田んぼよかばい 風景考
2013 | |
田植えのころ/2月27日(水)石巻無残/2月26日(火)石巻へ/ 2月25日(月)陸前高田 気仙沼/市町村 黒木町上陽町/季節満喫/新年/ |
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2012年 | |
ゴンドラに乗った植木屋さん/ 牛島天満宮のお祭り/亀さんの産卵/金環日食/ 亀さん/モンシロチョウ/ |
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2011年 | |
生物の棲む水田/入道雲/ おめぐりさん/古寺探訪/東日本大震災/ひょうたん公園/ カモメ/火葬場の煙/葦原/ |
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2010年 | |
He Ain`t Heavy, He`s my brothe/アオサギ/小倉の点と線/玉の井/ | |
2009年 | |
ショベルカー/ カニ穴/葦原/田園情報/麦わらストロー/自然の力/原基/ 漁港にクレーンが/)阿蘇路/土手のスカンポ/ |
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2007年〜2008年 | |
菜の花が/函館/ よそわし大豆の黄金/池田武邦さん/橋の下/風のうつせみ/ガキの魂 高千穂・八百万の神々/ヒロシマ/春なのだ/ホーケキョ/横浜港/ Time after Time/ミカンとリンゴ/ウグイス/縁側船団/正面/欠落/ メジロ/自然に暮らす/張り込みのような/空と平野の間/薄化粧日田 小国/狸無残/ /札幌/古代文字/大豆畑でつかまえて /大三郎先生/ファーブル/コアな風景/見あきた風景/ ギンヤンマの空/筑後川/コォーロギ/変わりゆく都市/ ウォーターヒヤシンス/9月の空/カラスとカメ/風景のズレ/ 公園・セントラルパーク/ 作品がしずかに語るとき/ トンネル/カチガラスの巣/トロイの木馬/ 黒と白がコラボするとき/カラスの襲撃/初心、 1年生の時の絵/ 憂鬱なる小説家・開高健/ 健在チョウトンボ(からっこん)/アウラ/ |
2013年 | |||
6月13日(木)田植えのころ いまにも雨が降りだしそうで降らない。 田植えの準備も進んでいる。 山間部は田植えも終わり、平野部から海岸部へと移っていく。 ご当地では空梅雨でも水の心配はなさそうで、海側の有明佐賀空港周辺でも田に水 が入れられている。 人が手で田植えしていたころと比べれば、農作業も大変な変わりようだ。 祭りのにぎわいもなく、田植えもたんたんと、あっという間に終わるようだ。 場所によっては、除草剤がくりかえしまかれているのだろう、枯れた草の中から新しい草 が出てきては枯れ、また新らしく出てくるの繰り返し様。 冬と夏が喧嘩しているように痛ましい風景を呈している。 枯れ草の部分もやけど大やけどとさまざまな枯れ色ぐあいで、小麦色なんていってる場合ではない。 不条理な虎刈り、虫歯、まだらはげの田園である。 わずかにトンボがいるけどギンヤンマはまだ見当たらない。 ギンヤンマも増えたかとおