする。
それをさらに逆のぼれば「絵」ということになる。
薄れかけた記憶、鼓動を喚起、歓喜さすエネルギーの源であろう。
情報があり過ぎるよりは、風前のともしびという状況、境地にあるほうが、
本質は見逃さずにいける。
別れて、5年後男はサーカス団の一員としてある港町に来る。
女性が洗濯物を干しながら口ずさむすメロディーに男は立ち止り、「その歌を
だれに教わった」かと問う。
芸人の女性(ジュリエッタ・マシーナ)が家の前で毎日トランペットを鳴らしてたが
、5年前に家の前で亡くなったと・・。
あの「道」のテーマ曲である。
その直後、夜の浜辺で男 (アンソニー・ クイン)
は夜空を仰ぎ砂に泣き崩れる。Fin.
1月23日(月)北欧トレッキング
BSアーカイブスで2002年に放映された女優さん(田中美佐子、小林聡美、
根岸季衣さんら)が北欧をトレッキングする番組をまたやってた。
当地を歩いたことがあるだけについつい見入っててしまう。
大自然の山や丘陵をミチクサ食ったり横道にそれたりしながら、明るくどこか
どんよりと数日かけてひたすら歩く。
ただそれだけだが、女優も素をのぞかせる。
そして映画もフィンランド・ヘルシンキを舞台の「かもめ食堂」2006年公開。
陽光射しこむ明るい店内・かもめ食堂。
なのにどこかどんよりワケありの日本人店主(小林聡美)と従業員(片桐はいり)。
お客はぱったり、閑古鳥。
ガッチャマン好きのフィンランドの青年がお客第一号。
「スナフキンとミーは兄弟なんですよ、知ってました。異父兄弟何ですね・・」
「ニョリニョロ、何食べて生きてるか知ってますか?・・電気なんですよ
。知らないことっていっぱいあるんですね・・」。
お客もワケありゆらゆらのもたいまさこ。
荻上直子監督作品の三羽ガラス。
明るく雄大な中にもどこか鈍重なスカンジナビアの風景。
都会では鬱(うつ)とかおもいこんでしまうのかもしれないが、ここでは言葉少に
ゆらゆらぼさーっと。
ムーミンの生みの親トーベ・ヤンソンさんもフィヨドルの小島の小さな家で
過ごしている。
そして、現実、酒席で老若男女を問わず、豹変してわーっとはしゃがれるのには弱い。
ゆらつらどんより、陽気、ハイテンションは交互に来るし、場所と時にも左右され、
人それぞれ、と云っておこう。
1月4日(水)日本奥地紀行
NHK BS3 22:30〜0:00 「微笑みの国物語」を見ていた。
イザベラ・バードはイギリスの女性旅行家、紀行作家。明治時代の東北地
方や
北海道、
関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(邦題『日本
奥地紀行』『バード 日本紀行』)を書いた。
イザベラ・バードの道のりを現代に辿って行く。
絵にかくよりもハイビジョンの風景がきれい。
イザベラさんは最初、日本人をボロカすに野蛮人のように書くのだが、
次第に「ここは東洋のアルカディアです」となり旅の終わりには「礼節を
重んじる、
微笑みの国・・」と変って行くのであった。
豊かに見える現代の方が、貧しのだろうね。



2011年
12月9日(金)空気人形
寺山修二寺山修司の「田園に死す」には空気女がいて、空気女の唄まであった。
「あるいはそうかもしれない。しかしどこまでが現実でどこからが幻想なのか、
見定めることがむずかしい。ある種の神話のようでもあるし、巧妙なアレゴリーの
ようにも読み取れる」「空気さなぎ」に描かれた物語はほんとのことか、
と村上春樹さん。


「空気人形」2009年、是枝裕和監督。
隅田川沿いの超高層ビルの下に虫食いのように残る地上げ地。
時間は川を往くだるま船のように平たくけだるくゆっくりと経過する。
都市における、時間間隔のズレを空気人形をとおして綴るセンチメンタル。
作る方はよかろうが、演技者は大変だな。
映像が素敵な割には閉そく的読後。
まだ「嫌われ松子・・」が解放する。
11月27日(日)オペラ座の怪人25周年記念公演inロンドン
R子さんがイムズ13階の”すし磯貝”に案内してくれた。
評判どおりに美味しかった。
映画は8時からであった。
シネコンとは違い、天神東宝はちょっと前の時代の映画館である。
お客も、日曜夜にしては、まずまず入っている。
「オペラ座の怪人25周年記念公演inロンドン」
ロイヤル・アルバート・ホールでの収録された公演映像のスクリーン
上映であるが、臨場感あふれるカメラ編集である。
実際のロンドン公演が一番だろうが、先の映画や劇団四季が吹き飛
んでしまう迫力。
究極の表現が総合芸術となって結集する。表現することの凄さに3時間も
長くはない。
作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽に美術、オーケストラ、歌手、
演技者、照明が会場をも巻き込んでオペラ座の怪人となる。
9月12日(火)かっくんちゃんと竹山さん
三味線から”かっくんちゃん”の話になって、
「かっくんちゃん、見たことある?」とS子さんがいうので、
「見たことある・・」とそう思って来たが不安もアリ。
S子さんがwebで調べる。
そしてyou tubeに”かっくんちゃん”があるというだ。
見るのは初めてだったが、直ぐにピンときた。
S高さんが佐賀にいたころ(1983年)作った番組である。
そして、新藤監督の「竹山ひとり旅」の録画を見る。
新藤組の役者さんがぞろぞろ出ている贅沢な映画である。
旅から旅の盲目の太棹(津軽三味線)弾きの竹山さん。
また、盲目のかっくんちゃんも戦後、佐賀の町を手作りの
一弦重箱三味線で門付して歩いている。
今も語られるが、知る人もだんだん少なくなっていく。
きちんとまとまった資料にもなっておらず、検証もなされていない。
探れば、痛いところマズイところに触れるというのだろうか。
ともかく謎の人物である。
門付で貰ったお金は、口に飲み込み、おにぎりは、砂に転がして
食べたとの目撃談のみがすべてのように語り継がれている。
今となってはK高さんの”かっくんちゃん”が唯一のまとまった資料
ということになる。
佐賀の人間でもなく、呑んでばかり見えたK高さんが多くの人に
インタビューしナレーションを考え”かっくんちゃん”という
人間を浮かび上がらせている。
かっくんちゃんは昭和27年、ある農家でいただいたおにぎりを
農薬の上に転がしてしまい、亡くなった。
ボクは5歳、見ていたとしてもおかしくはないのであるが・・。
見たという記憶だけが先行している。
K高さんに電話したところ、you tubeにあるのは知っているよう
だったが、話は老老介護へと・・。
人間が好きな人である。
9月6日(火)ザ・ハリケーン
「ザ・ハリケーン」(1999)監督: ノーマン・ジュイソン、
出演: デンゼル・ワシントン 、上映時間 145分。
無実の罪によって30年間も投獄された黒人ボクサー、
ハリケーンの実話の映画化であるらしい。
後半に行くほどおもしろくなる。
ノーマン・ジュイソンだけに「夜の大捜査線」「シンシナティ・キッド」
を彷彿とさせる社会派の重厚な熱気が、デンゼル・ワシントン
の演技、光と影の映像からも伝わって来る。星★★★★。
それから、W杯サッカー予選、日本対ウズベキスタンを見る。
1-1の引き分け。まだ道は遠いが、どうなる?
8月30日(火)ツリ― オブ ライフ
新聞評でめずらしく五つ★を見た。
「ツリ― オブ ライフ」であった。
それを見た人が「途中で出た・・」と言ってたが、まずは自分の目でと、
映画館へ出かけた。
まあまあの入りである。
最初からうとうと、瞬間的には何度も熟睡した。
家族、兄弟の関係、バランス、位置がテーマ。
紀元前より生き物はそれを繰り返してきたということであろうが、
恐竜時代の映像だけは詩的に美しかったのだが、他は、どうぞ勝手
にしてくれである。
キリスト教と仏教の違いかなともおもったが、そうでもない。
自然さと説得力に欠け、独りよがりに幼稚ののであった。
カンヌでグランプリというけど、映画に限らず賞ほど当てになら
ないものもない。
西部邁さんと佐高信さんがCS「学問のすすめ」で侯孝賢監督の
(1989年制作)台湾北部の港町・基隆市(キールンし)の近郊、
山あいの町・九?(きゅうふん、ジォウフェン)を舞台にした「 悲情城市」
を語っていた。
批評する人も台湾の微妙な歴史背景を捉えていないというところから、
西部さんのお話で少し台湾のおかれていた状況が判ったような・・。
台湾、中国の歴史などはずかしながら全くといってしらない。
それでも侯孝賢の「 悲情城市」は美しく心に残る。
8月27日(土)新藤兼人監督&ベニチオ・デル・トロ
新藤兼人監督のインタビューを二つ見た。
一つは、あの性格俳優ベニチオ・デル・トロさんがインタビューした
「一枚のハガキ」制作前の97歳のときのもの。
もう一つはNHK渡邊あゆみさんのインタビューで新藤さんが
「一枚のハガキ」を撮り終えた後、98歳の時のもの。
新藤監督、現在は99歳である。
通訳を挟んで黒い革ジャンの監督とデル・トロさんがソファー
に腰を下ろしで向き合っている。
デル・トロさんは新藤監督の「裸の島」はじめ真摯に他の作品
についても感想や質問をする。
銀幕の中よりもステキでかっこイイ人に見える。
最後に「もうまもなく死にますから、いろんなこと喋っておきたい・
・いろんな映画を創ってください・・」。
デル・トロさんが持っていた「ある映画監督の生涯」にサインをして、
やっと満足げに笑われ、「今日はたのしんだからつかれなかったよ・・」
パチパチと周りにいた関係者スタッフから拍手が起こった。
と1時間、和やかなうちに終わった。
その一年後の渡邊あゆみさんのインタビューでは、車椅子で「一枚の
ハガキ」を撮り終え、車椅子での出演であった。
渡邊さんも顔を接近させゆっくりと質問。監督の言葉を目を見て真剣に頷く。
終わって、渡邊さんが「ありがとうございました」とお礼をする。
ここでも監督真顔になって、
「うまくいった!??」
「はい」
「ボクはもう仕事師だから、あのう、仕事の結果がうまくいったか、
いかなかったか、非常に気になります・・」
渡邊さんの気持ちを込めた「うまくいきました」に両手を合わせ満面の
笑みを浮かべた。
同じような内容ではあったが、乾いた心、戦争、おかあさん、原爆は
監督の一生の消えない思い、映像、テーマとして貫かれている。
だけに同じ言葉がテープレコーダーのように揺るぎないのであろう。
師匠とも言える溝口健二監督の「ある映画監督の生涯」であるならば、
新藤兼人監督の生涯は??と99歳、すさまじいものがある。
6月27日 (月)  運動靴と赤い金魚

イラン映画の名作マジッド・マジディ監督の1997年制作「運動靴と赤い
金魚」を見る。
何度見ても心あたたまる。
靴が買えなく、アリ少年と妹はアリの靴を共有している。
アリ少年は地区の少年マラソン大会に3等賞の運動靴欲しさに先生に
懇願し出場させてもらうことになる。
足が速けりゃ3等は簡単。3番目にゴールすればイイのだが、頭一つの
接戦となりゴールになだれこむ。
抱きかかえられ、少年・アリは「3等ですか?」と聞くが、「1等だよ」の返事
にガックリと涙が止まらない。
そこで思いだすのが、シリトーの「長距離ランナーの孤独」である。
感化院の少年はクロスカントリーで一等を目前にゴール寸前で立ち止る。
院長や教官への反逆であった。他人の名誉欲を打ち砕くのであった。
さて、帰ってきた兄アリが何も手にしていないのを見て、妹は黙ってその場
を立ち去る。アリは借家の中庭の荒い場に座り豆だらけの足を浸す。
揺れる水面にキラキラと太陽が輝き、水中では沢山の金魚がアリの足を
癒すかのようにつつく。そこでエンド。暗転し白いクレジットが流れる。
しかし、荒い場のシーンのちょっと前に買い物をして自転車で帰る父親が
映るのだが、その荷台の箱の隙間から白い運動靴と赤い靴が覗くのであった。
金魚だけで終わるには、美し過ぎる。それでもよかったが、父親の荷台の靴
に観客はほっとし、そうであって」欲しいと・・。山田洋次監督のようでもある。
戦後生れのボクとしても貧しさゆえの○×▽はよくわかる。
全世界で絶賛、共感されている。
ボクらのころも裸足や下駄で登校する人もいた。
時代背景がどうこうでもなく、やさしさ、欲の”質”の関係である。
こんな少年を首相や大臣にすればイイとおもうが、このアリ少年も明日は
どうなるかわからない。そこだけを切り取った映画である。それも優れた映画
である。デ・シーカ監督の「自転車泥棒」もそんなきびしい父と子。
4月4日二十四の瞳
今夜はあの国民的映画・木下恵介監督の「二十四の瞳」だった。
これまた日本映画の原形を見るおもいである。
戦争を背景に小豆島を舞台とした女先生と子供たちの温かいふれ
あいを活き活きと描いていく。
壷井栄さんの原作がすばらしいのだろう。
子供ながらに背負っているものは大きい。
それがわけ(理由)もなく流れる子供たちの涙である。
貧しくつらいけど、いっしょに未来へ向かっていこうとするが
、戦争を前になすすべもない。
それでも助け合いひたすら前進しようとした戦後の良き時代ではあろうが、
思い出しても、それでも本質はつらいものである。
”がんばる”って何なのだろう。
4月4日東京物語
NHK BS3で「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本〜家族編」
がはじまった。
以前、映画評論家の西村雄一郎さんと映画の話をしていて、「服部
さんは”東京物語”どうおもわれますか・・」ということで「最初(若いころ
)見た時は、何でこんな単調のんびりがイイ映画といわれるのかわか
らなかったが、
それなりの歳になって、改めて見ると確かにイイのよ・・」と返答したのだが
、西村さんも「そうですよね・・」と似たような感覚であったことを思い出す。
山田洋次監督もそうだったようで「”東京物語”には興味なく、やれ”
七人の侍”だ、”椿三十郎”だった・・」とそして「いつか黒澤さんの
家に遊びにいったら、黒澤さんが東京物語のビデオを腕組みして
食い入るように見ていらした・・」とそのギャップの驚きをうれしそう
に話されていた。
黒澤さんはその姿を山田監督に目撃させ、証人としたかったのでは
と思える場面でもある。
デジタル処理されきれいになった”東京物語”は改めてよかった。
カメラがやたらと動くプリミティブな今の時代に、カメラを固定し一点
から狙う不動の構えは、ぶれない制作者の思想であろう。
役者をどう動かすかである。そうやって見て行くと実におもしろく、決
められたフレーム内での映画創りの基本を見るようである。
海外の多くの映画監督が小津さんにあこがれを手本とするのも
判るようだ。
先般見た小林政広監督の ”春との旅”も”東京物語”を下敷きにし
ているのは、明らかである。
山田洋次監督も小津さんへのオマージュから近々か東京物語のリメー
ク”東京家族”のクランクインだとか・・。脚本も完璧で時代的修正以外
はそのままで、今年12月、公開予定だそうです。

3月22日 (火)春との旅原作・脚本・監督:小林政広 
2010年。出演者 :仲代達矢
徳永えり他。
老人と孫娘・春の居場所を探しての冬の北海道、
東北の旅と言えよう。
老人の兄弟姉を訪ね歩くが、けんか別れの切なさと哀愁の二人。
今は再婚している春の父とその奥さんは本気でいっしょに住むことを
望むが 、二人はありがたくも、脱出を選択する。
現実の被災者問題とも重なって見えて来る。
安住の地に見えた場所からも離れて行く二人。
二人の苦渋のやさしさに見えてならない。
「デルスウザーラ」の狩人・デルスも視力や肉体が衰えキャプテンの
家にあたたかく迎え入れられるが、結局は出て行く。
そこに受け入れられ、イイ方向にいくことも当然あろうが、
あえて出て行く姿こそヒューマン(人間)に見えてしまう。
ハッピーエンドを願いながらも映像的にはかっこいいのだ。
旅人、ホーボー、渡り鳥のクールなニヒルな後ろ姿以上のものがある。
結局二人は増毛の家に戻って行くのだが、老人はその電車の中で果てる。
「真夜中のカウボーイ」で憧れのマイアミを前にバスの中で息絶えるダスティン
の姿ともダブル。

3月22日 (火)「レスラー2008年、監督: ダーレン・アロノフスキー 。
 出演; ミッキー・ローク
、マリサ・トメイ。
ミッキー・ロークの変わりようには驚く。前作の「シン・シティー」でも別人か
特殊メークかとおもったくらいであるからして、あの甘い二枚目の風貌からは
一変している。鍛え上げた肉体ななのか、ボクシングのよるものなのか、
ステロイドなどによるものなのか、変身野獣のように己を酷使しているようである。
その迫力が今までになかったロマンチックさを醸し出している。
それだけでも賞に値しよう。

そして、若かりし日のミッキー・ロークを見る。
「エンゼルハート」1987年、監督 アラン・パーカー。
出演者 ミッキー・ローク、ロバート・デニーロ ・・。
その後、これだけ存在感のあった俳優が落ち目となり
這い上がり「レスラー」で復活するのである。これからもたのしみな俳優には違いない。
2010年
12月23日 (木)ノルウェイの森を見た。
トラン監督の過去の作品と同じく時間は早く流れているのだが、
ゆっくりとしたテンポが独特。
原作を忠実になぞる様に撮ってある。
映像がトラン監督の解釈ということになるのだろうが、深い。
風、雨はお得意で、今回は雪までが登場。
時代は、1968年1969年ごろ。
若い男と女。セックス。未来への鬱屈。どん詰まり。自殺、など。
それでもワタナベは生きて行こうとする。
そして、今日、皆さん昔など忘れたようにこうして生きている。
集中せずにだら〜んと、くつろいで見ればたのしめる。★★★★。
エンディングに「ノルウェイの森」が流れクレジットが下から上に流れる。
プロデューサーアシスタントN美ちゃんの名前もしっかり見ましたよ。
館を出たところでS子さんにN美ちゃんからメールで、「いかがでしたか?」と。
11月9日(火)わたしの頭の中の消しゴム
「私の頭の中の消しゴム(2004年、韓国、監督、脚本:イ・ジェハン)」を見る。
2001年の日本のテレビドラマのリメークという。
若年性アルツハイマーになった女性と大工の男との恋愛もの。
恋に落ちて結ばれて・・、壊れて再び夢で逢う。
大昔に見た”ミコ、マコ”版のようで、どうも苦手であるが、見てしまった。
ボクの頭の消しゴムも日増しに肥大化している。
韓国の映像美と大工役のチョン・ウソンに惹かれた。
最近はこの切なくもハッピーな映画が韓国や日本でもでは流行っているよう。

11月6日(土)じゃじゃ馬馴らし
小倉城堀割の前に近代的再開発ビルがある。新旧が不思議とコラボしている。
その違和感の無さは、人々の流れ、集客群を見れば判る。
川、堀割の景色が自然に人々に溶け込んでいるようである。
そのビルの地下のラーメン通りで「塩ラーメン」食ってから、6階の北九州劇場へいく。
小倉へ来たのは、シェイクスピア喜劇の『じゃじゃ馬馴らし』を見るためであった。
蜷川幸雄演出による、すべての役を男性俳優が演じるオールメール・シリーズ。
キャストが、歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』で麻阿役を演じ、新たな女形像として観客を笑いの渦に巻き込んだ市川亀治郎さん。
これが初めての蜷川演出となる筧利夫さんら多数の個性的俳優さん。
舞台は中世イタリア。速射砲的に長い長い台詞が飛び交う。
筧さんは最初から最後まで3時間、はじけっぱなし。天才・亀治郎さんは比類なき様々なしぐさ、発声法で観客を魅了する。
ラストのカーテンコールがユニーク。歌舞伎調、現代調、そのいずれでもなしと5回も・・。
終わりよければすべてよしというか、さすがである。
8月29日(日)今年初めての「裸の島
昨夜、「裸の島」の話になったので、また家で見てみた。
見るごとに新たに読み解けるものがある。内包する映像のマクロは深い。
本土から桶に水汲んで小舟運び、島の頂上の畑まで天秤棒で水桶を運ぶ夫婦。
よたよたとつまづき転んだところで不思議はない。
リハーサルも必要ない。
演じる以前の問題のようでもある。
転んで桶ひっくり返した嫁に夫はビンタをくらわす。
ある日嫁はわざと水桶をひっくり返し、畑のジャガイモの苗をめちゃくちゃ引き抜き泣き崩れる。
それをちらっと見ただけで、何事もなかったようにいつものように苗に水をやる夫。それを見て立ち上がり、嫁も元通りに水をまきはじめる。
その音羽信子はうつくしい。
島の頂上でのドラムカン風呂、親子4人が食事する。
島からも瀬戸内海の島々が見える絶景。
チェーンで木の根をしばり、丸太をテコに尽力で木の根を取り除く。
一年を通しての島の生活、農作業が限られた映画というの時間の中に見事に映像化されてる。
演技がかなしいということでもない、役者がやっていること自体がフリークの見世物のようにかなしい。無声映画にあって林光のミニマルサンドもかなしい。しかし、映画はその逆を言ってる。
立ち上がり前へ進もうとする人間のたゆまない強さであろうか。だから後味良く、元気がでるのだ。 
7月20(火)オランウータン

NHK・BS世界のドキュメンタリー「グリーン〜森を追われたオランウータン〜」(制作フランス2009年)を見ていた。
インドネシアではパーム油製造のため、森林の伐採が進んでいる
運よく保護されたひん死のオランウータンのグリーンは施設のベッドで仰向けに点滴を受けている。人のようであどけないが、目はうつろで生気はない。
ブルドーザー、トラック、チェーンソーがうなり、森林の巨木がばたばたと伐り倒されていく。
パーム油やオーク材を消費する現代社会。
手当ての甲斐なくく、やがてグリーンくんは死んでしまう。
そして♪欲しいものを買いたいから働くの・・、もっと買いたいの〜♪と・と現代社会を皮肉くるような女性シンガーの歌が流れた。
(その歌詞だけはNHKで邦訳されたとおもうが、ナレーションもインタビューも無い映像と音だけの斬新な演出。

かつてテレビの「やらせ」が問題になっていたころ、
「ドキュメンタリーと言っても・・、真実ではない」と
ドキュメンタリー映画監督の原一男さんがテレビのインタビューに答えていた。「カメラを向ける時点ですでに撮る側の意思があるわけですから・・」と。
今朝のS新聞にもイルカ漁で物議をかもした映画「ザ・コーヴ」についても
原監督が書いていらした。
上映反対運動の影響で上映が中止されるなど「たぶん、日本人の中にはずっと、暴力や、暴力をちらつかせる権力に対して弱い性質がある」と前置きして「ザ・コーヴという作品は、他の人も言ってることだが、ドキュメンタリーではなく、よくできた娯楽映画、プロパガンダ映画だと思う」そして
「いずれにせよ、まず映画は見てから批判すればいいのだ。」と結んであった。
ボクが原文を読んでいるにせよ、こうして抜粋するにしてもボクの切り取り方があるわけで、似たような問題が派生する。
本当は全文を載せるべきであるろうが、そうもできない。
引用は要点や要旨かも知れないが、あくまで部分であり、全体のニュアンスが欠如したりと誤解を招いたり、著作権にもかかわる問題へと発展することもしばしば。
ドキュメンタリーにしても文章にしても同じような性格を持つものである。
「表現の自由」も先々きびしいものである。
このようにインターネットで自由自在に情報を入手できる現代。
マナーは何も守ってはくれまい。
情報や規制や法律にがんじがらめになりそう。それでも生きていく人間。
地獄極楽。
森の住人・オランウータンを横目に。 

6月16日(木)イージーライダー
美協の飾り付けを終え、家に帰ると「イージーライダー」(1969年、監督:デニス・ホッパー)やってた。
アメリカンニューシネマの特集のようだ。
「イージー・・」も何度も書いた。
「ミッドナイト・・」と共通するが、こちらの二人は都会を離れ田舎を旅する。バイクにまたがりかっこイイ彼らだけど、やはり、救われない。
無情にも残酷にも田舎の典型的保守おやじにバイクもろとも”ドバンと撃ち殺される。アメリカでさえ封建的なのである。今も根っこの部分は変らないだろう。

6月15日(火)
真夜中のカーボーイ」(1969年、監督:ジョン・シュレシンジャー
)を見る。
何度も書いてるけど、自分と重なるところも多く、なつかしく当時へとタイムスリップする。
カウボーイスタイルの田舎者(J・ヴォイド)がトランク一つで憧れのNYに出て来るのだが(歌で云えば「セーラー服と機関銃)、思うように行かず、ドブネズミ同然の男(D/ホフマン)と出逢う。
夢破れ、夢を求めてグレイハウンド・バスでマイアミへ向かう二人。
マイアミを目前にバスの中でドブネズミ・ダスティンが小便たれて死んでしまうところは何度見てもつら過ぎる。
そんな二人組の若者が多くいた。
一人が死んでももう一人は何があろうと生きなければならない。
この映画のテーマであろう。
そんな当時の若者たちが還暦を過ぎどこかでみんな生きている(はず)。
テーマ曲 Everybody's Talkin'(うわさの男)、 The Midnight Cowboy Theme (ミッドナイトカーボーイのテーマ)、泣けるなぁ。 
 

5月31日(月)イージー・ライダーのデニス・ホッパーも亡くなった。
青春の黄金映画・イージーライダー、ミッドナイト カウボーイ、卒業、冒険者た、2001年オデッセイ、ウッドストックと色々あるが、当時ヒッチハイクをしていただけにイージー・・は特別な感慨がある。あれが”アメリカンニューシネマ”と勝手に名付けられたDホッパー脚本監督のベトナム戦争に対してのヒッピー映画であった。
Dホッパーは地獄の黙示録でも長髪のヒッピーカメラマンであったが、次に見たスピードでは、髪を切り落とし、怖い怖い悪役になってた。
イージーライダー以後は、苦難の道のりであったようだ。
スピードに顔を出すまでに長い年月の空白があった。
享年74・・?とは驚き、もっとボクに近いと感じていただけに・・。
それではPフォンダは何歳になるのだろう・・?
あこがれの素敵な人たちが群れ飛ぶ「イナゴのように去っていく。
その食いつくされた空間に入れるものなら・・、ああ、耕すしかないか・・。
ロック、カントリーが気ままに流れ、名実ともにJニコルソンのデビュー作でもあった。”ワイルドでいこう”か・・。
4月20日(火)コマンドー
映画を見ない日は、たぶんない。
繰り返し繰り返しなん十本が放映されてるが、
新しいのでこれというのもなかなかない。
以前見た好きなものを流してるだけ。
当時福岡のH田氏と見たのが「コマンドー}だった。
あのころは毎週のようにH田氏がやってきていた。
一気盛んなボクらであった。
シュワちゃんも若かい。今見てもおもしろい。
クレジットに出るスタントマンの数が尋常じゃない。
100人ぐらいずらずら続くのである。
そのうち、、スタントマンに変って、SFXやVCGの職人の名ばかりになった。
手作りは、ぴたっとはいかない歯がゆいエネルギーの統一ていうか完璧さがある。そこにリアリティという迫力を感じるものだったが、テクノ技術っていうのは単なるパーフェクトであって、そこを危うくするには、A・ウォーホルが言ったように人間が機械になるしかないようだ。
そう言えば、シュワちゃんのぎこちない動きは機械のようでもあったな。
マイケル・Jしかり、最近は平田オリザさんの「ロボット演劇」ってのもある。
 
3月4日(目木)ブリキの太鼓フォルカー・シュレンドルフ監督、1979年。「真昼の決闘」フレッド・ジンネマン監督。1952年。 「ブレス」キム・ギドク監督、2004年。「ベン・ハイ」ウイリアム・ワイラー監督、1959年。を観る。
見るたびに見落としていた場面、解かりにくかった部分が見えてくるものであり、時代背景も少なからず知っていれば、意味もおもしろさも増す。
2月22日亜8月)歌舞伎
午後、娘たちとキャナルで合流。河端商店街を通って博多座へ。
獅童、染五郎、亀治郎共演の歌舞伎があるというので、娘たちが手配をしてくれた。

前列右側から役者の細やかな表情が見てとれて、さすがうまいもんだと、別世界の数時間であった。
休憩時間に席で弁当が食えるのも歌舞伎ならではのよさ。
夜、ピアノバーでアメリカ人のシェイプ オブ マイハートなどを聴きながらジンライム
夜が更けた。 
2月22日(月)歌舞伎
昼の部は亀治郎さんがメインらしく、この際見ようということになり、
当日券を買う。後方ではあったが花道の席。
手を伸ばせば触られるところをドアップの役者がいろんな形相で行き交う。
これまた迫力である。
炎上する館をバックに亀治郎さんが蛇の化身となって宙づりで飛んでいく場面で金銀の紙吹雪が舞い散る。
ばらばらと花道に降り落ちるので、それを記念に5枚拾った。
5p×2pのきらきらテープである。
長方形であることがゆっくり舞い落ちるミソのようだ。
役者さんたち、マイクもつけずに生声で後ろまでよく届くものだ。
獅童さんは地顔通りの轟声。亀さんの七色の声もよく通る。
亀治郎さんは小柄だが、アドリブともおもえる表現が個性となって観客を沸す。天才的亀治郎さんである。
二日間、イイ夢を見させていただきました。
明日も元気にいきましょう。 

2月19日(金)アバター
ひさしぶりに映画館へいった。
J・キャメロン監督の3D映画「アバター」を突然、見ておかなくてはと男子フィギュアースケート決勝をそこそこに駆けつけ、車中で高橋選手の銅メダルを知る。
3Dメガネを受け取り場内に入る。予告編が始まってた。ガラガラと読んでいたが、三分の一が埋まる大入りなのだ。
3Dメガネをかけると大画面が少し収縮したように感じる。
立体映像で奥行きが派生するからなのか・・?
最初から最後まで3Dの臨場感でおもしろかった。
「2001年宇宙の旅」「スターウォーズ」「ターミネーター」とSFX,VFXの発展、転機はあってきたが、いきなりの超大作{アバター」は今まで見たこともない3Dの世界へと突入し、観客を3Dへと引き込んだ。
想像力を3Dが創造を可能にした。
終焉のクレジットに制作にかかわった数百人の職人、技術者それに会社名が列記されるのだが、一大芸術である。
従来のCG映像は最早古典か・・。
内容は「もののけ姫」というところのようだが、3Dにすることで映画=動画のおもしろさを存分に発揮している。
こうなるとヴィジュアル映画は3Dで、という方向に進むのかも知れない。
J・キャメロン監督は今後3D映画しか創らない、と言ってる。 

2月11日(木)「聞こえるのは君の歌声
2000年 監督:サリー・ポッター。
はじまりがよかったので見ていた。内容はしっとりと重厚、しかし、山場、見せ場がない。狙ってそうしたのだろうが、後半ダレたね。女性監督だからということでもないだろうが。


1735km 」2005年 監督:グエン・ギエム・ダン・トゥアン。
ベトナム映画である。知り合った若い男女がお金を盗られの貧乏ロードムーヴィー。
これこそ、見せ場もないが、からっとすがすがしく、どこかなつかしい。人間の本質を抑えての映画である。
ベトナムの希望というか明るさがつまっている。


猟奇的な彼女2003年監督:クァク・ジョヨン。
これまた現代の若い男女の韓国映画である。
しつこくくどい辺りは最近の日本映画そっくり。
どこにでもあるような作りごとの青春モノ。
見るならベトナムの「1735km 」である。


父親たちの星条旗2006年 監督: C・イーストウッド。
”硫黄島の戦い”2部作の一本目。日本人として見なくても「硫黄島の手紙」がイイ。
「硫黄島の手紙」もそうだったかも知れないが、モノクロに近いカラー作品。セピア色の懐かしさ、郷愁とはちがう。
夕暮れ時の佐賀の干潟の風景である。


地獄の黙示録 特別完全版
朝焼けに出撃していくヘリ部隊の映像だけでもしてやったり。コッポラ監督が乗りに乗ってたころである。
いい加減さはあっても創るってことは妥協を寄せ付けない。
ラストは神殿が砲火に炎上瓦解し、ジム・モリスンの♪THE ENND
♪が流れる劇場公開版の方が好きだな。
ディレクターカット(完全版)では最初のシナリオ通りに戻してある。コッポラ監督のこだわりか? 

1月15日(金)トンマッコルへようこそ
製作 2005年 韓国
監督 パク・クァンヒョン
音楽 久石 譲
出演 シン・ハギュン チョン・ジェヨン カン・へジョンほか。韓国でも最高に当たった映画だが、見たのは今回が初めて。
朝鮮戦争期、南北の境界山奥に子供のように純粋な人々が暮らすトンマッコル村はあった。
その村で南北の兵隊が遭遇し対峙するのだった。
手榴弾が穀物小屋を吹き飛ばすが、トーモロコシがポプコーンとなって雪のように降りそそぐのであった。
いきなりのラストのような始まりに引き込まれる。
やがて兵士たちは南北の垣根を超え「○○さん兄貴と呼ばしてくれ」とこころを許し、軍服を脱ぎ村人たちとも共に生活するようになる。
敵、味方のラッシャー木村がある日突然リングでマイクを握り、「馬場さん、俺の兄貴になってくれ、兄貴と呼んでもイイだろう」といったようなもので、くすぐったくもほのぼのとした雰囲気がその先の予兆となる。
しかしその結膜は両軍の兵士がトンマッコルを爆撃から守らんと、B29の雨あられの爆弾に玉砕するのであったが・・。
「JSA」"Joint Security Area(共同警備区域)" 2000年制作、
監督 : パク・チュヌク  出演 : ソン・ガンホ 、 イ・ビョンホン 、 イ・ヨンエ 、 キム・テウ ほか、でも両軍兵士の友情がテーマだった。
南北分断の象徴である板門店。ふとしたきっかけから許されざる友情を育む事になった南北の兵士達の交流と顛末を描いていた。
日本人の感情、感性となんら変わらない、その度合いが韓国、朝鮮の方がちょっと強いか・・。
日本でもこのような脚本が書けないのかともおもうのだが・・、背景にある南北戦争、民族分断の現実が架空の脚本にリアリズムを挿入するのだろう。
豊穣化する社会では人のつながり、心が希薄になっていくのだが、そこをいくらほじくってもマスターベーションみたいなモノばかりが次々創りだされるだけではないか、と皮肉の一つも言いたくはなるね。
それからすれば、佐賀出身「いつか読書する日」「のんちゃんのり弁」の緒方明監督に期待したい。 

1月8日 (金)石中先生行状記
映画は相変わらず連日見ている。
見てない映画も多いが、掘り出し物はなかなか見当たらない。
その点からすれば、昔の映画は日本を問わず安心して見れる。
職人芸というかワザが一丸となって映像を創っている。
女優さんも今日とは異なり実に女優さんであり、銀幕のスターとして輝いている。
「石中先生行状記」監督:成瀬巳喜男、1950年。
3話構成になってる。若き三船敏郎が内気な農夫役で登場。ちゃきちゃきの岩木娘・若山セツ子に恋をする話なのだが、もっと見たい。
シリーズ化され、別監督で3作があるようだけど、見てみたい。
どこか、ユーモアがあり元気で、山田洋次監督がねらっているもののようである
2009年
12月15日 (火)すずめの唄
S画材屋さんにいったら、帰省した大学生の息子・Aちゃんが店番してた。
海外協力隊員として来年一月にエジプトに行くという。
農業指導というのにはおどろき。
道はいろいろある。
どれを選ぶかであろう。がんばれAちゃん。

「すずめの唄」監督:マジッド・マジディ 2008年 イランを見る。
ダチョウの飼育員、バイクタクシー、運送と、働き者のお父さんだが、廃材が崩れ大怪我をする。
「運動靴と赤い金魚」(1997)よろしく、子供たちが大量の金魚を飼育するが・・。
貧富の差の激しいイランの映画を見て、ほっこりとするなんて・・。それでイイのさイイ映画だから。
12月3日 (木)「そうかもしれない」2005、監督:保坂延彦。
全然、夫婦に見えないが、夫婦役の雪村いづみ、桂春團治の演技が上手い。
矛盾するけどそこがイイ。
奥さんがだんだん痴呆になっていく。
その世話をする作家の主人といったこれからの老人問題。
カットのつなぎはどの映画でも上手くやってるけど、この映画のそれはカットとカットの顔の表情が自然につながっている。
スクリプターが細心の注意を払ったとおもわれる。
つなぎの部分に職人を感じるのもあまりないだけに。
10月8日(日)アポカリプト
メル・ギブソン監督の「アポカリプト」(2006年)を見る。
もちろん、コッポラ監督のアポカリプスではない。
予備知識が全く無かったもので、最初、どこの国の映画だ?と首をかしげた。
出演者は南米人のようだし、聞いたことのない言葉であった。
撮影も従来のアメリカものと異なっていたのだが、大がかりな仕掛けにてアメリカ製では、と・・。
特殊メイクがむごくよくできていた。そういえば「パッション」か。
走る、逃げる、窮鼠猫を噛むは映画の醍醐味。
おもしろくスリリングな根っからの娯楽映画でたのしめた。 

10月28日(水)長い散歩
緒方拳主演、奥田瑛二監督作品 2006年公開「長い散歩」を見た。
1962年制作の「シベールの日曜日」の現代版とも言えよう。
緒方拳さんが「ラストシューティング」のジョン・ウェインにも見えた。
「復讐するは我にあり」「鬼畜」が印象深い。
映画の可能性を探っている。社会が抱える諸要素を多く盛り込んである。それでいてすきっとイイ味をだしている。
退職した元校長と幼児虐待をを受けてる天使の羽をつけたサチちゃんがホントの空を見に逃避行の旅にでる。
細部にわたり丁寧に撮ってあり、奥田監督の俳優魂と美的センスが神々しく骨格となっているよう。編集もイイ。
駅舎の前を群れ飛ぶ虫、二人の目の前を横切る鳥などCGもさりげなく効果的につかわれているよう。
現代において神がかりにも近い心の通い合いは創造の世界でしか見ることができないものなのか・・。
「パリ テキサス」「心の指紋」」「許されざる者」「弓」「ストレイト・ストーリー 」「歩く人」などなどとどこかで重なる。
全編に流れるミニマルサウンドのピアノもイイ。
いや、日々ささやかにも、見えなくも人々は心を通わし合ってているはずなのだが、それを切り取って拡大して改めて見なければならないという現代。
それも、その時だけで直ぐに煩悩の現実。 

9月9日 (水)<NHKアジアフィルム・フェスティバル
「MySon〜あふれる想い〜」韓国。
「Orz ボーイズ」台湾。
どちらも、少年たちと変なおじさんとのおかしくも切ない交流物語であった。おじさんの背中にトラの入れ墨があったが、金さんが今描いてる白虎にそっくりなのに驚いた。
邦画で言えば「菊次郎の夏」てところか。
子供と変なおじさんというだけで、おもしくないことはないね。
「僕たちのキックオフ」監督:シャウキャット・アミン・コルキ、2008年、イラク、日本。民族同志の対立が繰り返される仲、クルド人の青年アスーが少年サッカーの民族マッチを企画するが・・。

映画はアジアだな。
9月8日 (火)「小説家を見つけたら」監督:ガス・ヴァン・サント  2000年。
ショーン・コネリーふんする小説家とバスケット選手の高校生が出会う。
高校生は小説家と交流するうちに隠れた文才を発揮するのであった。
ショーン・コネリーはうまい俳優だ。
J・ボンドにはじまりいろんな役をこなした。
かつて「笑っていいとも」にハゲ頭で出てきて、ボンドがかつらであったことを明かしのにも驚かされたが、ただものではない。生きが長い。
小説家は「書く時は何も考えるな・・」と言う。
小説家とバスケ高校生の交流と友情のストーリーだが、根底にあるのは”言葉で考える”ということのようだ。
バスケットをやるも、精神的に挫折しそうになる高校生だが、詩を書くことで自らを立て直していく。
小椋桂さんの「流されはしなかった」という歌がある。小椋さん曰く、だらだらと過ごす学生生活に見切りをつけて東大のボート部に入ったと。
ボート部時代のおもいであり、流されは・・は甘酸っぱい青春との別離の歌となっているようだ。
当時、小生の下宿に日体大体操部の学生さんが入れ替わり遊びに来てたが、
体育界系には似遣わぬ繊細な感性の持ち主が多かった。
でもなければ画学生の下宿屋などにわざわざ来ることもなかったろう。
オリンピック選手の剣持、塚原などの陰で彼等も演技を模索し言葉を探しているようだった。
8月7日(金)「ドリームキャッチャー
スティーブン・キング原作、ローレンス・カスダン監督)は意外にもおもしろかった。しかし、2度見ることはなかろう。S・キングの小説はどれくらいの数、映画化されてるのだろうか・・。ポピュラーなところでは、シャイニング、ショーシャンクの空に、スタンドバイミー、ミザリーかな。ドリームキャッチャーはスタンドバイミーのその後といった感じ。
6月22日 (月)「殺し監督:小林政広。
これまた、「歩くひと」同様、雪の増毛が舞台。
殺し仲介人と殺しを実行するリストラされた男とその嫁さんの坦々とした日々。
実際に現実では起きてる事件だが、非現実に見えてしまうところが、監督の狙いとは裏腹にブラックユーモアで暗い内容ながらも面白い感覚。
雪に閉ざされた増毛という町が監督にとっても越すに越せない故郷なのだろう。。

6月12日(金)絞首刑」監督:大島渚 1968年。
当時、池袋文芸地下で見たのかな。
一言一句、聞き逃すまいと若い観客たちは食い入るようにスクリーンに向かっていた。
判らずとも、時代感が若者の心を捉えていたように思う。
今改めて見て、ばかばかしいぐらいおもしろいのに気づく。
奇喜劇なのであった。さすが大島さんと言いたくなる。
国家とは・・、朝鮮人の死刑囚・RはRでなくなっていく。
繰り返される「R」の響きが脳裏にこびりついていて、1982年にボクが描いた鉛筆の絵の題名を「鉛筆R」にした。
まだ、Rの響きがリアルティをもっていたようだ。
赤鉛筆でもあったし、REDでもあるのだが・・。
そして「鉛筆R」は見事、県展で審査員・針生一郎さん宇治山哲平さんにより一席となった。
国家の中でRがRを喪失し一人歩きすのは安部公房の「名刺」でもある不在性、不在の部屋なのだ。
アイデンティティイが言われるころには、自己だの自分探し。しかし、アイデンティティイなど個人には無きに等しく、勝ち取り得るものでもない。
まだ読んではいないけど、「1Q84」にしても同じ線上にある現在の不在性ではないのかな、とふとおもった。
RがRを喪失し一人歩きすのは安部公房の「名刺」でもある不在性
「絞首刑」は密室劇かとおもえば、街中でのゲリラ撮影を敢行して、退屈しない。名優揃いの会話劇である。
「今日は所長、御苦労でした。よく勤めを果たしてくれました。教育部長、あなたも、保安課長、あなたも、あなたも、あなたも・・、この映画を見て下さったあなたも・・」。
6月8日 (月)「フライ・ダディ」監督:チェ・ジヨンテ、韓国。
飛べよ、おっちゃん、オヤジ版ベストキッドといったところか。
娘を校長の息子に暴行されたが、何もできない気弱なサラリーマンの父親。
高校生のワルが師匠となり、気弱な中年サラリーマンを闘う男に改造していく。やがて太っていたオヤジは筋骨隆々の体となり、娘の仇打ちを果たすのであった。
高校生が師匠になり、また目上の大人に命令するなど儒教に反すると見えるのだが、ラスト、高校生の師匠はオヤジさんにに頭を下げて言う
「ダディ、コマスミダ」と・・ハッピーエンド。
単純明快な娯楽映画でたのしめる。
しかし、子供をおもう心は強いけど、現実は映画の主人公のように自信なげではないのか。
長いものに巻かれ、金で片付けられたり、どうでもイイ法律に従わされたり、大人のように演じているだけで、現実では決して大人らしくないと泣いているのが普通の「フライ・ダディ」ではないの。
重いテーマを娯楽コメディーにしたところが上手い。
6月8日 (月)「歩く、人」監督:小林政広。
毎日、男は遠い雪道を歩いて水産試験場の「関係者以外立ち入り禁止」もおかまいなく成長する鮭の稚魚に会いにいくのであった。
それさえ決まれば後は何をくっつけても映画になる。
ここでは北海道の増毛に住む頑固おやじと息子たちの何処にでもある上手くいかない親子関係をくっつけてある。
歩く、走るは健康面だけじゃなく、ムービーの基本だね。
2009年6月4日 (木)夏至
トラン・アン・ユン監督の「青いパパイヤの香り」きむらたくやラスト36分と「夏至」を見る。ベトナム映画はほとんど見た事無いだけに瑞々しい。
同監督の最新作「I come with the rain」に出演した木村拓也さんが「雨といっしょになのに雨のシーンがない」と言ってたけど、パパイヤも夏至もよく雨が降ってた。ベトナムは雨が多いことだろう。
戦火を逃れ5歳で母とフランスに亡命したという監督であるが、舞台はどちらもベトナム・サイゴン、ハノイ。「地獄の黙示録」とも違う。淡々と現在のベトナムの兄弟姉妹を描いている。フランスの香りは無い。ホウ・シャオ・シェンが小津に傾倒しているように小津的と言える。
いや、成瀬巳喜男監督の「女人哀愁」を見ていたら成瀬監督にも似てると・・。でも東アジア寄りでなくどこか中近東寄りにおもえる。
Hな会話もHなシーンもカーテンをそよがせる風のようにさらりと・・。
「ノルウェイの森」をすでに見ているような気になった。
2009年5月27日 (水)「愛の予感」(モノクロ)監督、脚本、主演:小林政広・・.
この手の手法の映画は、どれと思いだせないが、よくある。
それでも見てしまうのは一種の催眠かも・・。
同じ行動の繰り返しは、原初的であって前衛であるとおもう。
繰り返すんだけど、そこには時間が流れている。
内容はなんであれ手法である。
若いころ見れば惚れぼれしただろうが・・。

「エンド・オブ・バイオレンス」(1997年制作)監督:ヴィム・ベンダースを見始めた。よさそう。
2009年5月23日 (土)デス・プルーフinグラインドハウス
「秘密と嘘」「麦の穂をゆらす風」。いずれもパルム・ドール作品。
最後まできちんと見た事無い。辛抱しきれず毎度途中で変えてしまう。
今回もそうだ。繰り返しどこかのチャンネルでやってる。
このところ掘り出し物になかなか出会わない。
これだから映画館へも足が進まない。
ならば、自分で作るかと軽くおもったり。
「デス・プルーフinグラインドハウス」はおもしろかった。
タランティーノ監督・脚本。
いろんな映画を下敷きに、それ以上におもしろくしている。
妄想というか独りよがりな空想を映画の現実にしてしまう。
ここで止めておこう、というような作り方ではない。徹底的にやる。
「パルプヒクション」がそうであったようにハチャメチャな展開とストーリーは天才的。
「内容の為に破らない規則はない」と偉大な作曲家も言ったようにアートは前進あるのみ。
ご承知のとおりアバンギャルドも軍隊の最前列の「前衛」の兵隊のことである、とかつて古沢岩美さんから聞いた。
それであってタランティーノはカット、編集が緻密で、映画からは外れない。見る側の気持ちを判っているのか、暴力もバイオレンスもエロチカもド演歌魂で奇妙に明るく吹き飛ばす。
アンディー・ウォーホルに似ている。
当時、相手にされなかったウォーホルの娯楽映画も今なら・・、どこかで特集やらないかな・・。
さてさて演歌魂は娯楽に通じるようだ。
日本人としては何魂を持てばイイのか。
ゲルマン魂、アラスカ魂、ケルト魂、イスラム魂、マオリ魂?????
5月7日(木)街のあかり
録画していたアキ・カウリスマキの「街のあかり」(2006年制作)をダビングしながら見ていた。主人公の男がレストランの皿洗い場に立って皿を洗っている。トレーに皿を並べ、熱湯シャワーでざっと汚れを落とし、ウォシングマシンにトレーを押し込みふたをして洗浄のスイッチを入れる。その風景はまさしくボクの40年前を見ているようであった。現在ではなく過去の時代の何をやってもうだつの上がらぬ男の灯っていうのだろうか。ギャングの親分の車も古い型だったし。自身の体験とはいうまいが、フィンランドの監督も一人の冴えない男をじっと見ている。実際のフィンランドはアキ・カウリスマキが表現するよりはあかるい。ヒッチハイクでヘルシンキを北上しラップランドからノルウェーに入った。そして、スウェーデンでのストックホルムで皿洗いを半年。
4月3日BU・SU市川準監督追悼「BU・SU」2008年、昨年亡くなった市川準監督の映画初作品1987年。題名からして今まで何度も見る気がしなかったのだが・・。富田靖子 主演。脚本:内館牧子 。初監督作品とはとてもおもえない・・、おもしろかった。先が読めないところがイイ、暗さを引きずって、尚、風のような作品である。
2月「20日(日[ツォツイ監督・脚本 : ギャヴィン・フッド 、南アフリカ、2005年。アパルトヘイト撤廃後の傷跡がまだ残るヨハネスブルグの スラム街に住むツォツィ(不良)がと呼ばれるリトルギャングのお話。盗んだ車の中にいた赤ん坊によりツォツィが目覚めていく過程が、先進国の人間には見どころだろうが、・・現実に平等化しない社会の過酷な矛盾を告発している。
「2月「20日(日)ペレ監督・脚本:ビレ・アウグスト 1987年デンマーク・スウェーデン合作 100年前の北欧。貧しさ故に、スウェーデンからデンマークに移住してくる少年ペレと父親の物語。北欧の雄大な自然と四季の移り変わりが美しく、デルスウザーラでもある。やがてペレは父を残し厳冬の身も凍るような雪の荒野へ旅立っていく。
「2月「20日(日)ミッドナイトエクスプレス監督:アラン・パーカー、脚本:オリヴァー・ストーン 、1978年イギリス、トルコ。ハシシ所持で投獄された青年の実話。何度見ても絶対体験したくないとおもう。税関を通る度にそれがよぎり、ぞくっとする。当時、ご当地にもそんな青年がいると聞いたことがあるが、どうなったのであろうか。
2月9日(月)帝銀事件
熊井啓さんの作品をCSでやってる。
昔に「黒部の太陽」などは見たことあったが、ほとんど見てない。
社会派といわれるた監督だけに、妥協のない執拗な映像創りだ。
「酒が入ってはいらしたが、尋常ではないすごい人ですね。コワイぐらいですよ。みなが引き上げても朝まで呑んでありました」とかつて古湯映画祭にゲストでみえた監督の存在感を映画祭のスタッフのO歯さんから聞いたことがあった。
「海と毒薬」「帝銀事件」は本で読んだことがある。
映像化され、沈潜する作家の思想や本にあるよさが喪失する映画が」多く、当たり前なのだが、熊井監督は例外だ。原作と同等か、それ以上なのである。一時として休まることのない創造と社会へのへの渇望なのであろう。
2008年
12月4日(木)「鰐」「弓」「絶対の愛」
ハードが一杯でキム・ギドクの「鰐」と「弓」をダビングした。現在は10回までコピーできるそうだが、うちのHDDはコピーじゃなく移動の1回きり。最初っから10回でも20回でもにしておけばイイものを、著作権は当然だが・・だれが決めてんのか・・やることバカ、あほだね。「弓」はイイ。「春夏秋冬そして春」ってとこかな。キムギドクの人間観は、冷酷に男女を剥がしていくのだが、いつの間にか見えてくるのは自然の男女の形。やさしさなんてものじゃないポキッと折れる芯の存在。大した監督だ。
10月24日(金)ROOKIES
星 一徹か・・! 野球ばっか見ている。プロが一種本気になってやってる戦いは内外ともに見れる。運もあろうが、勝負師たちのの真骨頂。TBレイズの岩村選手に応援してる。久方ぶりのサムライの登場。あれぐらいには・・とだれもがおもって生きてきたのだろうが・・、だから彼にどこかで託している。それがプレッシャーにもならない強靭な男に見える。強靭さとは裏腹にその逆を持ち合わせていると判るだけにサムライである。そこへ届いた者がそうであり、だれもが、そのすぐそばにはいるはずなのである。「遠くて近い」はこんなところにも感じる。映画「メジャーリーグ(シリーズ)」も馬鹿げてておもしろいが、日本のTVドラマ「ROOKIES」といのもワルガキが甲子園を目指す話で、漫画じみてるけど、見てしまうおもしろさがある。漫画だと片付けられない魅力がある。大金かけたドラマっちっくな映画より大切なものを総合的に秘めている。役者も監督もすぐれている。規制の映画やなつかしい韓流映画ともちがう何か内包する。片隅や身近なところっでも結構新鮮なものを発信している個人、連中がいるのである。枯れるのは簡単だが、若い感性にもついていけたら・・とおもう。
10月23日(木)ランボー3
「ランボー3」をやってた。内容はどうでもいいが、ラスト、暗転しクレジットが流れはじめ、ハッとした。そのBGMがかつて働いていたストックホルムのディスコの閉店を知らせるホリーズの「He Ain't heavy He's my brother」であったから。「あいつは煩わしくない、なぜなら兄弟だから・・」とセンチメンタルにスローな曲はヒッチハイカーの心にしずかに沈潜した。そのレコードを持ち帰り友人らに披露したけど、反応はイマイチ。音楽の好みは特に千差万別。ランボーで歌っているのはホリーズではなかったが、枯れたしゃがれ声も渋い、だれだろう。それにしても、「ランボー3」は1988年・もう20年も前の作品。
2008年9月3日(水)「パフューム ある人殺しの物語
「パフューム ある人殺しの物語」2006年スペイン ドイツ フランス / 監督:トム・ティクヴァ。不遇に生まれたが、臭いをかぎわける変質男が危険な快楽のパフュームを作りだす。かなり気に入った。☆☆☆☆。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 監督ヴィスコンティ何度も見てるが、完見したことはない。白黒映画なのがイイね。☆☆☆。「ファイナル・カット」FINAL CUT:1998年、イギリス監督:ドミニク・アンチアーノ。ジュード・ロウが死んだって・・、友人たちの恥部をドキュメンタリータッチにさらけ出す。☆☆☆。
8月28日(木)Vフォー・ヴェンデッタ監督;ジェームズ・マクティーグ?舞台は近未来のロンドン。。『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟が製作と脚本を手掛けたというだけにスリラーと映像に引き込まれる。ラスト「理念」「希望」というキーワードが示される。古い映画で「禁断の惑星」(監督 フレッド・M・ウィルコックス、制作年 1956年)というのがあった。 「潜在意識と自我の関係」という心理学的なややこしいテーマをSFとしての状況設定を持ち込むことで、「イド」の理念で表した。また、「2010年宇宙の旅」では浮遊するモノリスを理念としての生命体・「希望」として説明した。と昔からあるテーマである。がそれだけに難しくスベルことが多い。「Vフォー・ヴェンデッタ」はそれを早いテンポとCGで見せおもしろかった。民衆の「理念」「希望」が「イド」となって悪政を吹き飛ばすという、ちょっと破天荒な結末ではあるが、英国の国会議事堂・ウェストミンスター宮殿が爆破炸裂するシーンは生々しかった。
2008年7月21日(月)東京オリンピック
テレビで映画「東京オリンピック」やってた。東京や人々の日常がふんだんに盛り込んである。オリンピックの記録には間違いないのだが、東京と言う映画なのである。あのころもまだまだ、貧しい時代ではあったのだ。小生は高校2年生。思いだすまでもなく、ほんのこの間のこと。聖火リレーを見送る自分が見える。市川崑監督の名作である。
2008年7月17日(木)ダーウィンの悪夢
「ダーウィンの悪夢」(2004年、フランス・オーストリア・ベルギー)監督・構成・撮影:フーベルト・ザウパー・アフリカ中部に位置する世界第2の淡水湖・ビクトリア湖。ドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」の物語は、湖に棲む巨大な外来魚・ナイルパーチに端を発する。ドキュメンタリーは撮る側の操作を超えて、滲み、はみ出し、破裂してしまう現状がある。映像的に凝っていなくても、途中から見たとしても立ち止まらされたり吸い寄せられたりする訴える力がある。世のアートでもそうなのだ、作者の目、狙い、考え方が如実に出る。誇張するにもその必要はない。現実は作者の思想など超えてのしかかるはず。それが何かを伝えるフィルムのつなぎ方ぐらいしか、制作者側には残されまいし、費やすのは調査、撮影の終わりなき時間であろう。没にするか、日の目を当てるかのぎりぎりのシチュエーションでなければなるまい。四谷怪談も怖いけれど、地球は美しくも刻々と真夏の夜の夢・・
5月16日(金)最高の人生の見つけ方(THE BACKET LIST)
まだ酔ってる。映画のポイントがたまっていたので109にいく。「最高の人生の見つけ方(THE BACKET LIST)」ニコルソン、フリーマンとくれば見ても見たくなる。バケツ一杯のリストというのだろう。癌を宣告された余命いくばくもない二人。現実はあれくらい漫画的なのかもしれない、が・・そのむなしさを脚本は書ききっていないようにおもえる。そこを超えてこそ映画の力であろうが、終始老人たちのやりたいことにつきるのであった。その深さはまだ「羅生門」「暴行}を見るがよし。「スタンドバイミー」がよかっただけに監督ロブ・ライナーにも惹かれたのでのであったが、残念、途中睡魔に襲われすやすや。ニコルソン、フリーマンの演技を見るならよし、そうでなくば琴線に触れるものはなにもない。従来の黄昏老人モノと異にしたのだろうが、単に逃げてるだけの映画である。館をでても酔いは覚めず。

4月6日(木)ポストマン
長嶋一茂さんが作った映画である。チケットをいただいたのでたのしみにいってみる。御当地では人気がないようだ、上映してないところもあれば、日に1回というところと、2回のところがあるのみ。上峰ワーナーマイカルへいく。 20人ぐらい入っていた。なかなかのものじゃないか。普段あまり見られないようなイイ映画だった。バイクに乗らない、ケイタイもたない、自転車の配達を信条とするアナログマン。妻に先立たれ二人の子供の父・ポストマン。走るに走る、猛スピードで野越え山越え。親子の絆と一途に時代に乗らない男の存在が映画とは言え美しかった。一茂さんの感性はお父さんよりお母さん譲り?ではないかとおもう。野球以上の才能を多方面に開花さしてる。

2月22日(金)フェリーニ〜大いなる嘘つき
フェリーニ〜大いなる嘘つき(監督:ダミアン・ペティグリュー、2002年)」を見た。フェリーニの喋る言葉は彼の映画に増しておもしろい、生きてる、興味深い。その夜、フェリーニへのオマージュが夢となり、蝶の幼虫やサナギの森で、奇っ怪なる蝶の羽化に立ち会っているのだった
2月18日(月)試験さぼって市川崑
そう言えば市川崑さんが2月13日に亡くなられた。(享年92)いつもタバコをくわえているところしか知らず、その姿は、最も映画監督らしかった。中高校のころに見た「鍵」「炎上」「東京オリンピック」等が印象に残る。中学の試験の期間は早く帰れる。それを幸いに「本屋へいく」と言っては映画館へ(学生帽を深々とかぶり)入ってた。そんなとき見たのが成人映画まがいの文芸作「鍵」であった。セックスシーンで風景は貨物列車の操車場へと一変。貨車と貨車の連結器が「ガチャン」とアップで映し出された。当時、貨車や車両の連結はごく日常的なこと。その音は夜の町内にまで聞こえて来た。鉄道と労働者そして黒鉄(くろがね)。鉄の時代でもあったわけで、連帯と強さの象徴でもあった。列車の車窓から貨車の連結をあこがれのようなおもいで見ていたものだ。鉄と鉄が衝撃的に出会い連結する。セックスがメタファーに鉄塊なのだが、中間試験どころか、新鮮な感覚は学校では味わえないもののようだ。ジャン・ギャバンの「地下室のメロディー」でも似たような経験をした。強盗に入るカジノの下見をするシーンで、まぶたが上下するように眼前の風景が開閉するだけのことだが、マンダムだった。それらの感覚は後に享受したシュールという思想で決着するのであったが・・。ドキュメンタリータッチの「東京オリンピック」は、政治家・一部の人たちにぼろくそに非難されるのたが、世界でKON・ICHIKAWAは賞賛されるのであった。競技場建設に向け、古いビルなどが振り子の鉄球で破壊、解体されていくところから始まった。意表を突く序章に「羅生門」のはじまりのようにぞくぞっとしたものだ。さらには、競技場のトイレやらくがきが下町のように撮られており、ここでもシュールなのであった。「映画を作ってみたい・・」というおもいがぼんやりと頭をもたげた最初のようだ。芸大に3度失敗し、社会情勢は不安定、地平も見えず、自分の居場所さえおぼろ・・絵画の道も映画界の入口さえ見えず、心境は「炎上」の青年僧のようでもあった。しかし、市川監督は挫折、行き詰まりもなきように今日まで映画を撮り続けた稀なる、一見恵まれた監督だ。脚本家で奥さんの和田夏十さんが、あげまんだったということもあろう・・。そうそう、車椅子でまだ撮り続けている新藤兼人監督(95歳)もいらっしゃたっけな。
1月7日(月)CGレジェンド
アイアムレジェンド」を見た。「タミネイター」「タイタニック」で驚いてのだが、プロの集団、工房が創るだけに美術はさすがにすごい。しかし、CGの進歩だけが見え、絵空事にリアリティがない。
2007年

12月28日(金)高橋孝inオーチャード
BUNKAMURAのオーチャードホール。「小椋桂&東京フィルオーケストラコンサート」、そこで孝さんも東京フィルをバックに歌うというのでやってきた。入口で事務所の社長さんに会うと向こうから挨拶してくれた。オーケストラ80人でも十分に満足できるのに、後半は睡魔との闘いで、身体ががくんがくんと揺れていたようで、睡魔と陶酔のうちにコンサートは終演した。会場を出るとロビーの机に孝さんとえりさんがCDサインのためすでに座って待っていた。飛行機の時間がないので行列の整理が行われている隙に「孝さん」と後ろからS子さんが声をかけた。孝さんは振り向いて立ち上がり、「やぁ、どうも、歌詞をまちがえちゃいましたよ・・」と第一声。サイン会の始まる前のしばしの時間。充実感と安ど感が同居したような孝さんの表情はステージ以上にはつらつと羽ばたく鳥のようであった。夜の帳が下りたネオンの街を群衆にまじり渋谷駅へ急いだ。 109、スクランブル交差点の群衆、ハチ公広場の恋人たちと流れは絶えない。それを駅ビル壁面にかかる巨大キャメロン・ディアスのADが見降ろしている。
12月7日 (金)フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」
 
監督:本多猪四郎 (特技監督)円谷英二)1965年。
少年(フランケン)が路上でタクシーに轢かれる。
タクシーの運ちゃんは少年を放置したまま逃げる。
二階の窓から見ていた科学者二人は「大丈夫」と少年に声を掛け、二階から食べ物を放り投げ、こわごわと窓を閉める。
ひき逃げ。助けない。知らんぷり。
これが半世紀前の現実。
確かに車に当てられた人や自転車の子供が叱られてたよ。
ひどい時代であったのだ。今も根本は変わってないような・・。
犬でも猫でも狸でも猪でも蛙、亀でも虫でも同じこと。
12月3日 (月)ベルイマン監督 人生とスクリーン
ベルイマンの撮影ドキュメントを見た。
「ベルイマン監督術 Behind Saraband」
「サラバンド」のメーキングである。
ベルイマン監督を見るのは初めてのこと、このとき85歳という。
難解深刻な映画の舞台裏は学芸会の練習でもしているような和気あいあいの風景。
全てが丹念な手作りで手とり足とりの演技指導と閃きの演出に美術、照明が、さもあるかのごとき現実を創り出す映像世界。
閃きの天才というか、アトリエで描いてるピカソとダブル。
撮影カメラを前に実演していたピカソの映像も貴重だ。
ベルイマンが湖畔をバックに「・・でも、私は自分の映画をほとんど見ません。それは、私の人生そのものだからです。」と歩いて画面から消えて終わるのだが、その湖畔はスクリーンだった。
その4年後今年の7月30日に故人となる。
続いてベルイマン監督の
「夏の夜は三たび微笑む」を見る。
製作年 1955年
製作国 スウェーデン
原題 SOMMARNATTENS LEENDE
時間 109分
公開日 1957-02-01〜
監督 イングマール・ベルイマン

背後にメーキングのベルイマンを感じながら、しかし難解さのない、筋仕立てのたのしい作品だった。
11月28日 (水)三文役者
「三文役者」
竹中直人が殿山泰司やってた。
殿山が出演した過去の作品を挿入しての役者人生。
竹中の声が殿山そっくり、だが、同じ口調のワンパターン。
かつて、新宿で殿山さんに出会った。
鳥打帽にコートのきちんとした身なりで歩いていた。
映画で見る殿山さんそのものだが、気づく者もいないようだった。
U君とボクはまたしても彼の後をつけることにした。
どこに立ち寄るでもなく、延々と歩き続け、地下鉄に消えた。
ただそれだけ。
11月19日 (月)忘れちゃいけない人生座
池袋文芸地下がなつかしかった、と節ちゃんからメールが入った。
ある日、文芸地下にいこうと、すぐそばまで来たとき、看板マンに店に引き込まれ、それが暴利バーで、金もなく散々な目にあった。
コワイお兄ちゃんとタクシーにのり、金策にまわったのであった。
周辺のみなみな様にはたいへんご迷惑かけました。
東口の文芸地下とは逆の方向に「人生座」があった。
名画ばかりの3本立てがたったの100円。
人生ザのファンになり、入り浸ったね。
黒澤や世界の名監督のほとんどを見た。本格的に映画が好きになった場所と頃である。
人生座のオーナーはずっと100円でがんばってた。
いつ、閉館となったんだろう。
100円ラーメンのおばちゃんも博多にいるけど、映画は無理かな・・。
一つは家で見られるようになったことも斜陽の原因。
心躍り、むらむらと、抑えが効かず、俺だって、と寝ても覚めても映画のことばっかっ・・。
絵画にも映画を取りこんだ。今もそうだが・・。
科学と哲学と映画を融合さし、絵画の地平を見る。
不動無比の絵画の構築。
池袋の2大名画座「人生座」「文芸地下」。
心躍り、むらむらと、抑えが効かず、俺だってとなることは、どんなイイ映画を創っても無理かも、時代がそれをさせない時代なのだ、け
ども、みんながんばる。判っていても信じる方向をいく。いくからにはとことんいく。
11月17日 (土)かもめ食堂
娘が持参した「かもめ食堂」を見た。
すごく、演技、撮影が凝っているはずなのだが、フィンランドの朝の光のようにハーフトーンの自然さなのだ。
舞台がフィンランドであることも幸いしたのだろうが、すがすがしくなる人のつながりを見せる新しい感性である。
この季節になると毎年、ボクもフィンランドを旅していたころをおもいだす。もう一度いかなくては・・。
脚本、監督 荻上直子。
以前にも彼女の作品とは知らず「バーバー吉野」「恋は五・七・五!」を
おもしろいと見ていた。
近作「めがね」はどうだったろう?新しい才能にはちがいない。

11月15日 (木)山田洋次監督
NHKBS「100年インタビュー」を見る。山田洋次監督だった。過去の作品から最新作「母べえ」に触れながら、ふるさと、品性、黒澤、小津、人間、家族、笑い、戦争など、山田監督の思想の原点が見える。戦前前後を通しての憂える日本の姿(位置)でもある。かつて、ある新聞に山田監督の”引き揚げと闇物資列車”の思い出があった。その後、詩人の田村隆一さんが寅さんの原点は、引き揚げ列車の風景にあるってなこと??を新聞に書いてたね。インタビュアーの渡邉あゆみさんも聴き上手だね。お二人とも一様東大だったっけっ・・。池袋文芸地下のオールナイトで見た「馬鹿が戦車でやって来る」も、もう一回見てみたい 。

新藤兼人監督もイイ。「新・墨東綺譚」(1992年)監督:新藤兼人をまた見た。当時は出演の墨田ユキのエロ映画まがいの宣伝だったが、玉ノ井通いの荷風の散りれる一生も切なくも人間荷風である。「ブラックボード」監督:新藤兼人1986年中学生の死、いじめに取り組んだ作品。ベテラン俳優陣の中で佐野量子扮する中学生に自然なリアルさがあった。裸の島、どぶ、鬼婆などがイイのばかり。竹中直人が殿山泰司になった「三文役者」(2000年)も面白かった。タコ八郎もいない。若い監督もたくさんいるけど、まだ見えぬ。塚本晋也、阪本順治監督には期待している。
2007年10月15日 (月)フェーンチャン ぼくの恋人
「フェーンチャン ぼくの恋人」2003年 タイ映画を家で見た。
バンコクで働く青年、ジヤップのもとに届いた結婚式の招待状。それは十数年間会うことのなかった幼なじみの女の子イイナーからのものだった。
子供のころのいたずらや遊びを6人の監督がみずみずしくもおかしく描いている。少年時代はいずこもおなじで、なつかしくも描いてはみたくなるものようだが、邦画にもあるけどきれいすぎたりうそっぽくて、ちがうんだよな。
「3丁目の夕日」にしても、「東京タワー」でも。
小津安二郎の「長屋紳士録」なんておもしろい。日本の少年映画もあの時代以後ぱったり・・。
まだ、台湾の「童年往時」やS・キングの「スタンドバイミー」がボクには近い。この「フェーンチャン ぼくの恋人」も時代は新しいがワルガキ度がよくでている。ラスト、青年になったジヤップかイイナーの結婚式にいくのだが、ウエディングベールの中にあった顔は少女時代のイイナーであった。
少年時代バンザイバンザイ。現実はその後のおまけに過ぎんというところだろうか・・。
9月10日(月)黒澤に挑む
つるべ落とし、夜長というけれど、秋も早そう。
暑さも過ぎたし、季節よ!ゆっくりいってくれ。
BSで「黒澤明に挑む 映画監督・森田芳光 椿三十郎を撮る」を見る。
森田監督は小学5年生の時に「椿三十郎」を見て普通の時代劇と違う「映画」というものを意識したようで、森田監督にとって「椿三十郎」はまさに教科書のようなものとのこと。
黒澤さん51歳のときの作品。それをまったく同じ脚本でやるという森田監督は57歳。
日本映画では「椿三十郎」から斬る音が入った。黒澤さんは豚肉を使ったが、今回はさらに凝ってる。
同じ脚本だけに比較して見るのは仕方のないことだが、森田監督が何故にリメークしたかったのかは、まだ判らない、早く見てみたい。
9月8日 (土)HERO
「HERO」の初日だとR子は弾んでいた。
テレビでも人気だったとかいうが、見たことなかった。
初日というが三分の二の入り。
タモリのように一直線に知らばっくれる政治家は現実にいないから、笑えた。
現実の政治家はもっとしたたか爬虫類・・。
でもおもっていたよりは、たいへんおもしろかった。デス。
9月7日(金)そして 裸の島
「裸の島」を見ていた。
離れ小島で農業をする夫婦が毎日のように別の島に小舟を出し、水くを汲んできては、水を天秤で島の頂上まで運ぶというお話。まるでシジフォスのような世界。
”予算もなく役者、スタッフ最小の12人で2ヶ月間、瀬戸内海で撮影した”と新藤監督は新聞に書かれていた。
やるせなく、悔しいけど、だからやる気が起こる何度見てもいい映画である。映画の中の映画だ。
「裸の島」が例外ではなく、戦後はどこも似たようなものだった。投げ出したり、キレたらおしまいなのだ。すがるものもなければ、ただその日をフルに働くだけ。希望という名には程遠い繰り返し。
北高が優勝したということも僕にとってはこの映画「裸の島」と重なるのであった。
8月1日 (水)ミケランゼロ・アントニオーニ
今日は、ミケランゼロ・アントニオーニ監督死去の記事があった。
享年(94)
高校生のとき見た「欲望」はいろんな意味でくり返し見る。
そのオマージュを絵にしたこともある。
テレビでは、阿久悠さんが亡くなられたと伝えている。享年(70)
夜、ベルイマン監督の「沈黙」(1962年)を見た。
中学か高校のころ商店街の橋のたもとで「沈黙」のポスターを
目にした記憶がある。ポスターの女性の顔から暗い変な映画だろうと
おもったのだが、当時はベルイマンが一般の映画館でも上映されたいたのであるから意外だ。
ベルイマンにしては判りやすい作品である。どこかで見たようなとおもうのも、他の監督が影響を受けたり、
部分的にマネテいるからだろう。
影響を受けた人たちが今日も明日も去っていく。
一つの時代の終わりのようだが、続きをやっていくのは生きている者たち
7月31日 (火)ベルイマンの{泉」
今朝の新聞を開くと、なんと、ベルイマン監督も30日ストックホルムで
亡くなったとある。不思議な因縁だ。享年(89)。グナト。
「処女の泉」は当時芥川賞を取った村田喜代子さんの「鍋の中」
と重なって「釜土の中」であった。

夜、モチノキの枝を見ると、
クマちゃんのサナギが他の抜け殻といっしょにいた。
見た瞬間に抜け殻でないことは判る。
遠くからでもギンヤンマのオス、メスが判るようなものだ。
机上の知識より、この(昆虫的)勘が日常には役立っている。
ペットボトルに葉の付いた枝を立て、サナギを留める。
じっくり2時間神々しくクマゼミのメスが誕生。
一つが消え、一つが生まれた。
6月19日サバイビング・ピカソ
監督:ジェームズ・アイヴォリー  
出演者:アンソニー・ホプキンス  ナターシャ・マケルホーン /
何人目の妻にあたるのか?フランソワー・ジローとピカソの生活。
ピカソ役のホプキンスはハンニバルにしか見えない。
演技が下手なのか、地が出るのか・・、これを見る限りでは大根。
スケベではあっても、あそこまで不気味な絵かきじゃないだろうに。
6月17日(日) NINAGAWA 十二夜
博多座そばの蕎麦屋で一服する。
歌舞伎を見るのは生まれて初めてのこと、それも三列目中央の席。
『NINAGAWA 十二夜』 三幕 。
蜷川幸雄 演出
W・シェイクスピア作 ・ 小田島雄志訳 より  今井豊茂 脚本
金井勇一郎 装置  原田保 照明 。
主なる出演者
尾上菊五郎 尾上菊之助
尾上松録 市川亀治郎
太鼓、木の音で幕が開き、いきなり舞台総ガラス張りに全客席が映し出された。
ハムレット劇で見せる蜷川さんの手法が随所に見られるが、
基本的には歌舞伎を優先さした演出となっていたとおもう。
ボクなら「ここは」「あそこは」こうするのにとおもいながら見られただけに、蜷川さんが近くに感じられたり・・。
しかしながら歌舞伎役者とはすごい人たちである。マイクなしで喋るし、日本人のしぐさ、舞踊、演劇の基本のすべてが内包されている。
菊之助さんの男女を使い分けるユニセックスな声としぐさには、女じゃなくともうっとりとさせられる。もう、最高!
役者さんと数メートルの距離だけに菊五郎さんと目と目がばったり出会ちゃったりしてり、もうたまりません。
その上イイことは、昔ながらに劇場内で飲食ができるということだ。
幕間に幕の内弁当食って、ショップを覗いたり、気分は子供のころよくいった佐賀劇場にいるみたい。
映画館でさえ物音立てないように緊張する昨今、最高の演技に気楽な観劇は、やはりなくしてはならぬ日本のスタイル。
マナー、モラルを当然のごとく過敏な神経の日本人にはつかれる。ボクもいつの間にか映画館の小さな音も気になるようになってたりしていかんことです。
なくさなくていい物までも、モラルや国際化の名の下に失っていくようだ。
学校に勝手な文句を言うモラルをはき違えた大人が誕生するはずだよ。
能や歌舞伎はおっさんやあばはんになって見てたんじゃ遅いようなきがする。
できることなら若いうちに見ておくべきだ。
感動もすれば湧くイメージも計り知れない。
伝統的ものは古くさく感じたり、また敷居が高かっりするものだが、イイものには大枚はたいても早く触れておくべきである。
若手・海老蔵、菊之助らの活躍が注目される。
5月29日 殯(もがり)の森
「殯(もがり)の森」2007
監督:河瀬直美 
出演:うえだしげき 尾野真千子
劇場よりも早くBShiで見てしまった。
劇場で利益を上げようという考えはないのか。
というより興行師には受けなかったのかも・・。
広く見せるにはテレビに限る。
国際的映画祭で賞を受けたからといっても、作品の多くは
興行的には当たらないのがこの業界の相場のようだ。

風景一つにしても河瀬さんのあたたかい故郷へのおもいが伝わる。
いつも奈良を舞台に風景が堂々と素敵だ。
飾ざりけなく自然や日常をきれいに撮ってある。
そして森と人とが同化し神秘的に昇華していくという・・。
海外作品でも同類を結構見てきたような気がする。
妻に早く逝かれた認知症の男の登場は”今”なのだろう。
「パリ・テキサス」の記憶喪失者・トラビスをおもいだす。
「タクシードライバー」のトラビスではないけれど。
土から生まれ森に帰っていくという普遍的な思想は判りやすく万国共通のようだ。
大げさでもなく、凝るでもなく、撮りたいものを一途に撮ってある。
5月28日 ロスト・イン・ラ・マンチャ
「ロスト・イン・ラ・マンチャ」(’02)はハリウッドの鬼才・テリー・ギリアム監督が「ドンキホーテ」の撮影に入り中止になるまでの撮影現場舞台裏といったもので、現代のA級映画の背景とノウハウが見て取れる。
となると主演は・テリー・ギリアム監督自身でありスタッフであり、ドンキホーテ役のジャン・ロシュホール、タイムスリップしてきた広告マンにジョニー・ディップということになり、出演交渉から契約と様々に準備が始動していく。
総制作費・50億円。天候に左右される砂漠のロケの難航とジャン・ロシュホールの持病悪化で入院に日数と予算がどんどん飛んでいき、様々の保険会社の介入となり撮影無期中止へと追い込まれるまでのメイキングのようなドキュメンタリー。
現代のA級映画の挫折と顛末。
映画「ドンキホーテ」はこうして作られなかった、という映画では?と勘ぐってみるが、事実の映像なのである。
未完のままに終わっているというところが類がないが、是非見たくなる未完の一品である。
過去にもドンキホーテ映画のほとんどが撮影半ばで災いにたたられ、中止に追い込まれたらしい。
それからすれば「アラビアのロレンス」の完成は驚異的である。
5月28日 裸の島
NK新聞に新藤兼人監督の「私の履歴書」が毎日掲載されてる。
ここ3回は「裸の島」のについての内幕、裏話が書かれていて、興味を惹いた。
完成された作品を見るのは簡単だが、低予算でどうやって撮ったかは、決して映画からは解らない。その年のモスクワ映画祭でグランプリ。
今のカンヌを制覇してもおかしくない作品と思う。
5月25日 限りなく透明に近いブルー
「限りなく透明に近いブルー」(1967年 監督:村上龍)
を身ながら、おもいだした。
当時、それに主演したMKさんが、あるテレビ番組で、
「訳の判らぬ、ひどい映画・・(?)」と吐き捨てた。
主演しといてよくも、はっきりとものを言う俳優だナと思わせられた。
そのせいか、本は読んだが、映画は見ていなかった。
今回テレビで見たのだが、確かにつき合ってはいられないけど、
最後まで見てしまった。
中心がなく、下手な未熟な役者と台詞ばっかし。
いいカットもあるが、台詞、られつで間がない。
ハシシとセックス、自由奔放な悩める青春群像も結果的にはウソっぽく、
興ざめする。
5月24日 「 新宿泥棒日記
「 新宿泥棒日記」(1969年 監督:大島渚 出演:横尾忠則 横山リエ等)
があってた。 
当時の時代を唯一敏感に反応して描いていたのが大島さんである。
唐十郎はじめ、赤テントの状況劇場が出ていたのさえ忘れている。
判らないままにヌーベルバーグの旗手とはやされた大島さんに共感していた感覚だけが蘇る。
出演者のほとんどが、今尚、第一線で仕事している。
大島さんだけが、ご病気のようで、表現の”なんたるか”が現に生々しい。

「日本春歌考」(1967年 監督:大島渚 出演:荒木一郎等)
も当時の自分たちに重ね合わせて共鳴したもので、
呑んでは、臆せず、小皿たたいて”かしわの鳴くまでボ○しゅるたい〜”とわめいたものである。

07/5/15「セブン・ビューティーズ」変におもしろいと見ていた。以前にも部分的には見ている。サディスティックなシーンが多く、パゾリーニ監督の「ソドムの市(1975年)」を連想するが、「流されて(1976年)」の女性監督リナ・ウェルトミューラーの作品であった。
2007年1月15日 (月)「Ashes and Snow アッシュ アンド スノー
映像作家:グレゴリー・コルベールが15年をかけて撮った映像。
巨像の上でまどろむ少年。
海中深くマッコウクジラと踊る男。
野生のチーターとほほを寄せ合う赤ん坊。
人間と動物の生命の交信がコラボレイトした瞬間のようだ。
合成の映像にも夢の中の事象でもあるような神秘的な人と獣の生命讃歌・映像詩である。
「このイメージを夢で見られる私は地球で一番ラッキーな人間だと感じます。」
10分で見飽きてしまう自然も15年を掛け、じっと待つたと言う。
写真家:カルチュラ・ブレッソンも「ただ待つ」と言ってた。
信じられない不可思議な映像は「待つ」ことのようだ。
合成やCGで済ませばイイ映画とは根本がちがう。
2007年1月14日 (日)武士の一分」(監督:山田洋次 2006年)を見る。
 「寅さん」同様、リアリティーにこだわらないセット撮影だが、出演者全員が好演、熱演である。
 木村拓哉、その妻・檀れい、下男・笹野高史、毒味役頭・小林稔侍、剣道指南・緒形拳がよかった。
 ラスト、飯炊き女(実は妻)との再会の前のシーンがこの映画のすべのようにスゴイ力をもっていた。
 盲目の侍・木村拓哉と下男・笹野高史、二人が蝋燭の灯る部屋にある予感をもって座している。
 中世の絵画のようでも、舞台劇のようでも、一触即発の核の内部のようにも集中と緊張感が恐縮した魂の映像・ショットであり、山田監督に泣けた。
 黒澤さん亡き後、日本映画の牽引はまだまだ山田監督に負うところ大のようだ。
 家に帰って、流れてた「007・トゥモロウ・ネバー・ダイ」のアクションが箱庭のように見えるのであった。 
2007年1月12日 (金)クリムゾン・ゴールド」監督:ジャファル・パナヒ 2003 イラン
 
ピザの宅配員・フセインはどこかアブナっかしい雰囲気が漂っている。
 イランが抱える貧富の差が背景となっている。
 たんたんとカメラはバイクで配達するフセインを追う。
 ある日突然、フセインは宝石店に強盗に入り、ピストルを発射する。
 この監督・ジャファル・パナヒも北野武やキム・ギドク同様カメラワークに凝らずドキュメンタリータッチであるからコワイ。
 デビッド・リンチの「エレファントマン」はフリーク ショー。
 トイレに追いつめられ「ボクは動物でも象でもない、人間なんだ」と小さく声を 発する。
 ヒューマンビーンも見せかけなの。
2007年1月10日 (水)「コースト・ガード」監督:キム・ギドク
海岸線から北朝鮮スパイが侵入するのをガードする若い兵隊たちと村人との摩擦。
女も男も兵隊もセックスと殺人で精神異常者と化していく、ありそうなアブナイ状況。
これで、キム・ギドクの作品・3本を見た。まだ9本が残る。
韓国では既存の映画界に背き、猟奇的残酷性や性描写が女性軽視とバッシングを受ける異端児。
最近、キム監督は自分の作品を「ゴミばかりを創り出して申し訳ない。映画から身をひく」と
宣言したようだが、キム・ギドクに何が起こったのか。
「春夏秋冬そして春」のように狂気の中にも美しく人を見つめる作品もあるというのに、
キム・ギドク自身が映画の主人公たちのように病んでいるのかも知れない。
映画をゴミと言う彼だが、映画によく登場するアートや絵画はまだ愛しているようだ。
そんな人間もいてイイし、いてくれる方が信じられる。
パフォーマンスじゃなく、次に生きてほしい。
似たようなことは結構、誰もがおもっている。
正道は壊れまいが、人が作ったもの。
生きるとは彼にとっても映画よりリアルな世界なのだ。
映画にリアルや真実を求めるより、娯楽でよかったりして・・。
それでは、なおつまらない。
時代に追いつけない人間のあがきは「みんなでわたれば怖くない」から
格差社会もなんのその、一億総精義とおもいやりの良識人。
2007年1月5日 (金)「悪い男」監督:キム・ギドク
 
田舎から出てきて、日も経たないとおもわれる女が街の真ん中でチンピラに強引にキスをされる。
 それを見ていた兵隊にチンピラはこてんぱにたたきのめされる。
 その後、結局、その女は、だまされ、売春宿に放りこまれる。
 後はよくある筋書きだけど、カメラは男と女をじっくりと見ていく。
 「春夏秋冬そして春」とテーマは共通している。
 ちょっとしたことで道を外れ思いも拠らぬ流れに身をおきはじめる。
 多くの場合悪の道であるのだが、ここでは現実の世界でもあるのだ。
 人間は何故に望みもしないことを歩きだすのであろう。
 しかし、「と、思っているが、それは当人が望んだことだ・・」と
 高橋和巳の「我が心は石にあらず」にはあったとおもう。
 女は「エゴン・シーレ」が好きで画集を離さない。
 エゴ・シーレがキーにもなっている。
 結末は3つ用意されていたようだ。が、チンピラと女は街を離れトラックで売春をしながら旅にでる。
 半島の俯瞰する半島の海岸を小さくなってトラックはいく、赤い幌が点となり暗転、そしてクレジット。
 だが、その赤い点だけが最後まで画面に残される。
 小さな現実。半島の業なのか、恨(はん)なのか。作者の見つめる眼差しを追ってみる。
 どうしようもないものを背負い、それが解るほどに逃げることは必要でなくなる。
 じっとり、どろどろと救われぬ世界なのだが、そこから生きようとする希望みたいなものが見えてくるから、上手い。
 後味がイイのだ。
2006年
2006年12月30日 (土)
シャイニングは冬の間閉鎖されるホテルの管理をする番人夫婦の狂気と八つ墓村であるけど、その若い奥さんはシーンごとに煙草をくわえ、煙もうもうの女である。
 古い映画ではタバコ、その煙も効果的小道具であった訳で、対人がいようと煙を吹きかけるなんて、なんともなく、観客も館内で「禁煙」の照明があろうと、いっしょにスパスパ。
 最近の映画はタバコを吸うシーンが少なく「まだ吸ってんのか」とか「吸っていい?」など嫌煙に気を遣っている。
 映画ではもうタバコをカッコイイものとしては扱わない。
 なのに、ハンドル片手にスパスパやったりケイタイやってるお姉ちゃんたちの勘違いはどこからきてんだろう。
 ある新聞に
 ”モリエールの戯曲「ドン・ジュアン」は熱烈なタバコ礼賛からはじまる。
 「アリストテレスや哲学者どもが何をほざこう、タバコは誠実な人々の情熱だし、タバコなしで暮らすやつなんぞ、生きる値打ちもない」。”とあった。
 今、ここまで言うオバカさんもいまいが、ボクも娘たちが帰省してきて、換気扇の下でプカプカ。味気ないけど・・。

赤線地帯」1956年
 監督:溝口健二
 出演:若尾文子, 三益愛子 京マチ子 木暮実千代

 「ミッドナイトエクスプレス
 ハシシ、麻薬には近寄らない方がよい。
 「シャイニング」監督:キューブリック
 ジャック・ニコルソンがコワイ。
2006年12月17日 春夏秋冬そして春」2003年 韓国・ドイツ
 
監督:キム・ギドク
深い山間の湖に浮かぶ小さな寺。
 大自然の懐で幼子と老僧が2人で暮らしている。
 幼子はカエル、蛇、魚を捕まえては縛り石のおもりをつけるいたずらをする。
 老僧にひどくしかられ、命の尊さ業の重さを知っていく。
 少年も思春期にさしかかり、庵に逗留した少女と性に目覚め、やがて、寺を出ていく。
 そして、再び、もどってくるが、殺人者となっていた。
 刑事が逮捕にやってくる。
 老僧は庵の床板に般若心経を書き、それを殺人者にナイフで彫るように命ずる。
 夜を徹して彫り上げる。刑事たちも文字の着色を手伝うのであった。
 この行程は迫力あり現代アートを見ているようだった。
 密告した老僧は独り湖上で焼身する。
 冬、刑期を終えた男(ここから監督自身が出演)が、山門から氷りとなった湖の庵にもどってくる。
 そして、修行に明け暮れる。お経をあげ、肉体を鍛え、氷った瀧に観音像を彫り次第に男は僧の顔に変わっていく。
 ある日赤ん坊を連れた女がやってくるが、赤ん坊を残したまま、湖の氷りの穴に落ちて亡くなる。
 女の弔いと自らの業に対し、冬山での荒行を敢行する。
 上半身裸で、弥勒菩薩を胸に抱き、腰に荒縄巻いて大きな石を引きずり、氷結した雪山を巡り歩く。
 このシーンで延々と流れる民謡のアリランが静けさを破って読経のようでも叫びのようでもあり、いっしょに歌いたくなる。
 四季はめぐりそして春。
 無邪気な幼子が庵の浮き板の上で亀にいたずらをして遊んでいる。
 それを僧になった男はあの日自分を見るかのように幼子の絵を描くのだった。
 輪廻転生とでもいうのであろうか。
 美しい静寂の四季を背景に蛇の交尾、思春期の性交がエネネルギッシュに描かれている。
 俗世間の煩悩が山奥の庵と無関係ではなくなっていく。
 朝鮮の恨(はん)か、儒教の業なのか、それは日本人にもよくわかる仏教思想。
 三島の「炎上」の若い僧のようでもあり、筋肉と耽美的なところは正に三島。
 反すうし内省し沈静さしていっても、なおかつ心の中から消えるモノではない。
 まさしく、それが心を癒し、時にオブラートする四季の美しさとでもいうのだろうか。
 風景とはパラドックスな人間の業。
 静寂と虫けらの性交。一寸の虫も五分の熱気。
 徴兵の後、パリに渡り絵の勉強をしたと言うが、この監督、一体何者だ。
 韓国にキム・ギドクあり。
2006年12月15日 (金)映画話し
新しくできた「109シネマズ佐賀」にいく。
「わざわざ映画館へいって見る時代ではなくなった。
クラシック音楽にしても絵画にしても同じなのに、まだ「しっ、しーっ」と
たしなめられる。
個展のオープニングパーティだって、ろくすっぽ絵は見ないで、呑んでばかり宴会もある。
「しーっ」という感覚で触れたい時は、時と場所を選び、ひっそりと出会えばイイことなのだ。
見たければ、レンタルだって、CSの映画チャンネルだってある。
ご飯食べる時、くつろいでいる時々、かけっ放しにしておけば済む。
ありとあらゆる種類の映画をくり返し、くり返し見れる。
集中して正座なんかして見る必要もない。
仕事だってテレビの前にもってくれば、ことは済む。
かつては、映画館に通うしかなかった。
「ウエストサイド物語」を50回見たとか、自慢さえしていた。
評論家もたいへんだったろう。
ところが、一回に集中して見るより、くり返し何度も見ていと、新たな発見、ちがった見え方なども生じるのである。
映画館で一度見たと言うのは、気に入ったところの記憶であり、全体の印象である。かなりの映像を見落としている。
それで、済む映画もあれば、反復していくうちに発見的に見えてくるものもある。
要は文学にも似て行間を読むと難しく言わないまでも、制作年代と今の時代、社会、周辺と言うモノとのズレなり、関わる外との連関が新鮮なのである。
娯楽を楽しみたいというときは「エラゴーン」「007」「三丁目の夕日」でもイイのである。
以前、ビデオが台頭してきたころ、NHKで「大林宣彦監督とオリバーストーン監督」の対談があった。
大林監督は、「映画館の暗がりの大画面に集中するときのあの感覚が・・云々」と修行僧のようなことを言い。
オリバーは「ビデオで見るのと映画館で見るのとは本質的に同じで、どこがちがう・・」ってことを言い、かみ合わなかった。
ビデオの時代だも過ぎた。ケイタイでも見られれば、テレビもデジタル、大型画面。ゲームも平面からプレイステーションへと飛躍した。
よろこぶべきか、憂えるべきか、そこが問題だ。
それでも、シネコンは増えている。
2006年12月15日 (金)新しくできた「109シネマズ佐賀」にいく。
硫黄島からの手紙
 
監督 クリント・イーストウッド
 出演: 渡辺謙 、二宮和也 、伊原剛志 、加瀬亮 、中村獅童
 題名の通り、戦地からの手紙をもとに脚本化されており、
 若い兵隊立ちのとまどいや苦悩をしずかに描いていく。
 狂気と残虐さは「プラトーン」に通じるものがある。
 玉砕、自決、投降に命をみ見ようとする。
 日本人俳優の演技合戦でもあった。
 二宮が出番も多くイイ味だしていた。
 イーストウッドのリアリズムもイタリアンでもジャパニーズもオリバー・ストーンでもキューブリックでもなく、やはり、クールである。
 今回、イーストウッドは怒りよりも兵隊の母や家族を見ることで、感情を抑え、中立になろうとしたのではないかと思った。
 イーストウッドを好きならば見る映画であろう。
 2006年12月14日 (木)煉獄エロイカ
 監督:吉田喜重 ATG1970年
 実験的シュールな作品だが、たえず台詞を聞いていなければならず。きつい。
 だらだらとした文学的台詞が出過ぎ。この監督は「秋津温泉」がイイ。

 2006年12月14日 (木)クンドゥン
 監督:M・スコセッシ
 ダライ・ラマの苦悩の成長過程。
 英語にしてあるところがチンプ。
 ローマ、ギリシャもの英語は当たり前になってるけど。
 イタリア人から見ればどうだろう?
 クリント・イーストウッドは「硫黄島からの手紙」の日本語版をつくった。
 まだ見ていない。見に行かなくちゃ。

 2006年12月14日 (木)「SOW」2004・アメリカ
 
監督 ジェームズ・ワン
 目覚めたら老朽化したバスルーム
 足首には鋼鉄の鎖
 対角線上にもう一人の男
 間に自殺死体・・。
 先が読めない、想像を超えた猟奇的密室ゲーム、サスペンス。
 裏切られる結末。グロ過ぎて後味ワルし。一見の価値あり。
2006年12月13日 水)
 「
Shall We Dance 」監督:ピーター・チェルソム 2004年
 
出演:リチャード・ギア、ジェニファー・ロペス
 日本版のカット割まで同じアメリカ版。
 倦怠期にさしかかった夫婦。
 百万本のバラより一本のバラは効く。
 一本のバラを胸に捧げ、デパートのエスカレーターを上がってくるギア。
 男でもしびれる。
 オペラ座の怪人の一本のバラも市民ケーンの一本のバラは意味深く哀しいが、
 「Shall We Dance ?」のバラはサンタクロースだ。
 夫婦の出し方にお国のちがいはあっても、日本版の完全コピー。
 日本版もおもしろいが、ダンスなだけにアメリカ版もステキ。
 ミュージックとダンスがステキに融合するとき、押さえきれぬ興奮がほとばしる。
 映画よ今夜もありがとう。
 周防正行監督の最新作「それでもボクはやってない」もたのしみだ。
 2006年12月13日 水)「俺たちは天使じゃない
 
監督:ニール・ジョーダン
 制作年:1989年、アメリカ
 出演:ロバート・デ・ニーロ、ショーン・ペン、デミ・ムーア
 脱獄犯が牧師に化けて奇跡を起こす。
 小理屈も言わず、ただただ、笑って見れた。映画ってそれでイイんだよ。
2006年12月8日 (金)アザーズ
 現実は過去、過去は未来。幽霊はは現実。異次元は現実。
海を飛ぶ夢」は尊厳死がテーマ。
 スペインの30代前半の監督・アレハンドロ・マメナーバルは、脚本、音楽まで一人三役。
 全4作品ともおもしろい。
2006年12月6日 (水)スペインの映画監督・マナハンドロ・アメナーハルの映画を見る。
「テシス」「オープン・ユア・アイズ」
現実と虚構が錯綜する。人間の位置は虚構が現実か。何を持って現実と認識する。
単に現実とおもわされてるだけで、虚構が現実ではと、二転三転、反転。
映像のコワサも上手いものだが、テーマがもっと怖い。
自分はどこにいるのだと確かめるも、哀しいかな、アレは映画なのだとしておくに止まる。
また「マトリックス(監督・アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー )」はコンピューターの中での現実と虚構だ。
釜山の史跡を巡っている時、ペグさんは池に移る紅葉と浮かぶ落ち葉を見て言った。「スモール コスモス」。
反復の連続性なのである。思考も連続性の上にある。
2006年11月23日 (木)
イージーライダー」を改めて見る。
 
「イージーライダー」「ミッドナイトカウボーイ」{ウッドストック」はストックホルムの青春だったな。
 友のY氏の頼りでも「日本では今、イージーライダーと真夜中のカーボーイと黒猫のタンゴが流行っているとあった。
 ステッペン・ウルフの「ワイルドでいこう」に乗せてイージーライダーはアメリカをひた走る。
 ピーター・フォンダとデニス・ホッパーの共同製作監督である。
 「地獄の黙示録」「スピード」のデニス・ホッパーもジャック・ニコルスンも若かった。
 それを見てからは、さすがにアメリカでのヒッチハイクはしえなかったな。
酔いどれ弁護士・ニコルソンは言う「自由を説くことと自由であることは別だ、・・・アメリカ人は個人の自由についてはいくらでも喋るが、自由な奴を見るのは怖い・・」と。
 その夜、野宿地でニコルソンは村の暴徒に殴り殺される。
ラスト、イージーな二人も「自由に生きてる」と言う名の下に虫けらのように射殺され、アメリカから抹殺されるる。
  自由が売りのアメリカも本質のところでは、今なお人種偏見も強く、開拓魂の封建制は変わらないようだ。
 最近では「モーターサイクル・ダイアリーズ」もある。
 「南米放浪の旅は予想以上に僕を変えた。少なくとも、もう昔の僕ではなくなった」。やがて、革命家チェ・ゲバラが誕生する。
2006年10月18日 (水)ビハインド ザ サンを夜見た。
2001年 ブラジル
 監督:ウォルター・サレス
 出演:ロドリゴ・サントロ ラヴィ=ラモス・ラセルダ 
一こま一こまの映像が濃密で絵画のようだ。
 この重厚な画面もサンセットサンライズを追い求めた照明魂の産物であろう。
2006年10月17日 火)「ペイ フォワード」「恋は五・七・五 俳句甲子園」を見る。
 
人に受けた善意を「次に渡す」。それを鼠算式にやれば世界はあかるくなると
少年は考え実行する。
 ラストがいかにもアメリカ的ヒューマニズム過ぎる。

 松山で実際に行われている高校生の俳句甲子園の映画化。
 青春うぇお真面目に撮ってあり、吉本新喜劇並のおもしろさ、たのしさあり。
 喋りや表現は下手でも自分の言葉があること・・。
島田洋七さんがアナウンサーと座談会をしているのを見ていて、同じことだなと思った。
 自分の言葉を持っている人が、ほんとは話上手なのかもね。
 2006年9月20日 (水)クリント・イーストウッド 走り続ける76歳
イーストウッドの撮影法はリハーサルもなく、一発OKを基本としている。
 2.3回を越えるとイイ演技できないと言う。
「クリント・イーストウッド 走り続ける76歳」(NHK)を見た。
 NHKのインタビューにも淡々と本音を喋っているように思われた。
 セルジオやドンの影響があると見ていたが、イーストウッドの方がレオーネやシーゲル与えた影響は大きいようだ。
「 許されざる者」のラスト。
 イーストウッドのピアノが流れ,”セルジオとドンに捧げる”がでる。
 今回イーストウッドは硫黄島の戦いをアメリカ側から見た「父親たちの星条旗」と日本側から見た「硫黄島からの手紙」の2作を撮った。
 10月と12月に公開される。
 老いてもかっこイイ男だ。
2006年9月8日 (金)雁の寺」部分カラー(なつかしい)1962年
 原作 水上 勉
 監督 川島雄三
 出演:若尾文子/三島雅夫/高見国一/中村鴈治郎/木村功/西村晃/山茶花究
 中学生のころポスターを見たような気がする。
 大映は結構文芸作品をやってた。
 川島雄三監督作品はほとんど見たことない。
 見るのは今回が初めてである。
 原作がイイのか、脚本も演出も抜群。最後まで惹きつけられる官能のサスペンス。

2006年9月7日 (木)「アリ」2001年
 
監督 マイケル・マン
 出演 ウイル・スミス
 あの時代を思い出しながら見ていた。
 アリもボクらにはヒーローだった。衛生中継されたタイトルマッチはほとんど見ていた。
 アリVSフレージャー戦を中目黒のガード下の食堂で見ていたように思っていたが、71年3月8日と言う年代に会わない。
 ジョー・フレージャーの目が切れお化けのようになっていき、15ラウンドにはアリが左フックでダウンを奪われる。アリは判定で負けた。
 絵としては中目黒の食堂の風景しかない、こんなことあり得ない。
 その年は、ストックホルムかロンドンにいた。そこの絵がない。
 この映画を見てはじめて記憶のまちがいに気づく。
2006年8月27日 (日)クライング ゲーム」1992年 イギリス
 
監督 脚本 ニール・ジョーダン
 出演 スティーヴン・レイ 、フォレスト・ウィテカー
 英国軍に捕らえられた仲間たちを釈放するための人質として、黒人兵士ジョディ(フォレスト・ウィテカー)がIRAの一団に誘拐された。アジトに幽閉されたジョディの見張りにはファーガス(スティーブン・レイ)という男が当たった。二人きりで過ごすうちに、いつしか彼らはお互いに友情を抱く。ジョディはファーガスに「あんたは親友だ。それがあんたの性なんだ」と語る。そして続ける。
 ジョディ 「人間には2種類ある。
 与える者と奪う者、2つのタイプに分けられる。
 サソリ型とカエル型。
 川を渡りたがってるかなづちのサソリが、カエルの背中に乗せてくれと頼む。
 カエルは、君を乗せたらボクを刺すに違いない。
 サソリは「ボクが君を刺したら両方とも溺れてしまう」
 カエルはしばらく考えて納得しサソリを背中に乗せ勇敢に川を渡りはじめる。
 だが、半分まで来たところで強烈な痛みを感じ、自分がサソリに刺されたことに気づいた。
 徐々に沈み始めるサソリとカエル。
 カエルは叫んだ。
 サソリ君、何故ボクを刺したんだ?溺死すると分かっていながら・・。
 サソリは答えた。仕方ないんだ。これはボクの性(さが)だから」。
 ファーガス 何が言いたい?」
 ジョディ 「話したままさ」。

 脚本賞を取っただけに脚本がイイ。ジョディの彼女もイイ。

2006年8月25日 (金)ビッグ・リボウスキ
小さな目撃者」「ネル」「ビッグ・リボウスキ」「セレンディピティ」R・スターの「おかしなおかしな石器人」を見る。
 「ネル」はジョディー・フォスター演じる野生の女が現代に生きようとするのだが、・・。「ビッグ・リボウスキ」はコーエン兄弟の作品だけにセクシーにおもしろい。ホテルカリフォルニア、オエコマバ(サンタナ)、ビバ・ラスヴェガスら選曲がニクイ。ジョンソンをちょん切るぞと大きなハサミがリボウスキを追いかける。マルコヴィッチの穴か阿部公房だな。
2006年8月22日 (火)遠雷
夢ん中でで韓国語べらべら喋ってて、夢ん中で、夢じゃないかとおもっていたが、やっぱ、夢じゃった。  
 ゴゴゴゴロゴロロ〜・・。 遠くで雷鳴がする。
 遠雷で思い浮かべる。 立松和平の「遠雷」。映画にもなった。 
 本立てからA・ワイエスの画集を取り出す。 そこで、気づいた。 草原で仰向けに気持ちよさそうに帽子を顔にかぶり眠っている人の絵、3点がある。眠る人のアップ・「野イチゴを摘む人」から全身像・「眠る」に変わって、人の背景に犬と糸杉と空が加わえられ「遠雷(distant thunder)」と題してある。
 ゴロゴロ、ドッカンンン・・とはほど遠い平和な草上の午睡。 

 我が町でも今夕も静けさを破って夕立、雷の100万ボルトショーが展開されたが、蒸し暑さ変わらず。 
 北海道の野外コンサートへいった娘から届いたビッグなタラバで一杯。 
2006年8月16日 (水)ジミ・ヘンドリックスの生前最後1970年イギリス・ワイト島でのライブをBSで見る。。
 ひずんだギターで奏でる「イギリス国家」に始まり、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
から「イージー・ライダー」「フォクシー・レディー」「パープル・ヘイズ」といった名曲の数々。
 彼の手にかかればギターは剣玉みたいになてしまう。自由自在に魂をもてあそぶおもちゃのように。
 当時、ジミヘンのレコードを聴きながらハシッシをやる、というのがコペンハーゲンの若者の間で流行っていた。
 このライブの数ヶ月後、ジミヘンはあの世の人となった。享年27。
  2006年8月13日 (日)今回の芥川賞「8月の路上に捨てる」を高校野球を傍らに読んだ。
 読みやすいと言うより、内容が薄いので、さーっと流して1時間で読めた。
 缶ジュースをトラックに積み、街路の自動販売機に補充して回るベテランのバツ1女性とバイトのバツ1若者の会話。
 読み始めてパターンが判る。離婚の同姓のこれからどうするの戯言とわかれば後は一気に流す。
 選考委員7人の内2人が押しただけの作品。スポンサーの手前該当作なし、はないようである。
 ボクの感想以上に的確に村上龍さんが選評をしている。
 本が売れないはずである。
 まだ、自費出版した柳川のT崎の作品がテンポよアラっぽくアクチュアリティーを感じる。

 2006年8月12日 (土)磁場展の目玉・ワークショップの日。
 30個用意した木箱も残りわずか。
ボックスアートの工作である。
 おとうさん、おかあさん、子供たちで大入り満員。
 ありとあらゆる材料が用意され、使いほうだい。
 立体、平面、木くず、紙、針金、綿、絵の具。
 曲がるもの、角ばったもの、重い物、軽いもの、固いもの、やわらかいモノ。
 無意識に平面から立体を体験し、そこに生まれるオブジェはまぎれもなく、
 現代的アクチュアリティーがあり、アートと呼べるものである。
 大人もはまります。何の制約も決まり事もないのですから。
 しかし、ボクはそれ以上に深入りしない。じゃないと身体がいくつあっても足りないデス。
 ボクは板片でハトニワトリの置物とピストルを作るが、あまりに欲しそうなので、ピストルを横尾だいち君にあげた。

2006年8月9日 (水)柳川のTから自費出版の本が送ってきた。
 どこかの文学賞で賞をもらったとか。
 ミニ本である。文字は新聞より小さい。
 目を通して見ると、意外に読める。
 上手い文体はないのだが、歯切れよく心境が吐露され、
 セックス話が薬味になっ、現代からは外れていない。
 素人の恐ろしさと言うか、当人はすっかりモノ書きの境地のようだが。
 本代・¥2.000。感想も書いてくれと言う・・。ウーン まんダム。
 早く美術の教員も辞めたものの、何かやっていかなければたのしくない、つまらない。ノイローゼにはならなくて棲んだようだが、絵も描かねば、酒も呑みたい、恋もしたいと、それでもやっぱり、孤独には変わりなく、モノ書きにリアリズム、ライブ感を見ているのだろう。
 2006年8月5日 (土)夜、佐賀市の唯一の祭り「栄えの国祭り」のにぎわいの中、
アミーゴ展」ギャラリー憩い/のオープニングパーティーにいく。
 作家22人の小品がところ狭しと展示されてる。
 腕のある人たちだけに上手くまとめてはあるが、こぎれいさがぬぐえない感じ。
 自分のを確認して、ほとんど他人の作品を見ていないのである。
 Y武氏らと会い、話せるにはイイ場所である。

 2006年8月5日 (土)吉野ヶ里町のGアートエルにいく。
 舟一朝さんの「
吉野ヶ里町に夢のモニュメント展」
 舟さんの20年の集大成と言う風にも見えるけど、ほんの一部。
 美術館など室内の空間アートは同時に戸外、自然、環境アートへと思想を変えていくが、それは本来在る姿とリンクしていたことでもある。
 普段は展示壁面として閉じられている大きな2つの窓が開かれ、照明は自然光のみと言う試みがなされていた。
 Open the window from the windowha は荒川修作らに見られたように60年代後半のキーワードでもあった。
 窓と言うものは枠ではあるが、内と外をつなぐイメージの形象化である。
 作家の表現と場所をつなぐには、公の場所の獲得は、クリストが表現の一部として辛抱強く行政と交渉していくように、膨大な知恵と労力が費やされるものである。
 舟さんも当地のおいて、その大変さと理解の薄さを実感されておられるようだ。
 時間が足らないと言うところであろ。かといって、恣意的に焦燥されているとは、おもわないが、理解度の低さが問題であろう。
 今回は兎に角こんなオブゼを実寸で吉野ヶ里に置いてみたい、造りたいと言うのが本音の個展であろう。
 赤い針金のタワー・数百分の一の模型も展示されているのである。
 それへ向けて実現は舟さんは元より地域の人たちの(アートへの)理解と支援にかかっている。

2006年8月3日 (木)「太陽の帝国」監督スピルバーグ 1987年 151分
 上海の外国人居留区で両親と何不自由なく暮らすイギリスの少年。
 満州事変を背景に家族とはぐれた少年は困難を乗り越えたくましい浮浪児となっていく。
 ボクらの子供のころ以上のことはどこにもあったのである。
 「ヒトは一個のイモで何でもする」とその少年に言わしめる。
 「神が写真を撮ったように空が光った」二発の原爆で大戦に終止符が打たれた。
 原爆の日、終戦の日がまたやってくる。
2006年8月3日 (木)ラスムスくんの幸せをさがして」1981年、スウェーデン 
 監督 オル・ヘルボム、ロルフ・ハスバーグ
 脚本 アストリッド・リンドグレーン(原作者)
 ラスムスは孤児院を抜け出して、幸せを探しに行く。
鼻水垂らし裸足で歩いていくとボサボサ頭の陽気な風来坊オスカルと出会う。
 オスカルはハーモニカとアコーディオンを演奏し、二人は歌を歌いながら旅を続けるのであった。
 美しい風景こそちがうけど、あのころはいずこも同じ。
 裸足の浮浪児とアコーディオンのホームレスが、村人や事件に出会いながらの珍道中を繰り広げ、その結末は・・。
 ほのぼのと童話のようであって、生きることの意味をきちんと言っている
2006年7月27日 (木)「菊豆」監督 チャン・イーモウ
 染め物屋の若嫁と居候の男。
 子供に爺も男も殺される。色エロ地獄図。
 何で、お化け屋敷か見世物小屋風になるのかな??
2006年7月21日 (金)「アラビアのローレンス」は何度見ても、「あれっ、そこは見てないよ」と言うシーンがあまりにも多い。
 何も見れてないのである。スケールのちがいに「スケールの大きさ」だけを見ているのである。日本人には無理なお話。日本の観客は口をそろえてすばらしいと言うが、島国にはない、スケールの大きさを見ているだけなのである。
 歴史的背景、その時代など何も見れていないバカ。
 今ならビデオ、DVDらでくり返し見られるけど、最近の映画評論家とか言うアホたれどもは修復の効く受験生である。 
 辺境の島国で考えたことなど世界には通用しない。通用している分野や通用している部分があるなら、それは教育と個人の勉学である。それぐらいかぼそいもので世界に対抗している日本。W杯サッカーでよくわかったはず。
 「アラビアのローレンス」の根底にあるものはソレ。

 狂気になったローレンスがナイフでトルコ人を惨殺していくシーンが公開当時(1962年)のフィルムにはあったはずだが、その後スウェーデンで見た時も日本で見たときも、完全版にもない。人種差別的な狂気の殺戮は、永遠に消し去られたようだ。

「スタンリーグラード」
 監督 ジャン・ジャック・ルノー
 出演 ジュード・ロウ エド・ハリス
 第二次世界大戦のスタンリーグラード戦を舞台に実在した伝説のスナイパー(ザ イチェフ)の生きざまを描いた壮烈な戦争ドラマ。
 照明、カメラ、美術がよく、全カットが絵画のようである。
 狙撃に人生を賭けるも、色恋に生き甲斐を感じるも、死にざまは壮絶孤独。  
2006年7月14日 (金)「墨東綺譚」 監督 新藤兼人1992年112分
 永井荷風(津川雅彦)がカフェで女給(宮崎淑子)といるところへ、木刀持った文士がきて、
 「芥川龍之介先生は自殺された。あなたも女の尻ばかり追い回さないで自殺しなさい」と言う。
 荷風先生 「わたしは悩んでませんから」と逃げ出す。
 墨田ユキと言う女優さん、その後見ない・・。
「墨東綺譚」でも1960年の 豊田四郎監督 の方が、時代的にもまだ、なつかしい場所が多く、雰囲気がある。

7月12日(水)「ピアノ・ブルース
 監督 C・イーストウッド監督自身の要望により劇場公開されていない。
 ブルース生誕100周年を記念して、2003年、M・スコセッシ製作総指揮のもと、音楽を愛する映画監督たちが豪華に集結した話題の企画、“THE BLUES Movie Project”の1本。
 出演 クリント・イーストウッド :レイ・チャールズ :デイヴ・ブルーベック  :ドクター・ジョン  :ジェイ・マクシャン  :マーシャ・ボール  :パイントップ・パーキンス その他多数。 
 イーストウッドがピアノを前に彼らの隣りに座りジャズ談義。始終笑顔がこぼれ、歴代のピアノの名手が個性的なテクニックと演奏を披露。
 ジャズにうといボクとしてはほとんど知らないブルースピアニストばかりだが、老齢の今尚当時を彷彿とさせるパワフルな演奏には、おもわずニンマリと目尻が下がる元気モノ。 
 あえて正統派ブルース・ピアニストに焦点を絞ることなく、ジャズやR&Bへと裾野を拡げたブルースの懐の深さを感じさせる。
 ピアニストのだれかが言った。
  ”ブルースを誰かがジャズと言いはじめ、垣根をつくりだした、差別しようとしたけど、テンポのゆっくりなのがブルースで、そうでないのがジャズとでもおもっていたさ”
 日本で流行したのはジャズのころから。ジャズ喫茶なるものがかしこに現れ、薄暗い店内でコーヒーとタバコ、足でビートをとり悦に入ってた青春群像。
 実体無き似非文化。かつてのカブレ青年たちは今本来の演歌を歌ってご満悦なのである。
 ブルースピアニストたちでさえ少年のころ、親に「こんな音楽を・・」と叱られている。ましてや、日本人には遠い遠いところ。
 耳を澄ませば、体内から聞こえてくるような、血肉となって躍動する人間の原初的音質ではあろうが・・。
自転車どろぼう」イタリア
 「童年往時」台湾
 「動くな、死ね、蘇れ!」旧ソ連
 「シティー・オブ・ゴッド」ブラジル
 「裸足の1500マイル」オーストラリア
 「酔っぱらった馬の時間」イラン
 昔話か、どこぞの国のできごとのように客観的にあるいは恣意的に眺めたり、同情したりである。ほんのこの間の日本の現状といっしょなのだ。
 子供も大人を騙すが、大人は常に子供を騙している。
 あのころがよかったなどと、戯言をぬかす大人がいやらしい涙を流す。
 6年生の時、大人の要領よさを作文に書いたら、担任と親から小言を言われ、罪の意識をもちそうになったが、そのおもいは今も変わるものではない。
 あのころは「事実」ではあるが、帰るところではない。
 映画も事実を語り継いでいるだけなのである。
 メッセージや慰めはいらない。
エレファント81 分 アメリカ 2004 年
 監督 脚本 編集: ガス・ヴァン・サント
 撮影: ハリス・サヴィデス 
 出演: ジョン・ロビンソン
 「ボーリング・フォー・コロバイン」を高校生側から撮ったコロバイン高校の銃乱射事件映画。
 何の説明も心理分析も裏付けもないまま、高校生活の日常に銃が乱射される。
 日常は高校も社会も平和ではあるが、「アホらしく呆けている」と言った監督の捉え方が見えるのだが、それ以外はいっさいのコメントを挟まずドキュメンタリータッチで高校の生活、会話を追っていくだけ。
 それだけに、通販で手に入れた銃器での突然の殺戮は信じがたくコワイものとなっている。
 実際に起こった事件でないならば、何ともバカバカしい映画と言って済ませられようが、その現実があるだけにそうはいかなくなってくる。
 高校と言う場所は家庭、社会、世界と置き換えて見ることができるのだが、評価に値する作品かどうかは疑問が残る。
 ヤコがつきまとうようなカメラワーク、説明をそぎ落とし短くなった全編。
 撮影、編集のテクニックは病んだ虚無の空気感を上手くだしてる。
 しかし、どう上手く日常を切り取ろうとも、制作者の思考を通した一方向のものである。
 現実の風景はよりたのしかったり、つまらなかったり、非凡につくりものではないね。
2006年5月29日 (月)パルムドール
午前2時ごろからカンヌ映画祭の受賞の発表があった。
 主演男優賞(原住民)、主演女優賞が一人でなく出演者全員に贈られたのには驚いた。
 監督賞:「バベル(BABEL)」のアンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督。 
 脚本賞:「ヴォルベール(VOLVER)]のペドロ・アルモンドバル。
 グランプリ:「フランドル(FLANDRES)」のブリュノ・ヂュモン監督。
☆パルムドール:「大麦を揺らす風(THE WIND THAT SHAKS THE BARLEY)」のケン・ローチ監督。

 「阿弥陀堂だより」
 「雨あがる」でデビューしたの小泉堯史監督の2作目。
 出演:寺尾聰 樋口可南子 北林谷栄、2002年
 都会暮らしに疲れ、山村にに移ってきた作家の夫と妻が医者の夫婦。
 普通に暮らす村の人たちの中に溶け込み、次第に回復していくと言う夫婦の愛情話。
 感想は???
 映画も作れば作品と言うことだろうが、むずかしいね。
 「パリテキサス」のトラビスとその妻の関係はつらいんだけど、男と女。
アンドレイ・ルブリョフ
 監督:タルコフスキー/1967 ソ連 3時間9分
 15世紀ロシアの最高のイコン(聖像画)画家と言われるアンドレイ・ルブリョフを軸に時代と人間、社会と民衆といった巨視的なテーマで歴史の真実に迫ろうとする。
 タルコフスキーにしては抽象的表現のない筋モノ。
 詩情あふれる泥、水、雨 ぬかるみ 川の映像からの水室内に降る雪、雪の丘のキリストの磔刑あり、形而上学ありと、タルコフスキーの世界が散りばめられ、騎馬の戦闘、スペクタクルありの3時間9分。
 「七人の侍」「雨月物語」も見えるけど、やはりエイジェンシュタインが濃い。
 ラスト、モノクロがカラーに変わり、ルブリョフの代表作「三位一体」のイコンが象徴的に映しだされる。
 これぞ映画である。言葉をなくす。

06/5/22
シザーズ 氷の誘惑」アメリカ・1990
 監督:フランク・デ・フェリッタ
 出演者:シャロン・ストーン、ロニー・コックス
 精神に妄想をもつ女性の密室ミステリー。
 ハリウッドお得意の娯楽映画。何をや言わんである。
06/5/22
酔っぱらった馬の時間
 監督・脚本・製作:バフマン・ゴバディ
 2000年/イラン/80分
 ”不治の病に冒された15歳の兄マディの手術代を稼ぐため、イラクへの密輸行に加わる次男アヨブ。それは、凍えた馬に酒を飲ませる厳冬の山越えだ。酔っ払った馬に密輸品のタイヤを載せ、武装した国境警備隊と、数え切れないほどの地雷が待ち受ける決死のキャラバンに少年は挑む。5人姉弟の12歳の家長として…。”
 これまた、日本の戦後をおもわせる貧しくも強くたくましく生きる兄弟愛の物語。
 巨大タイヤをラバ背負わせての雪山キャラバンはスゴイ。過酷な撮影であったろう。新人監督らしいが、これまたイラン映画の真骨頂
06/5/22
動くな、死ね、蘇れ!」1989年ソ連
 監督 ヴァタリー・カネフスキー
 舞台は、第二次大戦直後・スターリン体制下、日本人捕虜収容所がある極東の貧しい炭鉱の町。飯炊きの日本兵が声で歌う「炭坑節」や「南国土佐」がこの町に似合う。主人公は父親のいない12歳の少年ワレルカ。 
 まず、題名に惹かれる。貧しさ、いたずぶりは戦後のボクらのようでもある。ただ違うのは、ワレルカを理解し何かと世話をやいてくれる同い年の少女ガリーヤがいることだ。
 愛とは気づかぬ思春期の恋の芽生え。懸命に明るく生きる姿は戦後日本のそれとも変わるものではない。ただ、共産主義も否定的に、ガンバロウではなく、少年と少女を通して人間の純粋な愛を見ようとする。
 純粋さは時代に飲み込まれ、衝撃的な結末は残酷につらい。現実に正直に生きようとすればするほど待っているのはつらい現実だよな。
 監督は妥協しない。「裸の島」なのである。

20056/5/21
ダ・ヴィンチ コード 2005年・アメリカ・2時間30分。
 監督:ロン・ハワード
 途中、二日酔いのせいか、眠くもなったが、おもったよりボクはおもしろかった。
 見た後の感想は、判りにくい、判ると半々に分かれた。
 歴史的事実や現実を基にした仮想の話であり、仮想の部分が原作者の想像力であり見る側には謎となって原作はおもしろいにちがいないとおもわれる。壮大なキリストの歴史とダ・ビンチの絵画をコラボレイトさした想像力の世界であり、それに振り回されることはない。至って判りやすい内容でもっともであった。キリスト教としては絶えられないだろうが・・。
 重厚かつ素敵な映像が多くあったとおもうが、見終わって余韻が何もないのである。
 仮設(映画では事実)は完結させられており、謎として余韻を引きずることはないにしても映像としての記憶はかきたてて欲しい。一方的な映画である。
 ストーリーに比べ俳優の演技が発揮されていない。演技につながりがなくばらつきを感じた。ロン・ハワードは重厚にはなったが・・。
2006年3月16日 (木)「少女の髪どめ
 脚本、監督は「運動靴と赤い金魚」のマジッド・マジディ。
 昨年or一昨年、佐賀チネチッタで見てるけど、内容をまったく憶えていない。
 見てるうちに思い出しはするのだが、「運動靴・・」がおもしろかっただけに。
 その少女、ほっぺが赤い。今見るとピンポンの愛ちゃんに似てる。負けてすねたような表情が・・。
2006年3月15日 (水) 白痴
 
原作、ドストエフスキー
 監督 黒澤明の「白痴」を見た。意外とおもしろいのだ。
 かつて、原作を読んだときは、途中で投げだした。 
 映画も黒澤にしてはおもしろくなかった。 
 当時「白痴」を見ながら「記憶の風景」を描いており、おバカな亀田青年の名を頂戴して、絵の中の洋服店の看板を”亀田洋服店”にした、ということがあった。  
 夜「温故創新」の座談会の後、Sさんと流れる。
 普通の倍は呑んだかも。

2006/4月17日(月) 蜂の巣の子供たち
「蜂の巣の子供たち」監督・脚本 清水宏、1948年、85分。
 浮浪児たちとも復員兵の青年を見習いだんだん動き食を得ようとする。復員者の青年と彼を慕う浮浪児たちのジプシーの旅、それに引き揚げ者のきれいな人の知人捜しがいっしょになっていく。正しく、戦後の貧しくともあっけらかんと希望と平和を謳った映画、なだけに逆にすごくおもしろかった。
 ボクらより数年前のガキだけに服はぼろぼろ、それだけでリアリズム。
   2006年3月14日 (火)裸の島U
オープンサンドイッチを作っていると、聞いたような曲が流れてきた。
 振り向きテレビを見ると、やはりそうだ。
 何十回と見た「裸の島」がはじまった。イイメロディーだ。
 前半はアコーディオン、中間はハーモニカ、後半は肉声のコーラスと変化する。ニクイと言うか素晴らしい。
 それには、この映画の素晴らしさがあっての合体である。
 新日本紀行でも見るような、ドキュメンタリー的映像に気負いはない。
 瀬戸内海、尾道の孤島。魯をこぐ波の音、水を汲む、水の音、風の音、足音のみしか聞こえてこない。
 ひたすらに棲む孤島から本島へ小舟をこぎ、水を汲みにいき、島の畑に運んでは水をまく、そのくり返しの日々。
 始まって40分後にはじめて人の声が聞かれる。本土の村でモグラ打ちをする子供たちの掛け声。
  
 脚本、監督:新藤兼人 撮影:黒田清巳 音楽:林光
 1960年/95分/モノクロ/ワイド
 キャスト/殿山泰司 乙羽信子 田中伸二(子役)堀本正紀(子役)
 モスクワ国際映画祭グランプリ/ベルリン映画祭セルズニック銀賞

 汲んできた桶の水をよろけた乙羽信子がひっくり返す。それを見た夫の殿山泰司はビンタをはる。そしてまた、二人はジャガイモの苗に水をやる。
 夏が過ぎ、秋、冬、麦踏み。春が来てまた夏が来て麦刈り。
 収穫した麦をかますに4個に入れ、本島の世話になってるところに治めたり売ったりする。そのとき小舟に残りを積んだままにしている。盗まれはしないか、と「自転車泥棒」と重ねてみるが、この映画ではその要素は必要ない。つつましく生きる名もなき夫婦に焦点を合わしてある。
 二人の子供が大きな鯛を釣ってくる。父はよろこび「よいしょー」とはじめて声をだし、子供を抱いて海に放り込む。家族の笑い声。
 その鯛を持って本島の町に売りに行くが、なかなか売れない。街の商店、看板、車、テレビがその時代の上昇経済を見せる。ミゼットもあり正に昭和30年代である。
 魚屋でなんとか売ることができ、ライスカレーを家族4人はうまそうに食べる。
 細く若かった乙羽信子の野良着姿はきれいだ。「我が青春に悔いなし」の原節子を超える。水汲み、畑仕事、魯を漕ぐ。本業のように板に付いている。猛特訓をやったんだろうな。
 夫婦が水汲みに出ているとき、家で息子が高熱を出し衰弱する。
 殿山は本島に渡り島中を走りまわる。やっと医者を捕まえるのだが、その間のカメラは俯瞰の望遠で村と走る殿山を撮らえる。
 その甲斐もなく息子は死ぬ。(訳の判らぬ病気で当時はよく亡くなったものだ)
 息子は島の頂上・畑で火葬にする。
 再び、水汲みと畑の水まきの日々。
 畑で妻の乙羽信子は突然、水桶をひっくり返し、ジャガイモの苗を引き抜き、畑にはいつくばって、泣きじゃくる。殿山はそれをじっと見ているが、水をまきはじめる。乙羽信子も我に返り二人は何事もなかったかのように水を苗に与える。
 カメラが引きぐーんと上昇する。空撮によりはじめて孤島の全貌が見える。
 そして、終わる。”終り”。
 「よいしょー」と一声だしただけの殿山。鳴き声だけの乙羽信子。
 無言映画の迫力、モノクロームの総天然色。1年を通して現地ロケされたであろう役者と映画人の映画魂。これぞ映像、これぞ映画。
 「原爆の子」もよかったが邦画では「裸の島」、洋画では「自転車泥棒」。
 全身映画作家・新藤兼人。
 1912年4月22日/広島県佐伯郡大字石内村、94歳
2006年1月14日(土)
ショコラーデ」監督、脚本、主演、ダニー・レヴィ 1998年 ドイツ
 事実を基にしたという脚本がすばらしい。ありきたりでない。
 ホロコーストの悲惨な過去を引きずるユダヤ人たちの重い歴史が絡むミステリー。
 ニューヨークを舞台に過去と現在を結ぶショッキングな事実がひも解かれていく・・。
 ダニー・レヴィン、マリア・シュラーダ、デヴィッド・ストラーザンらの演技も上手い。今年の最高作。
 引きずってた何かが熱とともに溶解したのか、病み上がりが功を奏したともとれるように直に見れたのであった。 
 年が明けたというだけで、自分が過去のままでは、見え方も変わらない。ウミはどんどん出して、精神ぐらい、楽にしてやらねば・・。
 新年早々、富くじに当たり、風邪に当たりと不運も福と転じていくことが今年の一年かも。
 イイもワルイも交互にくる波。この交互の関係がなくなったとき、棺桶第9への序章であろう。車、飛行機に当たるなどおもって暮らす日々もなし。

 
2005年
2005年12月11日 (日) 
 「
深海に生きる魚族のように 自ら燃えなければ 何処にも光はない」。
 明治の歌人・明石海人の言葉。
 大島渚氏の座右の銘を刻んだ記念碑「大島渚メモリアルストーン」が鎌倉の建長寺・回春院に完成したと、奥さんと車椅子の氏が記念碑を見ている写真が今朝のS新聞にでていた。
 バカヤローの氏の後、誰がバカヤローと言うのだろう。
 バカヤローは差別用語か。子供に使おうものなら、親がどなりこんでくる。

ジョゼと虎と魚たち」2003年犬童一心監督
 小児麻痺の女の子と学生の恋?
 こんな話、現実にもありそう、おもしろくはあるけど、薄っぺらだね。少女と暮らす婆ぁちゃんがよかっただけ。
 ゲイの施設「メゾン・ド・ヒミコ」も見てない。
どぶ」監督・新藤兼人1954年 モノクロ。
     出演・乙羽信子、宇野重吉、殿山泰司等。
 戦後の焼け野原のバラックに住む人たちのおかしくも切ない哀歌。20代の乙羽信子が裸一貫の熱演。
 戦後の邦画はイタリー映画とよく似ている。時代もそうだが、映画人たちのすさまじい熱気がこちらまで飛び散る。
 文化低迷なれど、10代、20代が開き直って活躍する日本。天気晴朗なれど波高し。野にひっそりと咲くいちりんの花(デッドマンのウイリアム・ブレイクの詩)があればこそ。
ふんどし医者」監督・稲垣浩1960年 東宝
 出演・森繁久彌(、原節子、夏木陽介 を見た。
 時代は江戸から明治に移る大井川にその医者はいた。チフスが流行するが、チフスの子を持つ村人たちに病院はめちゃくさに壊され、隔離は失敗。
 やくざの若者が長崎で医者になりもどってくる。ふんどし医者は時代に取り残されていく自分を知る。
 裸、ふんどしで表を歩くのも御法度となる。
 「赤ひげ」に勝るとも劣らないおもしろさ。
 2005年12月12日 (月)葉隠 「ゴースト・ドッグ」(Ghost Dog: the Way of the Samurai)
 監督・脚本 ジム・ジャームッシュ
 主演フォレスト・ウィテカー( 「バード」 「スモーク」など)
 1999年米・日・仏・独合作アメリカ映画 1時間56分
 武士道を崇拝し「葉隠」を愛読するNYの殺し屋(ゴースト・ドッグ)とイタリア系マフィアとの対決を描いたバイオレンスアクション。
 大きな体がのろそうで俊敏なサイレンサーガンさばきがかっこイイのは、下からのカメラワーク・「墓石と決闘」のジェームズ・ガーナだな。
 ストイックなまでに武士道を実践する主人公が、後一海外でも日本でも受けなかったようだが、評価はこれからだろう。
 ゴーストが修羅場を終えるごとに、「葉隠」の引用が十数回。
 「今の世を百年以上も前の風に変えたくともならざることなり、
 この時代を生きるが肝要
なり」
 「・・・全て最後が肝要なり」
 ラストでゴーストと仲のよかった少女がキッチンのフロアーの隅に座って「葉隠」を読んでいるシーンでTHE END.
 日本でも「葉隠」のファンや研究家は多い。特にご当地佐賀は多い。
 今や世界中で翻訳されているらしい。ジム・ジャームッシュと「葉隠」も意外ではない。「デッドマン」にその片鱗はある。
 思想はそれで終わらず、追求と探し(佐賀市)続ければ何かに出会う。
 佐賀市の「葉隠」研究家の栗原耕吾さんが以前「ぷらざ」に連載されていた「ものがたり葉隠」で「ゴースト・ドッグ」と「ラストサムライ」について詳しく書かれていたことを思い出した。
スモークシグナルズ」クリス・エア監督 1998年
 インディアンの居留区。火事で助かった赤ん坊は青年になって友だちと蒸発した父を捜して旅にでる。
 「アホなのは西部劇で殺されるインディアンよりそれを見ているインディアンだよ」と二人はテレビの前で顔を会わせる。
 父の居場所を尋ねさがすが、父は死んでた。父の新しい奥さんに二人は「ローンレンジャーとトントみたいね」と言われると「トントとトントさ」と返す。
 派手さはないが、クリス・エアという監督の次作を見たくなった。

初恋のきた道」チャン・イーモイ監督
 ワイエスの絵を見ているような湯気、雪、吹雪の大ロケーション。過酷なロケを敢行するものだ。赤い服の少女はその風景に負けない。ラストのストップモーションは正しく「クリスティーナの世界」。
 同じく健さんを主人公にした「単騎、千里を走る。」も’061月28日より全国東宝系公開とのこと。
チケットをもらったので「三丁目の夕日」を見る。
 当時を知る者としては、美術、CDの挑戦には拍手を送るが、昭和30年代にしてはものたりなくどこか違和感をおぼえるのだった。
 ただ時代設定以上に茶川竜之介と古行淳之介がおかしすぎて泣けた。
 ROW AND ROW ふりかえるな ROW−
「茶の味」(監督・原作・脚本・編集/石井克人)2003年143分
父・三浦友和とその息子の少年が縁側で、将棋をさしてる。
 父が「頭のわるいハジメも考えるんだね」と言う、そして間で観戦している浅野忠信までが、「頭のわるいハジメ君大丈夫・・」とあおる。ハジメ・佐藤貴広は黙って一心に次ぎの手を考える。
 なのに場面は生き生き、ほのぼの、お見事。

地獄の黙示録/完全版
 50分もの未公開フィルムが加えられている。
 一度目はオリジナルと比べ、ラストにドアーズのTHE ENDが流れないのでもの足りなかったが、もう一度みると落下傘部隊のフランスの家族やバニーちゃんたちの肉林が挿入されており幅が広く、この映画にはあるべきシーンだとおもうが、4時間は長い。

悪い奴ほどよく眠る
 刑事の笠智衆さんがいた。

21グラム
 監督・製作 : アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
 出演 : ショーン・ペン ナオミ・ワッツ ベニチオ・デル・トロ シャルロット・ゲーンズブール
 人は死んだ時に、魂の重さの分の21グラムだけ体重が軽くなるという。肉体的にはたった21グラムの差かもしれないが、生きている人間と死んでしまった人間の差はかけがえないものだ。監督『アモーレス・ペロス』で世界中の映画賞を受賞したメキシコの新鋭イニャリトゥ。
トーク・トゥ・ハー(Talk to Her)
 2002年 スペイン 監督 ペドロ・アルモドバル
 「愛の破片」
 1996年 ドイツ=フランス 監督 ヴェルナー・シュレーター 

 
血と骨
かつてのご近所を見ているようなオープンセット。
「血と骨」とまではいかぬとも、当時、女と金と暴力のおやじ、結構周辺にいた。
間借りしている一人暮らしの女性もあちこちにいたし、ガキたちの遊ぶ通りで
大人の喧嘩もよくあった。
雀洋一とたけしの暴力の底にはアジアがある。でっぱった半島の男根・中上健次だね。
地獄の黙示録/完全版
 50分もの未公開フィルムが加えられている。
 一度目はオリジナルと比べ、ラストにドアーズのTHE ENDが流れないのでもの足りなかったが、もう一度みると落下傘部隊のフランスの家族やバニーちゃんたちの肉林が挿入されており幅が広く、この映画にはあるべきシーンだとおもうが、4時間は長い。
 
 2005年11月1日 (火「続夕陽のガンマン
  原題The Good, the Bad and the Ugly(Buono, il brutto, il cattivo)
 (善い奴 悪い奴 きたねェ奴)
 1966年 本編 155分 イタリア
 監督  セルジオ・レオーネ
 音楽  エンニオ・モリコーネ
 主演  クリント・イーストウッド
    リー・バン・クリーフ
    イーライ・ウォラック
 「荒野の用心棒」よろしくパクリの監督である。
 今あらためて見ると冒頭より「隠砦の三悪人」「OK牧場の決闘」「007・・」をパクってある。
 中程の戦争シーンでも「突撃」「戦艦ポチョムキン}「風と共に去りぬ」がのぞく。
 堂々とパクリ、自分のものにしているあたり、映画界のピカソか?
 封切り当時は3時間もの長編に疲れもした。南北戦争シーンに莫大な大金が投じてある。西部のガンマンを見に来たんだから、戦争シーンなんていらないとね。
 しかし、今見るとその場面もおもしろいのである。
 コッポラの「地獄の黙示録」でヘリコプターのベトコン村を襲撃が、「続、夕陽・・」の戦闘シーンにそっくり。コッポラのパクリ。
 絵画でも映画でも音楽でも簡単に言えばパクリ、よく言えばマネ。
 オリジナルってそうそうできるものではない。
 オリジナルというのは世にたたかれてたり、無視されている中にあったり、まだ見えなかったりするのかもね。
 サム・ペキンパーに「戦争のはらわた」で先を越され「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を最後に1989年心臓発作で没60歳。
 墓石名、アーチ・スタントンの隣りの不明人の墓に20万ドルの金銀は眠る。
 広大なアーリントン墓地とおもうほどの墓石十字架のセットを創ったモノだ。
 悪い奴はそれとして、善い奴と汚ねェ奴の境界は無いと言うのがこの映画の最大のテーマか。
 「荒野の七人」の盗賊でおなじみのイーライ・ウォラックがその両面をもち善い奴、悪い奴も喰ってしまった。
 エンリオ・モリコーネのガンマンのテーマ曲「アヤヤヤヤァー・・ドレドレドレドレドレン・・」は正しく荒野に生まれ出た赤子が最初に叫んだ雄叫び。
 俗に産声と言う。
 よって、クリント・イーストウッドは「許されざる者」をドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げた。
 
西原理恵子の傑作コミックを坂本順治監督が映画化。
 「
ぼくんち」2002年。
 親に捨てられた二人のガキ。
 でてくる大人たちがそろいもそろってバカばっかしで、
 たのしく笑えた。笑っていれば幸せだと・・。
 出演者/観月ありさ、矢本悠馬(子役)、田中優貴(子役)、鳳 蘭、真木蔵人、末吉まもる、岸部一徳、志賀勝、新屋英子、笑福亭松之助、南方英二、今田耕司。
鉄塔 武蔵野線('97)を見ていた。前にも見たが、少年は訳の判らないまま、衝動的な冒険にでるものである。そんな答えのない理由を真夏の光と影のコントラストでつづっていく。
 鉄塔のある田園地帯の線路を二人の少年が疾走していく。鉄塔や田園風景がきれ。マラソンを最後まで見てしまうようなこころの浄化がある。男の子なら誰にもあった遠い夏の日。少年・見晴(みはる)は今の「電車男」だと。
 監督:長尾直樹
 原作:銀林みのる
 〔第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作〕
 音楽:武田秀二 おおたか静流 内藤和久
 キャスト
 伊藤淳史:環 見晴(みはる)
 内山眞人:磨珠枝 暁(あきら)
 菅原大吉:環 晴男
 麻生祐未:環 真名子
 田口トモロヲ:鉄塔パトロール
1966年制作の大映「妖怪大戦争」。日本の妖怪と西欧の妖怪の闘い。ばかばかしくおもしろい。リメーク版も出来たようだが、ライトファンタジーの妖怪パレードの参考にはなるみたい。
2005年8月1日 (月)
「冒険者たち」をやってた。何度見てもおもしろい。青春の1ページだから。若者食いの中年おばさん(アン・バンクロフト)の「卒業」も同じく。
 「冒険者・・」にあこがれてフランスにもいったよ。映画は作り物。 
 口笛を使ったテーマ曲が深いマリンブルーっていう感じ。「スウェーデンの城」と似た旋律である。音楽もよくないとヒットしない。
 アーティストの卵の若い女性は挫折し男二人とヨットでギラギラ太陽のアフリカの海に眠る財宝探しにでる。
 ヴァンチェラは亡くなったが、ドロンも今この映画を見たくはないだろう。ボクも途中で寝てしまった。
 真夏の撮影は大変だろう。「野良犬」にしても。役者は監督に文句一つ言えないようだ。映画馬鹿を少しは見習うか。
隠し砦の三悪人」 139 分 1958年 を見る。
 ビデオは持ってるがデジタル版は白黒がきれい。白と黒のバランス、トーンの幅。正に余白の美。
 「七人の侍」に続き脂がのりきった黒澤さんである。最近の映画も含めて群を抜いて面白い。「姫じゃ、おし娘じゃ」の上原美佐さんが静かに輝いている。
あんな女優さんはもういない。「七人・・」よりは「隠し砦の三悪人」が当時より好きな理由は姫か。七人・・はちょと長すぎる。
 戦国時代、侍大将、百姓二人、姫の4人が軍用金200貫をたきぎに隠し敵陣突破・・。4人の駆け引き。よく練られた脚本。2時間20分も短い。

続夕陽のガンマン
吉村氏とOばちゃんがいると映画の話になる。河岸を変わっても吉村氏の勢いは止まらない。
 落ちついたところは、セルジオ・レオーネ。セルジオの(マカロニウエスタン)三部作「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン」。
 中でも傑作は「続夕陽のガンマン」原題「THE GOOD THE BAD AND THE UGLY(善い奴 悪い奴 きたねェ奴)」1966年 本編 155分 イタリア。
 まずはこれを見なけりゃ始まらない。
 クリント・イーストウッド、リー・ヴァン・クリーフはもちろんだが、ねずみ男の イーライ・ウォラック(荒野の七人の盗賊の親分)のハイエナぶりが二人を食って最高。
 
 ー空を真っ赤な血の色に染めて夕陽が沈む時、
あのさすらいの口笛に、死人の臭いをかぎつけたガンを片手のまよい犬ー

南北戦争末期のニューメキシコ、テキサスを舞台に、盗まれた南軍の大金をねらって、3人の流れ者が三つどもえの強奪戦を繰り広げる。
 あのクエンティン・タランティーノが、『パルプ・フィクション』のなかで、本作の台詞のパロディーを披露しているのは有名。
音楽は前作に引き続き、もちろんエンニオ・モリコーネ。

絞首刑」1968年、大島渚監督、ATG。
 あんパン買って池袋文芸地下で見て以来である。
 韓国人少年Rの死刑執行に失敗。記憶喪失になったRの記憶を元に戻し死刑を執行しようとする死刑執行人たちの四苦八苦をヌーヴェルバーグの旗手・大島渚がブラック・ユーモアで事件の真相や国家に潜む矛盾などを紐解いていく。室内劇に見えるんだけど、かの大島さんは口癖のように「新劇は大嫌い」と言ってた。
 渡辺文雄と言えばこの映画の好演が浮かぶ。
 場末の映画館に座ってパン食ってと三ツ矢オレンジジュース飲んでたあのころをおもいだすとドキドキするね。
 検事の小松方正が言う「国家は君の心の中にある。国家はないと君は言うが、今、君は国家を見ている。処刑されるべきだとおもっている・・」」
 「所長今日はありがとうございました。教育部長もありがとうございました。あなたも、あなたも、あなたも、この映画を見てくださったあなたも」暗転。
 当時としては斬新だった。 

2005年7月22日 (金
ゴーストワールド
 高校を卒業した女の子(ソーラ・バーチ)のやるせない日常のなかでの青春と希望の起伏。
 うっとうしいとおもいつつも見てしまう。主人公の女の子は以前何かでみた。根暗に見えるんだが、前向きにからっとした女の娘。
 もてない中年の男(スティーヴ・ブシェミ)の世話をやき、現実に埋没するところで、幽霊バスに乗って旅立つ。
 最初と最後に流れる面白い曲・Jaan Pehechaan Ho(Mohammed Rafi)が踊るマハラジャみたいでたのしい。
 最近、岡本喜八監督のテーマ曲にもなってた。
 何事も汗をながさねば。
2005年7月27日 (水)
[
ストレイト・ストーリー」(原題:The Straight Story) 1999年製作の実話の映画化。
 仲違いして10年間音信不通だった兄が脳卒中でたおれたとの知らせを受け、70歳の老人・ストレートは兄に会うために農業用トラクターに乗ってひとり旅に出る。
 時速8キロのポンコツトラクターで老人は野宿しながら人々と出会い、数週間をかけて兄の住む村へたどり着く。
 よくあるロードムービーものだが、監督が「エレファントマン」「ツインピークス」「ロスト・ハイウェイ」ら奇妙な映画のデイヴィッド・リンチであるのが意外で見てしまう。
 村のはずれの森の中に兄の家(小屋)はあり、老人はトラクターから降り二本の杖で家に歩み、恐る恐る兄の名を呼ぶ。
 しばらくしてドアーが開き兄がでてくるのだが、兄も支え台につかまっているのだった。気まずく兄弟は顔を合わせ対峙するが、兄がくやしそうに
 「あれに乗っておれに会いにきたのか!?」
とポツリ。カメラは庭に停まっている小さなトラクターを捉え上空へパン。THE END。
 このラストの台詞で決まったような映画だ。 
 老人役のリチャード・ファーンズワースのどこまでが演技か判らないところが、好演。たまに流れるギターも効いていた。
監督 : デイヴィッド・リンチ
脚本 : ジョン・ローチ / メアリー・スウィーニー
撮影 : フレディ・フランシス
音楽 : アンジェロ・バダラメンティ
2005年7月25日 (月)
ライフ・イズ・ビューティフル


 <やがて死ぬ姿は見えぬ蝉の声>
 <恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす>
 今日も朝からクマちゃんがよく鳴く。それに混じって赤子も泣いてる。
 泣く子は育つか。それにしても子育て大丈夫かいな。
 籠の中の鳥もいる。
 「ライフ・イズ・ビューティフル(LA VITA E BELLA)」
 1997 Italy
 監督: ロベルト・ベニーニ
 出演: ロベルト・ベニーニ
 ニコレッタ・ブラスキ
 ジョルジオ・カンタリーニ
 ホロコーストを題材にしたおかしくも泣ける作品。
 やがて死ぬ姿の見える父が息子への世界最高のウソのプレゼント。
 筑紫美主子さんの「かなしいから笑う」をおもいだす。さすがイタリー映画。深刻なのに脳天気。 ロベルト・ベニーニ お見事。
う一つのミスティックリバー
「ミスティック・リバー」のDVDは同じ映画が2本はいっていた。
 2本目は映画を見ながら、ケヴィンとティムがおしゃべりする。
 淡々と語り合う二人の会話はかっこよく深い。役者魂とイーストウッドの映画創りの裏側が垣間見られる。テレビ番組としてはできない(不可能な)本音が聞かれる。彼ら一人一人がアーティストであると改めて知らされる。
 ティムも「デッドマン・ウォーキング」ら映画創ってるし、役者バカ・ケヴィンも創るだろうか。
「ミスティック・リバー」2003年
役者がそれぞれ個性的で存在感があり、イーストウッドがカメラをのぞいているのを忘れる。
 部分に挿入される音楽にはたと、イーストウッドが見える。派手さやアクションを押し殺し、排除してのガマンの作品。
 余計な説明をしない手法はイーストウッド独特で、他の監督に影響を与えている。
 「スタンド・バイ・ミー」1986年やブラッド・ピットの『スリーパーズ』1996年を髣髴とさすが、「スリーパーズ」で少年院の虐待看守だったケヴィン・ベーコンが、「ミスティック・リバー」では殺人課の刑事てのもおもしろい。

ラストは観客に解釈をゆだねあいまいにミスティック・リバーへと沈潜して、The End.。いろいろと賛否が分かれるところではあろうが、イーストウッドはこのラストがベストだったのであろう。これもあり。
05/7/3(日)
 「キッチン・ストーリー
」2003年
 高い椅子の上から部屋の住人を観察すると言うシュールさは、以前に見たことがあった。まじめに見ていなかったようで、改めて見直す。
 「荒野の七人」であり「ラストサムライ」であり「地獄の黙示録」のカーツ大佐であり、「砂の女」の地質調査員である。
 キッチン調査員が描く生活動線が、いつの間にか男の生き場所(死に場所)論にねじれていく。
 絵を描くのに似ている。消えずに気になる生活動線と言うものがあって、何とかなるさと描きはじめる。
 心は出会うことで変化し、友情を取り入れ、現実的な居場所・在所を明らかにしていく。
 人が行動する時空間を二次平面化した動線。正に絵でありその上に現実の空間を重ねる。
 このディペインズマン(対置法)が雲にまかれるようにおかしかったり、心地よかったりするようだ。
 正に動く平面を使った映像ならではの映画空間が仕掛けられ、身近な農村に伊作爺と都会人フォルケを出会わすのである。
 おのずとコミカルな不可思議さにはめられるもののようで、作家にとっても佳作であろう。

 
05/6/3(金
「ミリオンダラー・ベイビー」
 実に渋い。イーストウッドならではだ。ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマンら3人の競演である。いぶし銀の男とタフで一途な女性。
 ミリオンダラーを稼ぐ女性ボクサーの話かと思っていったら、そうではなかった。「ペイル・レイダー」「許されざる者」を髣髴とさせるイーストウッドの女への愛の形。
Tough ain't enough.タフだけじゃやっていけない。
 老齢の男たちがカッコよすぎるだけに、現実は切なくも辛いのか。

 夜、またしてもイーストウッドの
「ルーキー」をやってた。
 カークラッシュや爆破をふんだんに使った娯楽アクション。仕方なく創ったかに見えるもイーストウッドの映画になってしまう。
 
 日本対バーレン戦。3−0で勝ってよかった。
 深夜の放映とあって、常連さんも遠慮なさったようで、一人で見るしかない。
 8日の北朝鮮は観客なしの闘い。ドイツ行きが決まる夜になればイイ。
2005年5月22日 (日)
スモーク

 
ある方向をフレームとして見ていると必ず、そこにはドラマが生まれる。何もないというのは限りなくウソで、あたかも用意周到に見える一瞬のドラマがフレームに起こるのである。
 カルチェル、ブレッソンはある方向にカメラを据えただじっと待つ。待つというよりは今から起こるであろうドキュメントを見逃すまいと目を凝らす。そして静かにシャッターを切る。まるで演出でもしたかなような映像がフィルムに焼き付く。
 「スモーク」ではNYのタバコやのおやじ(ハーベイ・カイテル)が毎朝8時30分に同じ場所から同じ方角の写真を4000日撮り続けている。それは映画だが同じ背景の前にブレッソンのような人の映像が記録されているのであった。
 その部分を取ってもこの映画が人の心(時間)を知ろうとしているのが判る。
 ブレッソンしかり、24時間以上も撮り続けたウォーホルの「摩天楼」や「食べる人」が素になっていても斬新で質素なニューヨーカーの日常が共有できる。
 日本には(今の)東京を愛し、やさしくかっこよく捉えた作品もない。つかみどころがないというよりそれこそ何もないのか、まだ見つけられずにいるのか。
 「東京物語」もお上りさんのあこがれの東京であって、東京の動物性はない。
 だれも描けない東京?
 ヴェンダースの「東京画報」、タルコフスキーの「惑星ソラリス」に挿入された鳴門の渦、東京の高速道路はエネルギッシュにアニマリズムなのに、日本人には灯台元暗しか。
 じいちゃんと孫がここでも美しく浮上する。作家の能力があるならそこからさかのぼり、砂の器でもスモークでも生まれるはずなのだが、絵が目を持つ時先も見えてこようって。
プレイ タイム
 
ジャック・タチの「Play time」(1967年)を見る。
 コウモリ傘とハットの例の「ぼくの伯父さん」登場だが、近代ビルと近代オフィスをどうやって造って、どんな撮影したのかに興味がいく。会話はほとんどなく、足音とパントマイム的演技で見せる微妙な笑い。大金ぶち込んだ2時間10分の作品だが同じテンポに後半は飽きてきた。けどジャック・タチはイイ。まだ生きていらっしゃるのかな。
誰も知らない
 
是枝裕和監督の「誰も知らない」はよかった。西欧ではよくある新しい演出だ。
 ドキュメンタリー監督だけにオーバーな演技がなくドキュメント風。子供だけの家族が泣き叫ぶんだり怒ったり寂しがったりすることもなくたんたんと学校にもいかない日々を送る。ボクも監督ならあんなに撮るだろう。ゴンチチのギターが映像を引き立てる。
 NHKと中国電子台の共同ドキュメンタリー「家路」には参った。手錠をされた女が母と子供たちの村に帰ってきて、再び手錠をされて刑務所に帰っていくまでの生のドキュメンタリー。ピンクフロイドの映画も吹き飛んだ。作り物は偽善な作り物でしかないとつくづく思わされた。映画で何かを表現しようとするリアリティーは現在のところドキュメントのようだ。ドキュメンタリーも厳密には作家の視点と編集がありドキュメンタリーではないのだが、被写体が作家とカメラを越えてしまうと言うことが起きるのである
ダイナマイトどんどん

 映画は「ダイナマイトどんどん」。当時佐賀駅で古田求くんと会ったら、「今、岡本喜八監督のダイナマイトどんどんを(師匠の)井手雅人さんと書いてる」と言ってたのを思い出す。31歳、映画第一作目だと思う。
 「コップランド」H・カイテルとS・スタローンそれにR・デニーロのお決まりのアメリカンアクション。
EAST MEETS WEST
 
岡本喜八さんのハリウッド進出作「EAST MEETS WEST」を見ながらプリントしてたが、紙送りが不調で止め、オブジェの地塗りをしてたら4時になってしもうた。「気楽にいけと」といい聞かすが、年寄りの冷や水か、どうも先を急ぐようだ。
 「EAST MEETS WEST」は奇想天外名脚本と喜劇じみたところは岡本流が発揮されてるが、室内の人物照明がすべて従来の暗いハリウッド方式。現地スタッフまかせの感あり。喜八さんの光と影ではない。
イヌのような愛

 「アモーレス・ペロス 」(メキシコ:1999年)
 上映時間 153 分
《公開時コピー》
 世界の真中で愛を叫んだ犬たち
 監督: アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
 何度見ても変な映画で入り込む。原題が「イヌのような愛」と言うだけに三話オムニバスのイヌつながり。ペットと言うより動物の生臭さ。
 メキシコと言えば「荒野の七人」の「助けてくだせぇ、お侍さま」の農民を今でも思ってしまう。「ふじやま、ゲイシャ」と同じだ。
 認識不足というよりは知らない国とはそんなものなのだ。
 乾燥した中の熱気。貧富の差が生む犯罪。荒野の七人の農民ではなかった。
 「アモーレス・・」の魅力は脚本、演技、カメラにある。訳の判らぬエピソードが挿入されてるが、それは監督の子供のころの記憶であろう。だけにそのこだわりに何かが隠されているのかと引き込まれてしまう。
 大体、難解に見える映画ほど単純で、一つのこと言ってるだけなのである。
 男も女もイヌのように飼いならされているのか、どう猛なのか。
 この訳の解らぬ魅力は何なのか?と3度目にナゾが解けた。
 手持ちカメラである。一度としてカメラが固定されるこたはない。固定してるかに見えるカメラが微妙に震える。手持ちと気づかせないのである。
 数日で10本ほど見てるが、「アモーレス・・・」には手が止まった・
「肉弾」「独立愚連隊」
 今日もどこにもいかず、家にてゴソガサ。オブジェも刻まにゃならぬが、手が足りぬ。「肉弾」「独立愚連隊」「メトレス」などをちらちら見ながら。時間だけは確実に時を刻んでいく。
 2005 / 3 / 22 ( TUE )
「お葬式」
 いつものことだが、法事の最中、映画「お葬式」を頭の中で見ている。お葬式前後のあわただしさ、虚脱感らの人間模様、空気感がよくでていて、SEXのおまけまであった。伊丹監督はその後「お葬式」を越える作品をつくれなかったということかな。
 当時ATGのA比留さんが「湯布院映画祭」にいってきて、懇親会で「長谷川(和彦 監督)さんが荒れてたな、お葬式見てさ・・」と言ってたのを思い出す。長谷川さんも「青春の殺人者」以来映画撮ってないよね。
 「お葬式」の悲喜こもごもは現実のそれにどこか当てはまるからおもしい。納得。それ以外にお葬式の映画もない。
 幼少のころ母方の郷・壱岐では葬列となって山へ入った。甕棺に亡骸を入れ男衆が棒を肩に担いで山の墓場へと行くのであった。昼のはずなのに夜のような記憶である。狐の嫁入りのごとく、事実も夢のごときに葬列はゆく。

 2005 / 3 / 12 ( SAT )

「バッドボーイズ」「バッドボーイズ2バッド」
監督 : マイケル・ベイ
出演 : ウィル・スミス、マーティン・ローレンス
 刑事コンビと麻薬組織のはちゃめちゃな市街戦、何台車ぶっ壊せばいいの、100台。低予算でもイイ映画はいっぱいあるのに。ここまでしなけりゃいけないのかね。ほとんどが車代、火薬代、スタント代、CG代、音響イフェクト代であろう。見てるだけにはなんも考えなくてイイんだが。

2005 / 3 / 11 ( FRI )

  「きみの帰る場所/アントワン・フィッシャー」
 2002年、121分
 デレク・ルーク、 デンゼル・ワシントン
 軍内で暴力事件ばかり起こす問題兵アントワンが、精神科医の助けにより自分の過去と向き合ってゆく姿を描いた実録ドラマ。 D・ワシントンが初の監督にいどんだ作品。
 「チョコレート」とはがらりと違い、苦境の中から愛と幸せを勝ち取っていく、黒人ファミリーの団結と友愛の感動作だった。
 東京地裁は11日「新株」差し止め仮処分、ライブドアの申請認める。


 

 2005 / 3 / 10 ( THU )
 「チョコレート」 113分 アメリカ 2001年
 監督: マーク・フォースター  
 出演: ビリー・ボブ・ソーントン 、ハリー・ベリー 、 ピーター・ボイル 
根強い人種差別的思想を抱えた死刑囚棟の元看守と死刑囚の妻である黒人女性とのビターなラブストーリー。監督はスイス出身の新鋭マーク・フォースターなだけにアメリカ的でない。内省的、詩情あふれる映像。
 脚本がいい。筋を見せるだけでも娯楽映画になるところを人間に光を当てる
 ラスト、家の前のステップに座る二人。女は男が夫の死刑囚棟の元看守であるとあることから知る。男はそれも知らず女の口にプラスティックスプーンでチョコレートアイスを食べさせる。女はふくんだアイスクリームを吐き出そうに唇が微妙に震える。アイスは溶けて喉元をおちていったのか、まだ、舌先に留まっているのか。「このままきっとボクらはうまくいくよ」。暗転。
 このタイプの映画は賛否両論で、興行的には当たらないのよね。
 2005 / 3 / 9 ( WED )
「バッファロー’66」「ブラウン・バニー」
 ヴィンセント・ギャロ 監督、主演。役者から監督デビュー2本。バスキアと友人の仲だった。
 そこいらからしても、従来の範疇で捉えられない映画美学がある。表現するってのもわがままなことだが、今日には合わぬデカダンが板に付いた男だ。男女の描き方が変わっている。のぞき見したときの自然な会話。アメリカ離れしても見える。タルコフスキーに通じる。次次に生きのイイ監督がでては消えていく。V・ギャロはどうなる。
 「エリン・ブロコビッチ」S・ソーダバーグ監督。ワンシーンごとに衣装が変わるジュリア ママでした
 2005 / 3 / 7 ( MON )

 キル・ビル
 映画館では眠かった「キル・ビル」が家では面白かった。22曲もの挿入歌、音楽があったとは、今回気づいた。
 『怒りのガンマン 銀山の大虐殺』のテーマ / ルイス・バカロフ
新・仁義なき戦い』のテーマ / 布袋寅泰.修羅の花 -『修羅雪姫』のテーマ 03:52梶芽衣子など、やりたい放題の東映任侠、健さん、と恨み節。すき焼き、スパゲッティー。これがタランティーノの真骨頂??
 「ブラッド・ワーク」
 クリント・イーストウッドは監督も演技も上手い。

 2005 / 3 / 4 ( FRI )

  『ポーリーヌ』
 「赤い鳥」「八日目」を生んだベルギーの制作。
《キャスト&スタッフ リスト》
2001年/ベルギー=フランス
上映時間:1時間18分
監督:リーフェン・デブローワー1969年4月15日生まれ。
キャスト:
ドラ・ファン・デル・フルーン
アン・ペーテルセン
ローズマリー・ベルグマンス
ジュリアンヌ・デ・ブロイン
イドヴィグ・ステファーヌ
ハンディキャップを負った人々を扱ったものは多い。「アイ・アム・サム」も「エイブル」も感動する。しかし「ポーリーヌ」ほど自然に心温まるのはない。64歳の痴呆ポーリーヌと姉妹の手助け。現実は甘くはない。しかし、ポリーヌの存在は荒廃したまま先を急ごうとする現代人の心を立ち止まらしはじめる。
 ポリーヌはじめ演技人が自然でうまい、それも介護経験のある、また長編は初めてという監督の愛情と手腕によるものだろう。特別、泣かすわけでもなく、じっと人間を見つめる本格的な映画である。
 全編に流れるチャイコフスキーの『花のワルツ』をいっしょに口ずさんでしまう。ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ、指揮者:ユリ・シモノ。
 絵画も素晴らしいが、それよりスゴイ奴らが映画界にはいるとおもったりもして、だども、指をくわえて見てい場合じゃない。

  2005 / 2 / 28 ( MON ) 
 第77回 アカデミー賞

  第77回 アカデミー賞を見る。「狼たちの午後」「グロリア」などのS・ルメットが名誉賞。ばらつきはあったものの、結果的には主要部門をクリント・イーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」が押さえた。「ローハイド」のロディーに始まりマカロニウエスタン「夕陽のガンマン」シリーズ、「恐怖のメロディ」「奴らを高く吊せ」「荒鷲の要塞」「ガントレッド」「アルカトラズからの脱出}「ファイアーフォックス」「ダーティーハリー」シリーズ「ペイルライダー」「許されざる者」「スペースカウボーイ」らすべて見てるつもり。S・マックイーン 、P・ニューマン、C・イーストウッドは青春であった。C・イーストウッドはmy油彩作品に記号として数回登場している。

 アカデミー賞受賞結果発表
・ 作品賞 :ミリオンダラー・ベイビー (クリント・イーストウッド監督)
・ 監督賞 :クリント・イーストウッド監督 (ミリオンダラー・ベイビー)
・ 主演男優賞 :ジェイミー・フォックス (Ray レイ)
・ 主演女優賞 :ヒラリー・スワンク (ミリオンダラー・ベイビー)
・ 助演男優賞 :モーガン・フリーマン (ミリオンダラー・ベイビー)
・ 助演女優賞 :ケイト・ブランシェット (アビエイター

 2005 / 2 / 3 ( THU )

「ハウルの動く城」
監督・脚本:宮崎駿 
 原作:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 
 音楽:久石譲  
 声の出演:ソフィー/倍賞千恵子 ハウル/木村拓哉 荒地の魔女/美輪明宏 ('04東宝)119分
 あれだけ絵がよくできてると、マズイ、不自然というところが部分的には目立つ。しかし、重箱の隅をつつくのはよそう。
 宮崎さんは理屈っぽさがとれた。アニメに徹している。大友克洋、押尾守同様アニメが平面というのも過去のこと。
 描いた絵が動いているだけなのに、人は入り込みイメージをさらに膨らます。
 今の時代にかくも格調高く、解りやすい映画である。
 夢、想像、隣人、時間の獲得。理屈なく大の大人が幸せな気分になれるのであった。
そこにあるのはディズニーランドか。宮崎さんは日本のウォルト・ディズニーになってるのかも知れない。

2005 / 2 / 2 ( WED )

「ロシアン・ブラザー」

 ロシア 1997
監督:アレクセイ・バラバノフ
出演:セルゲイ・ボドロフJr/ヴィクトル・スホルコフ/スヴェ トラーナ・ピスミチェンコ
共産主義体制が崩壊した今のロシアをロシア・マフィアを通して描く。暴力が強烈。
派手な音響効果を使わず同時録音と思える発砲がかえってコワイ。本格派のハードボイルド。
「その男凶暴につき」「タクシードライバー」健さんの殴り込みを想起する。ラストはマックイーンの「ゲッタウエイ」。
ロシア版『BROTHER(北野武監督)』と言えるだろう。

2005 / 2 / 1 ( TUE )

 「ある歌い女の思い出」

フランス植民地時代の末期、揺れ動くチュニジアの落日の王宮に繰り広げられる母と娘の葛藤の物語。
チュニジア=フランス/1994/127分
監 督 ムフィーダ・トゥラートリ
出演/ アーメル・ヘディリ ヘンド・サブリ ガーリア・ラクロア
ナジィア・エルギー

チュニジアの女性監督と言うのが興味。ギターに似た民族楽器ウードの音色は独特。

2005 / 2 / 1 ( TUE )

「テルミン」

 1993年アメリカ映画/83分/ドキュメンタリー
 監督・製作・脚本/スティーヴン・M・マーティン 
 テーマ曲/サン・サーンス「白鳥」、ラフマニノフ「ヴォカリーズ」(CDアルバム「アート・オブ・テルミン」より
/ランブリング・レコーズ) ビーチ・ボーイズ「グッド・バイブレーション」
 出演/レオン・テルミン、クララ・ロックモア、ロバート・モーグ、リディア・カヴィナ
ビーチ・ボーイズ&ブライアン・ウィルソン、トッド・ラングレン、レーニンetc.

 「テルミン」とは1920年、ロシアの科学者レフ・セルゲイヴィッチ・テルミンによって発明された世界初の電子楽器である。
空間にかざした手の動きによって触れずに演奏される。この楽器が進化し、“シンセサイザー”が生まれた。

 これはラブ・ストーリーであり、スパイの物語であり、人間に対する残忍な行為への道徳的批判であり、
そしてこの世の物とは思えないあの音が、胸につまったいろんな感情を懐かしく呼び覚ますノスタルジーである。
とM・マーティン 監督が言う通りであった。
 天才の数奇な運命と恋。ロシアで殺されたと言われるテルミン博士は生きてた。
数十年ぶりに奏者であった恋人のクララ・ロックモアとニューヨークで再会。
普通のおじいさん(当時94歳)とクララ・ロックモアは寄り添うように冬のニューヨークを弱々しく歩く。ストップモーション、THE END。
 うんよかった。イイ作品だ。テルミンの存在もテルミン楽器の発明家でもあり、
電子分野でソ連に利用された技師アーティストを知った。知るほどに人間は喜び反面哀しくなる。

 

2005 / 1 / 25 ( TUE )

「男と女の詩」

 「男と女の詩」 1973年 : フランス
 監督:クロード・ルルーシュ
 脚本:クロード・ルルーシュ /ピエール・ユイッテルヘーヴェン
 音楽: フランシス・レイ
 キャスト
リノ・ヴァンチュラ(Simon)
フランソワーズ・ファビアン(Francoise)
シャルル・ジェラール(Charlot)

 それからすると「イギリスから来た男」もサスペンスロマンだが、娘を殺された父親の復讐もの。
ピーター・フォンだと気づかないくらい情けない。怒れおとうさんもの「男と女の詩」が上手い。
製作:1999年アメリカ
 監督:スティーヴン・ソダーバーグ
 出演:テレンス・スタンプ,ピーター・フォンダ

2005 / 1 / 22 ( SAT )

2001年宇宙の旅

 「2001年宇宙の旅」(1969)に登場するHAL。
 当時勘のいい観客はHALの名前がそれぞれあとに続くアルファベットIBMを示唆していると考えた。
しかし、そてはたまたまの偶然でジョークでもなく、A・Cクラークとキューブリックがまじめに
「 heuristic 発見的」と「algorithmicアリゴリズム」の頭部を並べただけのモノだった。(スタンリー・キューブリック/晶文社より)。

 2005 / 1 / 19 ( WED )

サーカスはボクの家

 HV特集「サーカスはボクの家」110分 ドキュメンタリー 
 ー砂漠をさすらう家族たちー
 ”メキシコ、バハカリフォルニア半島を40年近く巡り続ける家族サーカス。祖父である団長の下3世代17人が旅に生きている。
全員で働きあう姿、親子の情愛を見つめる。”
 日本の大家族モノや歌舞伎の親子モノに見られるやらせはない。 古きよき時代の日本の家族にも見え
泣けてもいいのに泣けるようには撮ってなく、どんな映画より素晴らしかった。カメラを感じさせない映像にのめり込んでしまった。
 NHKもヨン様に頼らずともイイもの創れるじゃん。

 2005 / 1 / 19 ( WED )

ブレードランナー

 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
 「ブレードランナー」のフィリップ・K・ディックの原作。
 1982年・米 
 監督:リドリー・スコット 
 出演:ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー 
 公開当時CGもないころの未来都市の衝撃映像に酔った。
 2019年11月、酸性雨が絶えず降る高層ビル群の都市は、うっとうしい薄闇に包まれていた。
宇宙船を乗っ取って地球に逃亡してきた4匹のレプリカントに感情が芽生えてくる。抹殺指令を受けたブレードランナーは彼らを追う。
レプリカント抹殺人が捜索した場所にぽつんと折り紙の動物をおいていくのだが、近未来の哀愁にも見えた。
 電気羊をペットにするのか。アイボ、アシモらもすでにいる。
 宇宙人を登場さすと、大体白ける。失敗する。増田明美さんもETに似てるなんて言われずにすんだろうに。
 HALも頭脳を抜かれ、キューブリックはボーマン船長をダビンチの受胎図にしてEND。

2005 / 1 / 17 ( MON )

「トンネル」


 監督 : ローランド・ズゾ・リヒター
 製作年 : 2001年 ドイツ
 配役:ハイノー・フェルヒ、ニコール・クレビッツ、アレクサンドラ・ マリア・ララ
 東西冷戦下、ベルリンの壁の下にトンネルを掘り、自由を勝ち取った人々の実話を基に描いたサスペンス・アクション。
監督はこれが日本初公開作となるローランド・ズゾ・リヒター。 
  壁の建設が始まったのは1961年8月。当時のベルリンは米英仏ソの戦勝4か国によって占領された状態だった。
ソ連占領区が東ベルリン、「ベルリンの壁」構築である。ちなみにトンネルの舞台となっているのはフランス占領地区。
 派手なアクション、オーバーな演技もない。昔風にじっくりと描いた佳作で、ハラハラドキドキと見入ってしまった。
 本日の新聞に掲載されたセンター試験・国語、第一問「吉田喜重(小津安二郎の反映画)」にあるように
見る側に視点を強制するのでもなくたのしめた。娯楽秀作である。
  第二問の「遠藤周作(肉親再会)」も同じく皆が皆その道で報われるものではない。
 もう二度と試験なんてと思ってはいたけれど、やってみた。やはり情けなくも惨敗。
オレは伊達に年とってきたんだろうか。哀しい色やねん。

 2005 / 1 / 11 ( TUE )

さよなら子供たち

  飢えた者には食事を
  渇いた者には水を
  ・・・と聖パウロの言葉をミッションスクールの教会で校長の神父が語る「ルイ・マルの「さよなら子供たち」(1987年作)のシーン。
 チャップリンの活動「街の灯」に合わせてピアノ、バイオリンの生演奏、子供たちは笑い転げる。
 ナチス占領下のフランスを舞台に、12歳の少年ジュリアンとユダヤ人の転校生ジャンとの
友情と別れを淡々と描いたルイ・マルの自伝的作品。
 ジュリアンとジャンはむさぼり読む。
 ー王女は持てる力すべてを使う
 エチオピアの情熱、アラビアの官能にゲルマンの純情インドの秘技ーヤーマンの媚態から中国の恥じらい
 激しい抱擁は絶えることなく二人の身体は離れない
 疲労で動けなくなるまで続いた
 最後には互いの腕の中で深い眠りに落ちた(千一夜物語)
 
 やがてゲシュタポが学校に入りユダヤ人狩りをはじめる。
 子供たちが集められた校庭を校長とジャン少年が連行されていく「さよなら神父さん」「さよなら子供たち またな」。
 あっけない幕切れに涙もでないジュリアンは二人が連行されていった木戸を呆然と見つめるだけ。
 「40年が過ぎた 私は死ぬまであの一月の朝を忘れない」。
 クレジットが流れる。

2005 / 1 / 6 ( THU )

  黒澤は「生きる」で行政の職員(志村隆)を空き地のブランコに乗せて、「ゴンドラの唄」を歌わせた。
「八月の狂詩曲」では原爆でひん曲がった校庭のブランコ、鉄棒、滑り台を登場さした。完全主義者とかいわれるが、
全然そうではない。黒澤はいつも映画で遊ぶ、あくまで映画なのである。
 松本清張らのように理屈や時代考証で迫っても意味をなさない。
 海外で受けたりスピルバーグ、ルーカス、コッポラらが接近したのもそこいらであろう。
 白黒はイイが、カラーでだめになったというのもはずれている。 黒澤さんにとっては映画は便利な遊び道具であったのだろう。
黒澤さんは絵かきを目指し美大を受験するが落ちる。そして映画へと映像手段を転換した。
最後にはその夢(遊び)を「夢」と言う映画にして(ぼろくそに評されたが)しまう正直かつ単純な人のようだ。
白黒のころの映像に黒澤さんの狙い以上に見る側がいろいろ読んでしまうのである。こうやて見ると黒澤さんは遊んでいる
のに巨匠とか呼ばれ演じなくてもいい自分を演じ、そこが皮肉にも悲劇(シェークスピアの作品)となってる。
 太宰も「人間失格」で「義のために遊ぶ・・」しかしやはり、はかない最後。
 アートにも純文学にも人間や社会と向き合い掘り下げていく深刻なものもあれば、
純粋アート、ミニマルアートやミニマル音楽などムダな要素のない単純明快な表現もある。
 子供のころデパートの屋上はどこもかしこも汽車や車がまわる遊園地。それが今はどこにもない。
その感触、懐かしさなども見あたらぬ。野原や路地裏を走った感触は今も消えぬのに。

2004年

2004 / 11 / 9 ( TUE )

  「刑事」
1959年、イタリア 、上映時間 118 分
 初公開年月 1960/06
 監督: ピエトロ・ジェルミ
 原作: C・E・ガッタ
 脚本: ピエトロ・ジェルミ 
アルフレード・ジャンネッティ 
エンニオ・デ・コンチーニ 
 音楽: カルロ・ルスティケリ 
 出演: ピエトロ・ジェルミ 
クラウディア・カルディナーレ

 「アモーレアモーレアモーレアモレミーヨ・・」は当時よく流行った。が、映画は見ていなかった。
かげりのある女性を演じていたのが当年二十歳のC・Cである。
二十歳には見えぬ女っぷりである。面白く見始めたが、後半焼酎が効いて寝てしまった。
 ピエトロ・ジェルミも「誘惑されて棄てられて」と「鉄道員」しか見てない。

 

2004 / 10 / 5 ( TUE )

   「暗殺」
 上映時間 104 分 松竹
 初公開年月 1964/07/04
 監督: 篠田正浩
 製作: 山内静夫
 原作: 司馬遼太郎
 脚本: 山田信夫
 撮影: 小杉正雄
 美術: 大角純一
 音楽: 武満徹 
 出演: 丹波哲郎  岡田英次  早川保
     岩下志麻  木村功    佐田啓二
     竹脇無我  小沢栄太郎 日下武
     武智鉄二  蜷川幸雄
 篠田正浩監督の「暗殺('64)」は小林正樹監督の「切腹('62)」の影響が色濃く、脚本、撮影(照明)、音楽それぞれが張り切り過ぎで、かみ合わず、ぎくしゃくしていた。部分的にはイイのだが、全カットを決めようとするあまり疲れる。しかし、最後まで見てしまった。
 当時の映画を今見るとそうそうたる俳優陣になつかしかったりするのだが、佐田啓二(時代劇ではお初)武智鉄二 蜷川幸雄らが出ていたのには驚いた。
 「切腹」は多久市出身の滝口康彦原作「異聞浪人記」を小林正樹監督が映画化したもの。
 滝口康彦さんは去る六月九日に亡くなくなられた(享年80)。
 初めてお会いした時からボクのことを「大ちゃんと親しげに」言われるのであった。遅ればせながらご冥福をお祈りいたします。
 

 2004 / 9 / 27 ( MON )

   
「華氏911」
制作、脚本、監督 マイケル・ムーア 2004 122分
  前半はブッシュとオサマ・ビンラディンの関係がダラダラと眠くなる。
 全体にいろんな音楽がうまく挿入してあり、気分転換にはなる。
 後半はたのしめる。
 誰が言ったか「階級は無知と貧困にうまれる」。
 ふざけたひどい話である。
 それをなくそうともせず、イイことに戦争で儲け経済を活性化しようとするのか。
 戦後をまだ引きずる日本の問題でもある。なのに米にしっぽ振るだけ。
 突撃監督もお国にゃいない。
 一日一回の映画を見にきてたのも、たったの8人。
 いずこも二重、三重人格。

2004 / 9 / 22 ( WED )

「ヴァン・ヘルシング」
  製作・監督・脚本 : スティーヴン・ソマー
          出演 : ヒュー・ジャックマン
              ケイト・ベッキンセール
  舞台は19世紀のヨーロッパ。バチカンから使わされた男、夕陽のガンマンばりのヴァン・ヘルシング(ヒュー・ジャックマン)は、
不死身のモンスター、ドラキュラ伯爵を捕らえるためトランシルバニアへやってくるが、ストーリーはどうでもよい。
狼男、フランケンシュタイン、せむし男、ジキルとハイドも登場する。フランケンが人間より人間らしかった。
ガンガン進む展開とアクションのジェットムービーの音響・効果音はしばしイイ子守歌になり、何度か瞬間的に眠っていた。
 エンディングのクレジットはCGやVFX、ワイヤーアクション、音響・効果音に関わったスタジオや制作者の名ばかり。
制作費は120億円〜190億円。ほとんどが特殊美術と特殊音響効果の費用であろう。
 眠気に誘われたけど、もったいぶらない単純さは新鮮で、3Dな映像と音響はバカみたいにたのしめた。CGやVFXは日夜進化している。
 これらを否定するかのように息を吹き返してきたのが、ヨーロッパ映画。日本映画もしっかりしろよ。

2004 / 9 / 16 ( THU )

 「スイミング・プール」
監督:フランソワ・オゾン
出演:シャーロット・ランプリング/
リュディヴィーヌ・サニエ/
2003年/フランス/102分/
 プールサイドに寝そべる女性。ポスターがきれいだ。舞台はニースとか地中海避暑地かと思っていたら、南仏プロバンスの森に囲まれたリゾート地。
この映画もカメラを引かないので全体の風景が見えてこない(流行なのか?)。そして最後にどんでん返しのミステリーと予備知識はあったのだが。
 始まりは意味があるのか意味がないのか判らないカットを小刻みにつないでテンポよく期待をもたせる(映画ならばそれが当たり前)。
カットも動作を起こすまでに留め、動作の断片をつないでいき、結果がない。説明なしのビュジュアルなCMの手法、に効果はあり、映像として見る側に焼き付く。
見る側は意味を探そうとしたりして、すでに作り手に誘導されはじめる。
 スランプのミステリー作家・サラ(シガニー・ウイバー似のシャーロット・ランプリング)は出版社社長の薦めで南仏の別荘にでかけるのだが、
この辺で、ドンデン返しも引っかかり、デイヴィッド・フィンチャーの「ゲーム」や、TVの「スパイ大作戦」がちらついてしまうのであった。
 そこへ突然、出版社社長の娘と名乗るジュリーが現れ、二人の同居がはじまる。ジューリーは自由奔放に振る舞う。
変なおやじたちを連れ込んではSEXとスイミングにまばゆく裸をさらす。ジュリーは見せる側。小説家はのぞき見る側の構図。
 いらだちながらも中年女流作家は次第にジュリーの振る舞いに自身が忘れていた欲望をよみがえらすのであった。
ここにもミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」を垣間見る。
 ラストの意外な結末もアレハンドロ・アメナバールの「アザーズ」が見えてしまった。
 読んでた通りだった。やれやれご苦労さんと席を立つ。
 服を脱ぐように虚構と現実にブレる女性心理を斬新な映像で見せてはいたのだが、特に評判になるだけの新しさも要素も薄い。
なのに映画賞を取ってる。わからん。
 娯楽か芸術かの差であって、ボクには見え見えなのが鼻についた。
 美しくこの監督の罠にはめられたでは、現状が貧しい。
 ラストのトリックを知らずに見たとしたら、感想は異なるか、それでも頭に来るだけだろうが、映画の見ると見られるの根本原理をオゾン監督は遊んだ。
としたら遊び心垣間見せない映画作りに卑怯にも引っかかったことになる。映像作家には違いない。 

2004 / 8 / 5 ( THU )

真珠の耳飾りの少女
出演:スカーレット・ヨハンソン
     「ロスト・イン・トランスレーション」
   コリン・ファース
     「ブリジット・ジョーンズの日記」
監督:ピーター・ウェーバー
撮影監督:エドゥアルド・セラ
     「鳩の翼」「髪結いの亭主」
11時40分AF291便は関空からパリへと飛び立った。もうタバコは吸えない。昼食はサーモンのミソに煮。ワイン二本呑んでイイ気持ち。
 「真珠の耳飾りの少女」フェルメールの秘密のモデルになった若い女中の物語。
座席の小型テレビで見るが、フランス語に吹き替えてあるので、さっぱりわからん。英語でも同じか。
17世紀のオランダの画家フェルメール。かつて彼の画方をまねたことがある。技法的にも偉大な画家である。
フェルメールの絵のような光と影のくすんだ映像の再現ははなかなかのものだが、フェルメールが絵をかくシーンで、その下絵のマズサに幻滅。

2004 / 6 / 22 ( TUE )

        「幸せになるためのイタリア語講座」(チネチッタ例会)
       監督・脚本:ロネ・シェルフィグ /2000年/デンマーク/112分
       アル中の母親は小さな美容院を営む娘に病院を抜け出ては甘えすがり、また別の病弱でわがままの父親はケーキ屋を営む娘と二人暮らしだが、自分の意のままに独占しようとするが、
       それぞれ娘たちは献身的に親に尽くす。「ここまで育ててっやった親の恩を忘れたか」と子は子でありいっしょに住みたいのである。
       十代で自立し親子離れをするという西欧の親子感、それがまた福祉王国デンマークの現場での矛盾、本音の部分か?。結局は二人の老人は惨めに果てる。
       ラスト、イタリア語講座のみんなでベニスに行くのだが、それまで顔のアップと室内ばかり、そこがデンマークであることは判るが、
       カメラを意識的に引かないから全体の風景、場所が見えなく見る側としては息苦しい。
       ベニスでやっとカメラがパーンしてベニスの風景が広がる。寂しくウツな先の見えない6人の大人の恋はベニスのペニスで三組のカップルになって、Fine 。
       これが希望か?シナリオとしてはおもしろいのだろうが、映像としては疲れる。顔のドアップ、室内ばかりじゃドグマもクソもない。

2004 / 6 / 11 ( FRI )

「THE UNFORGIVEN」 許されざる者 (1959)
 監督: ジョン・ヒューストン  出演: バート・ランカスター     オードリー・ヘプバーン 
クリント・イーストウッドのそれではない。劇中、牧場で宴をしている背後で青年たちが「馬乗り」をしていた。
馬の尻から飛び乗り、最後に乗る者を落とすのである。実際に馬を使っての馬乗り。子供じゃ無理。

2004 / 5 / 10 ( MON )


 「地下室のメロディー」1963年、フランス。
  アンリ・ヴェルヌイユ監督。
 何度もテレビで見るのだが、高校生のとき見たのが最高にかっこよかった。「全然緊張感がなく、コワクない。こんなのがおもしろかったの」と嫁さんは軽くのたまうが、今見ると確かにそうだ。当時としてはギャバン、ドロンがでているだけでもよく、ひやひやどきどき、「フランス映画はイイな」なんて幸せな時代である。外国を知らぬ我らとしては全てがお初で、あこがれの対象だったのである。この映像から教わったことも多々ある。青春の思い出として気楽に見れる。
 アンリ・ヴェルヌイユと言えばギャバンの「ヘッドライト(1956)」。恋する中年の男の悲哀が今日にも通じる不屈の名作だ。ベルモンド、ヴァンチェラの「太陽の下10万ドル」は「地下室の・・」並にこけるかもね。
 それに比べりゃ、ヒッチコックの作品は古いのであろうと、色あせない。ぐいぐい引き込む醍醐味、映画の力がある、のに当時の観客はヒッチコックを理解できなかったようだ。アメリカでもあまり受け入られなかった。ハリウッドはオスカーの一つもヒッチコックに上げてないのだ。映画は異なるが小津もそうだよな。

2004 / 5 / 6 ( THU )

 
 「クリクリのいた夏」
 原題:Les enfants du marais
 1999年/フランス/1時間55分
 監督:Jean Becker ジャン・ベッケル
 出演 : ジャック・ヴィユレ、ジャック・ガンブラン、アンドレ・デュソリエ、ミシェル・セロー。
 「マルセル・・」シリーズの線上にあり、フランスの美しい田舎の風景、ノスタルジー。しかし、子供は登場するも大人の子供回帰である。金があっても幸せとは?無くしたものは何?金はあってもなくても、楽しいことが幸せへの近道。とありふれたテーマではあるが、カエル釣り、カタツムリ捕り、ウナギ釣りと大人が子供になるところが、過去のノスタルジー映画と異なる。衣装はなんとエルメス!
 先進国の中では、一時期低迷はしていたもののフランスが歴史的にも思想的にも先をいってるようだ。アメリカに対してもはっきりとモノ言うし、「人が人間であるということ」を最も大事に考えているようだ。
 スティーブン・キングの本にしても、本来は「クリクリのいた夏」なのだが、ハリウッドはサスペンスに全エネルギーをそそいでしまい興行先行、日本でも創れるはずなのにアメリカに同じ上滑り、無理か。小津で停まっている。「寅さん」じゃ、ほのぼのとだれもが知ってる常識の世間。
 常識も当たり前もノスタルジーも当然のこととして、冷酷にもさらりと自我を通す。「記憶の風景」もそこだったんだけど・・?「クリクリのいた夏」はさらりと深い。ノスタルジーとは違うのだ。フランスを見直す。ボクには元来花の都パリだからね。

2004 / 4 / 2 ( FRI )

チネチッタ例会「女はみんな生きている」
'02/コリーヌ・セロー監督
 これまた女性監督である。
 女は幸せを探し自由を勝ち取ろうとするのに、
 男は仕事、セックスで、女をもモノとして拘束するだけの先のない動物と言ったところか。
 はじまりの高級マンションに住むサラリーマン夫婦のあわただしい朝食と出勤風景。ラストの高台の別荘の前で4人の女がベンチに座り海を見ているシーン。これさえ決まればプロットはいかようにもできる。
 夫婦、母と息子、アルジェの家族のイスラム的男尊女卑、人身売買、フランスの売春組織の裏社会の4本柱をからめ、主婦と娼婦がスリルとサスペンスのしっぺ返しをするお話である。
 売春組織の場面になると光と影のビジュアル効果を使いバイオレンスが生々しく「痛い、痛い、止めて、死ぬ」と言いたくなるほどのドキュメントタッチのリアルさが痛い。「この男凶暴につき」のたけしの暴力でもある。
 それに比べ女の暴力は主婦が売春組織の男の頭を背後から材木で殴り倒す1回のみ。見る側からすればナイフちらつかす組織のハゲ爺・ボスをはじめちんぴらもそれぞれにお仕置きしてほしいところだが、頭と女の奥の手で男どもを骨抜きにし、アホな男をさらすことで、良しとしているようだ。
 売春の裏で人権もなく流されていく移民、貧民の無垢な娘がいることを告発しているのでもあろう。フランスの売春法に一石を投じたのではないか。それだけにリアルな組織、暴力の表現が必要だったのであろう。
 ストリートガールのノイミが大家族の娘から大富豪を手玉にとるまでの変貌は「マイフェアーレディー」でもあった。
 娼婦と主婦は以心伝心で警察を利用し組織を壊滅さし、娼婦を解放する。そして、「これからはSEXはしない」と宣言する。
 ラスト、ベンチに座る4人の平常な顔が数秒づつ映され、サラリーマンの息子からしいたげられる母である老婆の顔のアップで暗転して、クレジットが流れる。
 この女性たちにとって、愛とはSEXとは・・。愛してはみたものの、SEXはしたものの、生まれているのはこの現代のハイエナ息子たち。
 フェミニストでもなくベンチに座り遠くを見つめる眼差しは、かつては、圧倒的に大陸的な未来を探す、大志を抱く男性のものであった。「ライアンの娘」「八月の鯨」辺りから女性も遠くを見つめるようになった。
 男からすればスカットするよりは、ラストには限りなく哀しみに近いものがあり、始終作り手に誘導されつづけいたようで娯楽とも社会派ともつかぬ佳作ではある。
 女性にすれば多くが、普段から主人公の主婦のようにできたらと
思うところで、スカッと痛快かもね。
 題名タイトルはあれでよかったのか。「ぼくらはみんな生きている、生きているから歌うんだ・・」が浮かぶ。
 「女はみんなお天気次第」「女はみんな気まぐれよ」「女はみんなコワイのよ」とか、ダメか。

2004 / 3 / 22 ( MON )

イノセンス

  「イノセンス」押井守監督を見る。
 おやじはボクだけ、20代のマニアやオタクが10名ほど。
 人物は従来のアニメだが、背景が複雑細密、奥行き深淵。複雑なな合成がアニメとは見えなかったりする。コマ割りも映画的。押井作品を外国の映画がまねると言うのも判らなくもない。
 「マトリックス」のテンポと大音響に「2001年宇宙の旅」を最初見たときのような眠気に襲われた。
 テーマは人形で、四谷シモンや腰巻きお仙の哀しいエロスがにじむ。しかしアニメには変わりなく、お金出して見るか、
止めるかは自由。「ブレードランナー」の動画版か。

2004 / 3 / 12 ( FRI )
[クジラの島の少女]・Whale Rider。
(佐賀チネチッタ例会)


 '02/ニュージーランド/ニキ・カーロ監督、脚本。
 ほぼ予想通りであった。
 女の子にはマオリ族のリーダーの跡目の資格はなく、孫娘はおじいさんに冷たく当たられる。冷たくされ、後に和解するという泣きの展開ではあるのだが、予想以上に泣けて、困った。
 いじめにいじめぬかれる「おしん」とは文化も背景もほど遠い、故意なお涙頂戴はなく、泣けるタイミングさえこの女性監督はずらしたり引き延ばしたりするのであった。
 監督も出演者も全てマオリ族。NZの先住民・マオリ族の神秘な文化伝説の現代版である。おじいさんに冷たく叱責されながらも、孫娘パイケアが神秘な海のアウラを得て逞しくなっていく課程は、閉塞的な現代人へのオマージュであろうか、おじいさんとの差異が均等に変化しだす。おじいさんがかわいそうに現代人へと傾斜するのであった。
 日本の家長制度に似たところがあり、おじいさんは制度にガンコなのであって、ボクの父もしていたように自転車のフレームに板を乗せ布を巻いた腰掛けにパイケアを乗せ学校の送り迎えをするやさしいおじいさんなのである。部屋のタンスの上には博多人形らしきものも飾ってあった。「誰の仕業だ」とうすうす気づき、集団座礁したクジラを海へ戻そうとやっきになるグリーンピースでもあったのだ。
 あれを見てたらとても「クジラを食べたい」なんて言えなくなる。しかしマオリ族も本来は捕鯨をし、海の授かりものとして食料としていたのである。ここでは国際的な見地からもクジラを海の神と仰ぎ愛で神聖化したクジラ保護の立場にマオリを置いたのであろう。
 NZはマオリ族とヨーロッパ移民が仲良くやってる国と聞く、昨年NZのロトレアでマオリの戦いのダンス(ハカ)を観光で見た。観光ずれしてない。映画と寸ぷん違わないのには改めて驚いた。かつて好戦的な民族も、今は「オールブラックス」ラグビーが戦いの場。おだやかで人なつっこく、言語も日本のアイウエオと同じとのこと、白人移民もマオリ化し日本人には接し易いのである。
 ラスト、マオリのダンスに見送られマオリの男たちが舟出していく、舟上には全身マオリのおじいさん、ドイツから戻ってきたパイケアの父がいて、子供を宿した新しい奥さんもいる。ニューリーダー・パイケアは言う。(英語は聞き取れなかったが)
「みんなが力をいっしょにすれば未来は築ける」。
 教壇の先生の訓辞のようでも、気負いがない、そうやって家族は大きくなり、国をつくってきた。
 それはマオリ族であり、イギリス移民とマオリ、日本と韓国、街の再興であったりした。背後には女性の自立、男女共同参画、ジェンダフリーもあるのだろうが、マオリの伝説の中ではあまりにも小さかった。
 ラストには泣かせない配慮が。涙を見せずにすがすがしく館をでていけるよう考えていてくれたかどうかは判らないが、観客は中途半端な笑みを浮かべて、ややうつむき加減、まだ涙目なのか、どこか照れてる。
 たまには青いクジラのいる海、失われぬマオリの伝説、健康的に泣けるハッピーエンドもイイではないか。

2004 / 3 / 2 ( TUE ) フィラデルフィア/白い刻印/西部の男

  「フィラデルフィア」’93、ジョナサン・デミ監督。エイズとホモの裁判劇。今見るとこっけいでさえある。弁護士デンジェル・ワシントン、トム・ハンクスが身をそぎ落としてエイズ患者を好演。
 「白い刻印」’97,ポール・シュレイダー監督。ニック・ノルティ、ジェームズ・コバーン。雪深い田舎。父の暴力をトラウマに成長した息子も最後には父と同じ道をたどる。晴れた雄大な景色は見せず、最初から最後までワイエスの絵のような田舎の雪景色。
「シャイニング」のよに雪が狂気を生むのか、ねらいすぎ、演技過剰。内容のわりには単純、独り(監督)よがり。
 「西部の男」’40,ウイリアム・ワイラー監督。ゲイリー・クーパー。人気役者女性の髪の毛を何より欲しがるワル。
「兵隊やくざ」で勝新太郎が女性の陰毛を宝のように持っていたのを思い出した。

2004 / 3 / 10 ( WED )

沼地という名の町

 
 「沼地という名の町」
 '01/アルゼンチン/ルクレシア・マルテル監督
 アルゼンチンの田舎の二つの家族の酒とプールと蒸し暑い部屋でごろごろするだけの倦怠的な日々。入りどころがなく、始まりも終わりもどこでもイイ。変な映画ではあるけどつき合っていられない。
 カラーなのに光りと影のモノクロ的映像、カットが少なくカメラが動き回る辺りは実験的だけど、アルゼンチンのぐうたらにはつき合いきれない。これでもベルリン映画祭で賞を取ってるみたい。

2004 / 2 / 19 ( THU )

ポロック

 クリニック。みなさん元気。それ以上にはしゃいだボク。
 「あれっ、先生がハイになってある」
 「これぐらい誰にもあるし普通ですよ」と言ったのだが。
 チネチッタ例会「ポロック」を観る。少ないだろうと踏んでいたが、意外や、大入りであった。2000年の作品で、いろいろ受賞している話題の映画ではあったのだ。
 エド・ハリスが構想より10年を掛けて主演、監督をした。
 場末の流行らない映画館でたばこでもふかしながら見れたらリラックスできたろうが、文部省推薦映画を見るように一同、息もつかずに画面に集中していると思うと、逆におかしくなって、クラシックコンサートに来たんじゃない、と最後まで思っているうちにポロックは自殺?した。
 過去に観たミケランジェロ、ゴヤ、ゴッホ、ロートレック、モジリニア、ダリ、バスキア、とは当然異なる。
 狂気と愛がテーマかと見える。狂気がポロックで愛が妻であるリーという図式になるのか。興行的映画の宿命としてそうするしかない、歯がゆさがあったと思う。
 アル中から酒を断っていたポロックが、突然酒をあおり、ポロックのドキュメントを撮影している写真家・ハンス・ネイマスに当たりちらす、それを知らぬかのように流し台で肉切りナイフを研ぐ妻。どちらが爆発してもおかしくない状況。二人が顔を会いさずの間合いに男と女を見た。ここのシーンの演出と演技が特に際だち、シュールであった。
 結局は精神を煩うポロックが破裂するしかなく、宴の大テーブルを星一徹よろしく破壊するのであった。 
 この暗黙の間合い、距離感を問いつめていくべきであったろうが、興行的な愛を持ち出し、判りやすくしてしまった。アメリカ映画なのである。見えない二人の関係を狂気として扱うべきで、行動、言動に日常を置くべきであったろう。それが逆さまになってる故に一元論的化するのが惜しい。
 妻・リーがエゴイストでかいかぶりで独占欲の強い女ともっと見えてくるべきである。観る者には「ポロックの才能を敬愛するあげまん」としか映らない。エド・ハリスはそこを見失ったかのように演技に熱演してしまっている。ポロックが役者としての自分と同じかのように。
 ポロックが1956年に44歳で死んで、後の1970年に彼を診ていた精神科医がポロックのドゥローイングを公表している。かつて「芸術生活」(廃刊)でそれを見たことがあるが、訴訟問題になったらしい。
 ポロックの制作シーンは、ポロック本人があたかも絵をかいているように錯覚してしまうほどのエド・ハリスの特訓の跡が伺える。描き出しからして画面が決まっているのだ。それをカットなしで見せた。ここまで見せた映画も役者もはじめてだろう。
 ドロッピングも突如インスパイアした訳じゃなく、西欧のダダ、シュルレアリスムを背景に影響、苦悩していたのであり、ニューヨークには第一次大戦から亡命や逃亡してきた西欧、北方のシュルレアリストをはじめ優れた作家が周りにはいたのであり、ドロッピングら自動記述法もすでにシュールな技法としては存在していた。ポロックはそれに表情と意志をあたえたのである。決して孤立と苦悩からだけ生まれたものでもない。モンドリアンらは早くからポロックを賞賛していたのである。
 もう少しずっこけてくれればイイものを、暖炉にポロックが小便しても笑えないのである。ポロックも普通に病気をもったやさしい女好きな男だったはず。笑いと狂気も紙一重であろうが、疲れた。
 ラスト、クレジットが流れる中酔いどれ詩人トム・ウェイツが謳う「WORLD KEEPS TURNING}のハスキーボイスは青春のソーダー水のようだった。
 原作はピュリッツァー賞「JACKSON・POLLOCK:AN AMERICAN SAGA」
 SAGAは、大河、伝説と訳せばイイのか。かつてノルウェーで「SAGAマシン」という歩け歩け運動みたいな催しがあってて、そのとき、ノルウェー人に「佐賀とSAGAとは同じ」と言われたことがある。SAGAは北欧伝説という意味もある。
 ポロックだけに絵かきさんたちの顔が多く見受けられた。
 「私、ポロックって知らなかったんですよ」クリニックの精神科医・啓子先生もお見えであった。

2004 / 1 / 8 ( THU )

ラストサムライ

 遅ればせながら期待せずに見に行った。
 Ken・Watanabe,Hiroyuki・Sanadaは気負うことなく好演だった。「ラストサムライ」。「座頭市」の浅野忠信もよかったが、トムを引き立てサムライやってたケンやサナダは黒澤のサムライとは確かに違ってきている。日本時代劇の斬られ翁・寡黙な侍・福本清三さんには泣ける。拍手。武器商人・原田真人も迫力。
 テーマが明治天皇即位後の滅び行く「武士道」だけに賛否両論あろうが、日本の扱い(捉え方)に特に不自然さは感じなかった。オーストラリア、ニュージーランド、アメリカでのロケだけに、熱帯樹木があったり、日本の山村風景とは異なって見えてしまうのは仕方ないか。
 黒澤、ジョン・スタージェス、吉田喜重の映像がちらつく。
 武士道愛好(かぶれ?)の西欧人の映画と見えないこともないが、2時間50分、十分楽しめた。
2003年

2003 / 12 / 13 ( SAT )

東京物語

 「一人になりますと日がなごうなりますわ・・。」
 「東京物語」のラストの一節をまねたら、案の定
 「そんなん(老け込ん)じゃどこも(海外)いけないよ」と軽く嫁さんにあしらわれたが、その一言を期待してのことでもあった。
 笠智衆さんも35才であんな年寄りの役ばかりやらされたら、仕事とは言え複雑だろうね。
 「東京画」の中で笠さんはインタビューに答え「監督が言われる通りやるだけでした。いつも白紙でいようと心がけてました」。操り人形かロボットであったとの意も含み、それで役者として生きてこられたと言う現実を見ているようであった。普段の笠さんは別人だろう。
 どうあがいても”映画は監督のもの”と言い切る名優は多い。
 一度テレビドラマに出たぐらいで、女優と名のってる訳のわからんタレントみたいのもうじゃうじゃいる。ここに日本映画の衰退の姿を見る。
 小津さんの映画にしても当時としては、当たり障りのない適度に観客動員できる品のイイ娯楽映画に過ぎなかったろうし。そこに小津映画の否定さえあったのである。
 創るってことは自分の欲望を抑えたとこらで「何のために」と言う問いを常に突きつけられる。ましては映画は興行収入がなければならぬ。役者を思い通りに操つれたとしても、わだかまりを残して自作へいくだけ。
 小津さんを見ながら、美術の世界の貧なる現実に、冒頭のような台詞を吐いてみたくもなる。自由なはずの色や形にしても同じことである。

 2003 / 12 / 9 ( TUE )

小津安二郎

昨夜の夜、正しくは今日の00:00時。ヴェンダースの小津安二郎のの痕跡を追うドキュメンタリー1983年作「東京画」をやってた。ビデオももってはいるが、見るのは2度目。
「東京物語」をベースに淡々とカメラは花見、路地、サンプル工房、パチンコ店、繁華街、鉄道、笠智衆、小津の墓、東京タワー、高速道路、小津のキャメラマン・厚田さんを立ち止まったり、歩いたりで映し出していき、一つの結論にたどり着く。
 ”小津の世界は急速な変革で最早埋もれて見えない。探し出すしかないと”。
 それは我々日本人へ向けて言われているみたいでもあった。
 小津の家族のテーマはこ世界共通、私の家族のかかえるテーマでもあるとヴェンダースは言いきる。
 かつて大島渚と対談したヴェンダースはこうも言った。
 「意見を求めると、西洋人はすぐに反応してイエス、ノーなり感想をはっきり言うけど、日本人はそうではない。その時ははっきりと言わないが、話してるうちに本当のこと真実が見えて来るのは日本人の方です」西洋人は反応するのは早いが無責任に言うだけで中身がない、と言う意味のことをいってた。大島はちょっとぽかんとして、それには反応できずにいた。ヴェンダースが単に媚びをうったり、日本通ぶってるのでもない。これさえも日本人が捨て去り無くそうとする、(あるいは西洋から捨て去るよう強制されている)動向への冷静な人の目だと思う。恥じることも、照れることも、曖昧なことも、日本人にも世界にとっても意味はあるのだ。
 知性ある外国人で恥じらう曖昧な日本人にいらだつ者などいなかった。
 どうこう言っったり、生じているのは、ゴシップ、週刊誌の世界であり、そこを戦略として使われているにすぎない。ヴェンダースが言わんとすることも言い換えれば日本人がもっていた小津の世界なのである。
 トップに立つ者イエス、ノーの決断を迫られようが、すべては冷静にどれだけ見れるかにかかってくる。

 2003 / 12 / 8 ( MON )

小津安二郎生誕100年

小津安二郎生誕100年。海外での評価は黒澤以上かも知れない。ヴェンダースやホウ・シャオシェンなど渋くじっくりと撮る影響を受けた監督も少なくない。
 最初小津作品を見ると、だらだらと日常を撮ったような「こんな映画のどこが面白いのか」と思うものだ、評論家の西村雄一郎さんからも、かつて同じようなことを問われたことがある。
 ところが時間が経つほどに気になり、はまっていくのである。
 速いテンポの映画がある傍ら、このタイプの映画はすたれることがなっかった。世界の映画の潮流は今この方向がつよく、繰り返し小津の名が登場するのである。ハイパーな面白さとテンポの映画もあってよし。観客はまた、映画にゆるやかな時間も求めている。映画が本来の時間を取り戻すときでもあろう。
 嫁さんの母さんが退院した。どこも病院は一杯で出ざるを得ないのである。ご本人は自分の城で好きにできるとルンルンである。現実はきびしいが、また、ひっくり返えられたら、その時はその時。好きに暮らすが幸せ。
 退院祝いに鰻丼とって3人で食べてる。3人でなくてもよいが、小津の世界である。Let it be .日々どこにでも小津の世界はある。当たり前の人々の日常。
 「麦秋」で原節子が洗濯ものが干してある山の見える裏庭で老人に言う。
 「あのお嫁さんどこへ嫁いでいくんでしょう」。

2003 / 12 / 7 ( SUN )

吉本新喜劇

 吉本新喜劇には笑ってしまう。馬鹿馬鹿しさが徹底している。
子供のころからテレビではあるが、見ているが、飽きない。目の前が暗いときも思わず笑ってしまい、気分が晴れる。奥目の岡八郎、花紀京、原徹夫、平三平、船場太郎、チャーリー浜、婆さん役の桑原和夫などがいたが、ほとんど入れ変わった。姿を見ないと思っていた船場太郎さんは大阪府議会の議長をしているとか。今は池のめだか、パチパチパンチの島木穣二が面白い。笑いは体にイイ。笑う門には福が来る とも言う。今年はどれだけ笑えたか。失敗して笑われたこともしばしば。

2003 / 9 / 24 ( WED )

ボウリング フォー コロバイン


 野口さんにいただいた「BOWLING FOR COLUMBINE」を見る。コロンバイン高校のライフル乱射事件を基にアメリカの銃社会をあらゆる角度から検証しようとするマイケル・ムーア監督、脚本、リポートのドキュメンタリー。歴史的にも民族、人種的にも捉えきれない矛盾の連続、アメリカのウソ、銃社会アメリカの異常さがある。
 そこでまた思うのは「極私的エロス」や「ゆきゆきて神軍」の原一男監督のことば。「ドキュメンタリーも自然な真実でもない、カメラを構えるのはすでに写す人の思想が介入する」といつか大島渚とテレビで喋ってたのを思い出した。
 「ボウリング フォー コロバイン」後2回は見てみたい


2003 / 9 / 21 ( SUN )

HAZAN


 古湯映画祭も20年目と言うことだが、訪れたのは今回が初めてと言うのも不思議なくらい。
 「ホテルハイビスカス」が終わり入れ替えで会場に入るゴザがホールいっぱいにばーんと敷かれて、その上に寝転がる。ゴザの下にスポンジのようなクッションしこんであり、気持ちがイイ。
 五十嵐匠監督のあいさつがあり、照明が消え陶芸家「HAZAN]がはじまった。ざこ寝して足をスクリーンに向けて見るのは映画に失礼な気もするが、この映画祭ならではの贅沢と許してもらおう。
 映画が終わり明かりが点くと、何と隣りで寝っ転がっていたのは同窓の脚本家古田求くんではないか。彼の初仕事「ダイナマイトどんどん」で前日のシンポジュームのゲストとして泊まりがけで来ているとのこと。
 今日上映された映画の監督や脚本家が一堂に会してシンポジュームが、1時間あった。佐賀出身の緒方明、HAZANの五十嵐匠、大森一樹監督等がよく喋っていた。
 スタッフの大歯さんがパーティーには参加したらと誘ってくれたが、後ろ髪引かれながら帰ることにする。
 とんかつ屋で「HAZAN]の話しになる。イイはずの映画もそれぞれが感じた不自然さをトータルすると、駄作と言う範疇に収まるようだ。絵画でも映画でもそれだけコワイのだ。シンポジュームでもいろいろ話しがでていたけど、観客は観客であると同時に批評家以上に批評家で、イイ作品と言われていようとばっさりと斬りすてられるのである。いくら理論派であろうとイイものを創るしかないのである。

 2003 / 9 / 9 ( TUE )

座頭市

こんなスゴイの今まであったか。
 北野武・監督、脚本、編集の「座頭市」。
 期待と想像をはるかに越えて、全編に息つくヒマを与えない。
 時代劇の伝統的様式と約束事を踏みながらも、それを壊し、ズラし、異種感情をいだかせる。「用心棒」「七人の侍」等さまざまな映画が頭をよぎる。
 狭い空間であり、全体の場としての風景は冒頭の下手より葬列がきて、上手より座頭市が現れすれちがう舞台のような田と山のシーンぐらいで、日本的宿場、旅籠の空間なのだ。黒澤ならズームで上から横から全体を映し出そうが、それを避けている。
 「その男凶暴につき」同様、アメリカでも西部劇でもないのだ。それでいて「ワイルドバンチ」「許されざる者」の非道なるバイオレンスがダブって見える。
 座頭市と浪人・服部源之助夫婦と旅芸者姉妹を三つの軸としてそれぞれ同時進行で描いていき、やがて三つの流れが一つに合流していく。ルイ・マルの「死刑台のエレベーター」の手法である。
 ボクは元々雨宿りに興味をもっているのだが、雨宿りのシーンが何度も登場してそれだけでもうれしくなる。
 最後には百姓が残り「勝ったのは百姓だ」とする雨の中の殺陣、農家の炎上、百姓のタップダンスに「七人の侍」的思想が見えるが、視覚的には全然違うものになっている。
 土、雨と火をだしたなら、どうして風、雪をださなかったかは疑問である。会う機会があれば訊いてみたいところ。
 とにかくぶった斬りのエンターテインメントを創ったのである。 何がスゴイかは、映画ならでわの職人たちの照明とカメラ、(もちろん役者の演技力も)口で言うより見るしかない。そして後後どれだけ脳裏に焼き付いているかだろう。
 度迫力に微動だにせず息を飲んで見入っているのだが、どこかでは何故か絶えず熱いものがこみ上げてくるのであった。
 たけし、石倉三郎,岸部一徳、大楠道代、柄本明等1947年、1948年生まれが脇を重厚に固めており、団塊世代へのオマージュ、エールと映らないこともない。
 クレジットが流れ、ざわざわと席を立つ者たちがいる。観客20名はいただろうか。最後まで席にいたのは5人。心地よい余韻に立ち上がりたくなかった。「許されざる者」を見たときのように。
 そりゃー監督賞でも何でも取るだろう。いよいよハリウッドが黙っていないだろう。
 勝新や黒澤が生きていたならこれを見て何と言うのだろうか

2003 / 7 / 18 ( FRI )

ベトナム戦

 
 手持ちの「天と地」「プラトーン」「ディアハンター」「フルメタルジャケット」を早送りして、ある植物を探していたが、みつからなかった。
 「地獄の黙示録」マーチン・シーンが巡回艇PBRで河を上っていくとき波に揺れていたホテイアオイが目に焼き付いており、ベトナム戦争映画にはホテイアオイありと思っていたのは、錯覚で、共通するのはローリングストーンズだった。「天と地」にもホテイらしきものが見えるが、確認できない。ちなみに「地獄・・・」はフィリピン ロケである。熱帯アメリカ原産のホテイアオイは水田地帯につき物には違いない。

 2003 / 6 / 20 ( FRI )

イノセント ライフ

 続いて、昨夜遅く、スウェーデン映画「イノセント ライフ」をテレビで見た。1920代の話しらしいが、やってることは日本の悪ガキたちと変わらない。養護施設に入れられる少年。全員を裸にして湖に放り込んで頭を洗い,服を洗う。シラミ退治。教師と生徒が引き上げた後、そこで少年はカエルをみつけ、カエルといっしょに湖に沈む。こんな終わり方じゃ、つまらんと思っていたら、案の定、両手を突き上げて少年はシャチのように「うぉーっ」と水中よりジャンプ。そこで映像は静止、クレジットが流れる。
 子供を登場さす映画は、洋画に多い。昔よりイタリアがうまい。”汚れなき天使”シリーズをはじめ、親子ものでは、「自転車泥棒」の右にでるものはない。
 邦画ではほとんどがも昭和30年代の郷愁に終わる作品が多い中、小津安二郎が子供を多く撮っており「長屋紳士録」等はおもしろい。
 日本映画は総じて子供をちゃんと描けない監督ばかり、台湾のホウ・シャオセン監督の「童年往事」にまだボク等の少年時代を見る。

 2003 / 6 / 19 ( THU )

過去のない男


 ヒマそうなのでお昼でかえることにして、イバに寄ろうとするが、どうも台風休暇のようであった。
 台風も治まり、夜、チネチッタ佐賀の「過去のない男」を有楽に見に行く。おもしろかった。アキ・カウリスマキ、フィンランドの監督である。フィンランドはかってヒッチハイクで縦断しただけに、なつかしく親近感をおぼえる国である。親日的な国で、東郷将軍を讃える”東郷ビール”もあり、うまい。
 同監督の「白い花びら」も不思議なおもしろさに引き込まれて、見ているはずなのに、全く思いだせないでいる。かなり進行しているようだ。何が?これも記憶喪失と言ったほうが、まだ聞こえはイイ。
 「過去のない男」は、夜汽車で降りた男が公園のベンチに座っているところを、物取り暴漢グループにバットで叩きのめされ、九死に一生を得るが、過去を忘れてしまう。
 見る前から、ヴェンダースの「パリテキサス」のトラビスをイメージしていた。パリテキサスはまじめに重く現代の男と女の問題に終始一貫していたのだが、「過去のない男」も不況下の疎外感、孤立感を暴力を交えアメリカ的に描いていくのだが、戦後のイタリアシネマにみられるような無責任さ、いい加減さを注入し、深刻になるのをかわしている。ラストは正に黒沢の羅生門である。
 つつましくも「生きていこう」と希望をもたせるのである。このテクニックは観客に「生きていこうよ」と強要するものではなく、やはり映画の持つ格好いい治まり方のパターンである。もっと言えば、全体の流れの作法、編集のうまさでもある。
 現代の病を見ていながら、どこかでは、ほくそ笑んだり優しい気持になっていく。
 大げさに戦争、やくざ、文学等を舞台にせずとも、だれも気にも止めない町のはずれのホームレス地区の日常、孤独な男と女の出会いを辛辣に描いていく。見えないもの、見えないところに見つけるもの、見ようとして見えてくるもの。同感である。
 フィンランドもスカンジナビアでは何もない国、貧しい国。この監督の思想には新たな未来がある。行く行くは世界を救うのである。思想疲労も制度疲労も芸術疲労のどん詰まりもここにある。
 佐賀もなまじっか有るとか言わず、「何もない」と認めるところから考えればイイのである。

2003 / 5 / 30 ( FRI )

デッドマン

 
 J・ジャームッシュ監督「デッドマン」J・ディップ、音楽ニール・ヤングを深夜テレビでやってた。
 以前見たときより、こうして見ているとさらにイイ映画である。
セピアの映像にニールヤングのギターがおどおどろしくて、細胞が奮い立つ。「パリテキサス」のライ・クーダーのギターをも彷彿とさせる。
 多く、映画はかっこよさと理想を描く。理想と現実は違うと言うが、多くはウソの現実に身を甘んじている。だからはかない。

 2003 / 5 / 13 ( TUE )

MISHIMA 

"MISHIMA"1985年 
 遺族の要望で日本では劇場、ビデオとも未公開
 コッポラ、ルーカス共同製作、
 監督 ポール・シュレイダー
 美術監督 石岡瑛子 カンヌ映画祭芸術効果賞 
 緒形拳、沢田研二、佐藤浩市、板東やそすけ、
 永島敏行、三上博史、萬田久子、烏丸せつ子、
 加藤浩子、大谷直子

 日本でも個性的な役者がたくさんでてた。三島の小説「仮面の告白」「金閣寺」「鏡子の部屋」もう一つ(近代能楽集?か)は忘れたが,四部で構成され、市ヶ谷駐屯所で三島が自刃するまでを、こちらも嘆美にシュールに描いてあり、
”Pillow Book"に近いものがあったが、三島の本から離れることなく、まじめにつくってあり、遺族が心配された同姓愛にしても、「鏡子の部屋」とすればことをあらだてるまでもないと思うのだが。日本で見れる日は来るのだろうか。ボクも後で思ったのだが、向こうで買ってくればよかった。
 この三本が不思議に共通するのは日本人感なのである。オーストラリアで外人として立っていたボクにもこれらの映画が自分の国に見えてこないのであった。張りぼての水爆怪獣、耳なし芳一のようなナギコ、ボクサーの沢田研二の体をカミソリで刻む鏡子。4千年のアボリジニにもダブってくるのであった。
 昨年の磁場展でその日記をちょこっと作品化してみたのだが、種の起源はこの辺にあったのである。
 忘れちゃならない、どちらも緒形拳の好演が光っていた。存在感のあるスゴイ役者だ。


The Pillow Book


"The Pillow Book"(枕草子)1996年
 監督 ピーター・グリーナウェイ
 美術衣装 ワダ・エミ 
 ヴィヴィアン・ウー、緒形拳
 ユアン・マクレガー、吉田日出子
 カンヌ映画祭出品

  枕草子を”Pillow Book”とは笑っちゃう。
 嫌いな作品じゃないけど、長いし疲れた。面白いとも言えるが、
マスターヴェーションみたいな他人の感性につき合ってはおれん。しかし、脳裏から消えないのである。
 書道家の父(緒形拳)が娘の体に枕草子を書き付けるところから始まる。後は筋があるのかないのか、エロチックに、グロ華麗にシュールにやりたい放題。東洋に興味のあるグリナーウェイの日本感といったところか。登場者が日本人でありながら国籍不明者に見えてくるのである。
 こんな映画だれが撮ったんどろうと、気にはなっていたけど、知ってる人は知ってる嘆美な感性を自在に表す難解な映像で知られたイギリスの監督であった。日本でも公開されビデオ化されてる。
 三星といったところか。


”ゴジラ” 海賊版?


 ”ゴジラ” 海賊版?1952年?

 2年前オーストラリア、Tweedのレンタルビデオ屋で見つけ,
日本人が経営する回転寿司をto go して部屋で見た。
 ビデオケースの写真から昭和29年制作第1作のゴジラと解ったが、英語版で見てみようと、寿司を食い見ていたのだが、何か変。
 本多猪四郎監督の初代ゴジラに間違いないのだが、主演の宝田明、平田昭彦が削除され、アメリカ人の新聞記者が主人公に変わっているのである。別撮りしたフィルムをちょこちょこつなぎ、日本版のような外国版に作りかえているのである。だから主人公が志村喬などと同じ画面に一緒に写ることがないのである。驚いたね。参った。当然ばかばかしさに、くだらなさがついってしまった。
 こんなのあり、どこのだれが、作ったの、ゴジラ全公開リストにもないし、番外編にもないし、円谷プロは知っているんだろうか。
 日本で誰か見たことある人いないかな。

2003 / 3 / 21 ( FRI )

abl

うんだぁ。今日はいい天気だ。悪夢にうなされることもなく、自然に目が覚め、朝の気配を賛嘆できた。めったにあることではない。
午後、文化会館へ映画「able]を見に行く。ダウン症と自閉症の17歳の二人の日本人がアメリカの健常者夫婦の家にホームステイした3ヶ月の交流ドキュメンタリーである。
 「able」はdisableの反対 できる できる人 自立した人である。
 開演にあたって、この映画の責任者でスペシャルオリンピックを推進されてる女性が挨拶された。てきぱきと歯切れ良く、明るく、ジェスチャーをまじえ、的確に手短に、それでいて説得力がある。名前を聞き漏らしていたので、一体誰だろうと思っていたのであるが、「私がスペシャルオリンピックを知ったのは、熊本に住んでいたとき、新聞で・・・」という下りで、細川さんだと判明した。普通じゃない。自然なしぐさにオーラがあるのだ。
 女性が進出する時代。この映画会も佐賀の女性のグループが催されたもので、刺激を受け、どうあるべきかを考えさせられたのではなかろうか。自然な振る舞い、わずかな話しのなかに、真心を持って身を投じていらっしゃる細川さんの願いが、映画共々伝わった。
NHKで以前このオリンピック・スペシャルオリンピックを見たような気もするが、眼中にない。障害者だれもが参加でき全員が勝利者になれるスペシャルオリンピックはアメリカでは誰もが知ってる、10万人の選手、観客が集うビッグイベントなのである。日本がどれほど後進国か思い知らされるのであった。
 「able」はこの世界の宣伝でもお涙ちょうだいでもない。映画として佳作である。帰りに買ったこの映画の監督・小栗謙一著「ドキュメンタリーを作るということ」を今読んでいる。
 多くの障害者の人たちが学校や町に普通に出てこられるようになる社会。我々健常者が理解しもっと知っていくことだろう。

2003 / 3 / 14 ( FRI )

関の弥太っぺ

、嫁さんが忙しいから鯛のあらの吸い物を作って、おふくろさんに出して、またパソコンの続きしているうちに日が暮れた。そして関の弥太っぺの台詞を思い出した。
 弥太っぺはやくざ渡世の掟からある男を斬り殺す。男は死に際に娘を頼むと言って命つきる。弥太っぺは幼い女の子連れて旅をし、ある家に女の子を預ける。父を斬ったのが弥太っぺだとは、女の子は知らない。それから10年後弥太っぺはその家を訪ねると、そこには娘になったあの子がいた。
 「旅人さん名前を聞かしてください」
 「渡り鳥には名前はありません」
      中略
 「おさよさん、このしゃばにゃ、悲しいこと、つれえこと、たくさんある。だが、忘れるこった。忘れて日が暮れりゃ、明日になる。」と言い残して去っていく。何かがよみがえってきたおさよは「旅人さん・・・」と後を追うが・・・。
 股旅ものと言えば長谷川伸。臭い台詞に聞こえるが当時はここで観客はボロボロだった。けど今この台詞を分析しても臭いとこはどこにもない。あるとしたら股旅口調である。ブラッド・ピットがオードリー・ヘップバーンに英語で言ったとしてもおかしくないと思う。おかしい?くさい?そうかなぁ?

2003 / 4 / 25 ( FRI )

羅生門

  そのとき、何故か心の中には「羅生門」で盗賊の三船敏郎が
「あの青葉の風さえ吹かなければ・・・、人生は朝露のようにはかない」と言ったり
「異邦人」のムルソーが砂浜に立ち
「太陽がまぶしかったから・・・」と言ったかと思えば、
「地獄の黙示録」のマーロン・ブランドが死の予感から
「静かだ、しずかだ・・」と言う意味不明なつぶやきが交錯するのであった。
 数日の雨でえらく家の中が湿気をおびてるようだ。紙がぶかぶかになって、いやな臭いを放つ。車中のいやな臭いの原因もアルシュを積み込んでいたからであった。それにしても臭いの原因はパルプなのか、糊に使ってある薬品か。そうか、ニカワかも知れない。
 仕事しながらBSで「シェーン」を見てた。繰り返し例の曲が流れ、いしょにハミングしていた。
 「シェーン、come back]は見てない人でも知ってるが、かっこイイ台詞が結構散りばめられているる。しかし、もう忘れてる。できれば頭の部品を交換したいところ。

 2003 / 2 / 23 ( SUN )

タクシー と明日があるさ

 5時起きで荷物を出して、荷物と言っても夫婦で行きも帰りもスーツケース1個。みやげもわずか。
 チェックアウトで金庫使用料7ドルを払う。
 日本人のバスの運転手の板前時代の昔話を聞きながら、ホノルル空港へ。きびしいチェックも難なく通り、後は出発を待つだけ。福岡行きは満杯という。それまで喫煙エリアから見える飛行場をF4にスケッチ。
 定刻10時ジャストにジャンボは飛び立った。帰るとなれば一刻も早く帰りたい。未練などない。またくればイイのだ。
 すぐに眠くなり眠りにつく、食事となり起きるが、かなり熟睡したようで、すっきり。行きは夜から朝に向かうのできついが、かえりは9時間と時間が長いわりには、昼間を飛んでいくので、気分的に楽である。
 機内食牛丼とビールをたいらげ、ビールのお代わり。車の運転があるから飲み過ぎないよう嫁さんに釘を指される。
 彼女は眠れなさそうにねてるが、こちらときたら、映画に集中する。ジャキー・チェーンの「タクシー」である。笑いも出るほどにおもしろかった。続いて松本仁志が監督した「明日があるさ(tomorrow is anatherday)」これが意外とイイできでおもしろい娯楽映画だった。笑いもあり、泣かしもする。松本は非凡である。たけしのように映画にはまるんじゃなかろうか。おもしろい映画を作れる監督がいない今、誰であろうと創ればイイのだ。アートの世界とて同じこと。ぼやぼやしてるアーティストを素人でも越えれるものなら越えればイイのでありまする。そんな時代がマズイけどまだ続いている。ここをチャンスと挑んでくる若人はいないのか。
 ああおもしろかった。深刻な映画でも「自転車泥棒」のようにおもしろくなくては、ならない。独りよがりの深刻さほどいやでつかれるものはない。アートと名の付くものすべての課題である。
 浜ちゃんがロケットで宇宙へいき、再び地球のどこかの海岸に帰還してきたところで、映画は終わり、明日があるさ、の歌が流れる。とつぎつぎとトイレにたつ。もう日本の領域に入ったようだ。

 2003 / 2 / 20 ( THU )

Die anatherday

テレビで007の Die anatherday を見る。北朝鮮のテロリストをぶちのめすボンドの活躍である。金がかかっている分まずまずのおもしろさ。しかしショーン・コネリーがなつかしい。
 明朝ホノルルへ発つので荷物の整理をする。

2003 / 2 / 11 ( TUE )

まわり道

 朝テレビを点けたら電車の運転手が運転中に妄想に取り憑かれた、いろんな映像が重なり合うモンタージュが写った。映像としても惹きつけられ見ていると、ホームで停止位置を1メートル、オーバーランしてしまう。彼は過去に一度もオーバーランしたことのない完璧主義の運転手だった。演出家は知らないが、不思議と山田太一作じゃないかと思えてしまう。
 運転手・中井貴一とその妻原田美枝子には高校の娘と部屋に閉じこもってやる気をなくした息子がいる。しかし、息子は運転手がバッティングセンターで偶然に出会った高校時代の同級生(渡辺徹)の工務店にやとってもらい働き出す。しかし・・とドラマは現実の不条理へと展開していき、再び運転手は5メートルもオーバーランしてしまう。
 脚本の力もあるのだろうが、創る側にも演技人にも他のドラマにはない力を感じ、それを尚極自然に見せようというあたりに過去の作品を通し山田太一が見えてしまうのだろう。テレビドラマとしてはなかなかのできである。山田洋次的でもある日常にかすかな恐怖が見えるが、決してスリリングな方向へ動こうとはしない位置を保つ。それだけラストはむつかしくなる。二人の山田もハッピーエンドとは考えていないはずだが、ハッピーエンドにしか見えない弱点を孕んでいる。もちろん山田太一作「迷路のあるきかた」だった。
 その後ヴィム・ベンダースの1974年作「まわり道」を見るが、以前にも見た映画で、現在の心境には疲れた。
 それからまだ映画は朝方まで続いた。「男の世界」これが意外にもおもしろい。フランス語だけどこの映画かわからない。労働者賛歌である。山の大規模な採石場と厳しくもたのしい労働者の日常。大自然をバックにいろんな大型機械の登場は圧巻。やっぱ、あまりおもしろくなくなった。寝るか。

2003 / 2 / 2 ( SUN )

真夜中のカーボーイ

 こう毎日寒くっちゃおバカさんでなくっても風邪の一つも引くさ。
 グリニッジビレッジのロストの屋根裏部屋で食い物もなく目を腫らし鼻水を垂らし死にそうに咳をしてベッドに横たわっていたダスティンホフマン。そこへ金持ちのあばさんのお相手をして稼いだ金で山ほど食料を買って、ジョン・ボイドが帰ってくる。
 泣けもするけど、演出と演技のうまさにも泣けてしまう。
 しかし結局、憧れのマイアミを目の前にグレイハウンドバスの座席に小便もらしてダスティンは力つきてしまう。その時流れるハーモニカのカリフォルニアドゥリームは美しくも切ない。
 さよならだけが人生さ。
 しかし見る側には勇気と希望がじわじわと湧きい出てくるのである。ジョン・シュレンジャーのアメリカ進出第一作
「Midnigt Cowboy]である。
 あのころの若者たちの東京暮らしもボロボロだった。「Midnight Cowboy]も「Easy Rider」も「Woodstock」もボロボロの果てに
ストックホルム、ロンドンで観ただけに、原題にこだわる。
 時代は映像であり音楽であり郷愁を越えて我らの時代とも重なっていた。それからすれば、グループサウンズはあまりにも薄っぺら。ヒッピー、アングラ、赤テント、横尾忠則、三島、小沢、大島、クロサワは現象はあったにせよ、その時代を表現できなかった、何も産めなかった。日本は国家的に遅れてた。足下は見えず、足下もぐらぐら、表現力、文化の息吹を海外に憧れ求めマネをするサルの時代が続くが、今尚サルと言われてもおかしくない。
 いずれにしろ青春は一つでしかなく、一つの青春が今を構築し、支えていると言うことか。

 2003 / 1 / 20 ( MON )

映画は動く

動くものを動いて撮るというのは映画(カメラ)の醍醐味であろう。その世界の者なら一度はやってみたものだらう。ハリウッドと言わずいずこも、その極致である。馬車や列車を馬で追っかけると言うのは西部劇の定番である。創る側の最大の楽しいときでもあろうし、見る側もそれを期待して見る。それに反してカメラの醍醐味を抑制気味に進行するのが、芸術的作品と言えるのかも知れない。芸術か否か別にして、小津安二郎はカメラを固定し延々と芝居をさせる傾向がある。動くカメラを嫌ったのであろう。黒澤の「天国と地獄」は列車の中でもカメラが動き回り、演じる刑事までもが8ミリカメラで車窓を狙う。ムービーのおもしろさを計算した大胆な演出に、当時観客は「こだま」の臨場感を二重三重に揺さぶられるのであった。この2人の監督、の思想、手法は世界の新しい監督に多大な影響を与えている。
 動くものといえば小はアリから大はロケット、ミニマルは微生物,細菌。ミクロの決死圏、アンダルシアの犬、月世界探検。
今日はどんな一日だったのか、また映画になってしまった。。

2003 / 1 / 6 ( MON )

墨東綺譚

 わたくしは殆ど活動写真を見たことがない。
 この冒頭の一節にひかれて、荷風「墨東綺譚」を読んだ。このところ本などほとんど読んだこともなかっただけに、ちょっと変わった正月になった。
 取材に訪れた向島は玉の井と呼ばれる陋巷(ろうこう)の私娼窟で小説家・大江匡はお雪という女に出会う。玉の井を舞台につゆ明けから秋にかけての季節の移ろいとともにうつくしくも哀しく展開し、木村荘八さんの挿し絵が玉の井を呼び戻す。
 昭和12年、荷風58歳の時の作品である。世捨て人でもないんだろうが荷風は都会の喧噪を逃れて東方の墨田へ目的もないように取材に訪れていたそうだ。時代も軍国主義が強まる中、東京村の人混みを避け、吉原でもなく、見捨てられたような陋巷玉の井を心のよりどころとしている。よろこんでイイのか、かなしむべきか、年齢もそうだが、どこか雅光さんとだぶってきてしまう。
 佐賀にも今宿など遊郭があった。その空気は子供ながらに感じてはいたが、隣町とはいえ何にも知らない。
 おめかけを持つ旦那衆は結構見た。間借りしているような女の人のところへ手みやげもって出入りしているのだ、しょっちゅう見かけるので「怪しいおやじだ」と詮索するまでに至らなかった。
 私娼窟の地帯もあった。それ以外にも個人で稼ぐ怪しいところもあった。「泥の川」である。はかなくもかなしい歴史なのである。
 「玉の井抜けられます」は滝田ゆうの絵の舞台でもある。裏町、外町に流れる崖っぷちの叙情、飛び交う固有名詞の呼び声。かあちゃん、とうちゃん、かかあ、ひろし、めし、とうふ、せっけん、めし、こめ、こんにゃく、ももひき、どてら、猿股、エトセトラ「あきら、雑巾かとうしぼらんば」「かあちゃん、たきもんのなか」「ともひこ、早う学校にいかんば」「かずこ、検便わすれたらいかんよ」「どろじゅん、すっぽ」「まさみつがおったぞ、つかまえろ」「かずのり、ごはんよ」「ゆたか、めし食わさんよ、もう」葛飾柴又とはかなり違った生活空間である。
以前、映画「墨東綺譚」を録画していたことを思いだし、探す。数百本のビデオで映画にするとその三倍はある。一つ一つラベルを確かめるが、ない。消したかも知れん、と諦めていたとき、押入にも
数十本がみつかり、探し求めていたタイトルが目に飛び込んできた。すごいカビである。ビデオヘッドがだめになりそうだが、その時はその時と、再生。大丈夫だったが、前半をスパルタカスがかぶり、見れない。山本富士子と芥川比呂志,主演 監督・豊田四郎1960年。イイとも悪いとも言えない作だ。
 最近(1992年)も新藤兼人さんが津川雅彦と新人の墨田ユキで撮ってるが見てない。新藤さんなら見てみたい。墨田ユキとは「墨東綺譚」からとったのか?機会あれば陋巷ラビリンスを訪れてみたい。もはやその面影のかけらもないらしいが。

 2002 / 12 / 28 ( SAT )

狼たちの午後

京都で不動産のおやじさんが、人質取って、金融会社に立てこもったが、胸にリボルバーのホルダーを着けリボルバーを扱いながら襲撃の意志表示をする討ち入り前ビデオは、さながら「タクシードライバー」のロバート・デニーロであり、説得ににいく社員は「狼たちの午後」のオカマちゃんの説得シーンのようであった。

 2002 / 12 / 18 ( WED )

ラスト・ワルツ

 画廊から銀行が見える。人の歩いてない通り、人がいない街。ヨーロッパにはいくらでもある町。若い人に期待しても、彼らにしても反応のない町。時代のせいでもあろが、つねに未来は見えない、運か賭けみたいなものだ。運と賭のの為に勉強もすれば、努力も、おしまない。それこそ好きなことやってては明日などない。見えぬ幻想の旅にでて、幻影でも見た気になる。
 1960年代、70年代のロッカーの連中を見ていてそう思う。BSでロックの特集をやってる。そうそうたるメンバーである。しかし今もミュージシャンとして活動している者は極わずか。69年のウッドストックで火を吹くのだけれど、78年には人気グループ「ザ、バンド」が解散。マーチン・スコセッシがその解散コンサートを「ラスト・ワルツ」に撮ってる。若きクラプトンも登場して弾きまくる。、ギターが、抗うように、泣き、うなり、吠え、叫ぶ。 時代は確かに変わっている。変わらないのは目に見える世界だけである。スコセッシは最新作「ギャング オブ ニューヨーク」を撮ってる。「タクシードライバー」(’76年)、「カジノ」(’95年)「ラスト ワルツ」にしても、スコッセシはアメリカの中の人間を見つめている。じっくり見据えていると言うことが、結果的には運と賭けに対して真実と言えよう。

2002 / 12 / 16 ( MON )

マイノリティーリポー

雨の日は映画がイイ。傘さして有楽へいく。チケットを買う時、「次は○○時からですので、ロビーでお待ちください」と言われ、「じゃ やーめた」と雨ん中を引き返した。50分も待ってられるか、以前は随時入場できたし、何度見てもよかったのに、ここもよそと同じシステムになってしまったんか。見たいときにぷらっと入れなくなった。まったくクソおもしろくない。どうせ同じシステムなら新しいとこがイイとイオンシネマへいく。「マイノリティーリポート」「席はどこがいいですか?」「自由席じゃないの?じゃ、後ろの通路側」「千八百円です」。館内はがらがら、指定席にするまでもない。がらがらの飛行機といっしょだ。それでも20人はいたから有楽よりはましか。スピルバーグの名前に惹かれてminority report(少数派報告)を選んだ。2時間30分、映像とからむストりーで退屈はしなかったけれど、スピルバーグの焦りみたいなものを感じたのだが。2054年の未来が舞台である。「運命は自分で変えられる」それを言いたかったのか。娯楽映画でかたづければそれでイイのかも知れないが、未来の映像やコワサの表現に対して、人間の感性や運命が最後の最後に説明的にしか扱われてなく、原作はどうか知らないが、「アレレ」と思ってるうちに終わった。
ジュディー・フォスターが、かって作った(題名は忘れた)のにも最後に「天国はあるんだ」と説明してしまい、今まで見てきたのはこれだったのかとドッちらけ。「2001Space Odyssey」がむずかしい、解りにくいと言われるだけに、説明的に(配給会社の要請で)なるんだろうが、「2010オデッセイ」にしても、最後に黒色板(モノリス)の意味を語ってしまいお粗末。それぐらい見てれば解るのに。「未知との遭遇」や「ET」のようなエンターテイメントならかえってそれがイイと言うこともあるのだが。テーマとなる知りたくもおいしい部分は多くは語らず見る側に投げっ放しがイイ。ましてやどれもびしっと語れるテーマではない。哲学や宗教の部分からもとらえなければならない。それをほとんどの映画が全く触れない。金も時間もかかり面倒くさいのだ。それを可能にした「2001年オデッセイ」や「惑星ソラリス」みたいなしんどいヤツもたまには見たい。じゃ自分でシナリオ

 2002 / 12 / 6 ( FRI )

裸の島 

 「2001年宇宙の旅」「地獄の黙示録」好きな映画もいくらかあるが、中でも「自転車泥棒」と双璧の
「裸の島」(昭和35年新藤兼人 脚本、監督)は何度見てもイイ。30代のころ毎晩、吸い込まれるようにビデオを見ては生きる人間に胸熱くして、エネルギーを注入していた。
 黒澤流の絵画的な絵とは異なる一こま一こまに芯が突き通っている。瀬戸内海の小さな島で生きる夫婦は作物に水をやるため,手漕ぎ舟で毎朝、尾道へ水を汲みにいく。枯れた土地に水をやる。
その繰り返しの日々が無声映画として、内省的に撮ってある。カミユのシジフォスのごとき世界か。
 脚本家・新藤兼人は映像作家でもあったのだ。
 北野武はここから、「あの夏、いちばん静かな海」を創ってると思われる。久石譲の音楽にしても、「裸の島」の林光のミニマル音楽(同じ短い旋律を繰り返す)を踏んでいる。しかし、脚本、映像、音楽,共に「裸の島」を越えてはいない。
 ちょうどNHK金曜時代劇「はんなり菊太郎」をやってた。脚本が高校の同窓生・古田求である。彼はたくさんの映画を書いてきたが、最近はテレビが多く、いっぱしの脚本家になったもだ。古田君がいつか言ってた「最近は撮影現場にいくこともない。部屋にこもって書いてるよ」その一言に、周り流されず、どてらをはおり、鉛筆をなめなめ、机に向かっている本気の姿が見えたのだが。新藤兼人90歳。古田求55歳。服部大次郎55の冬。


Topへ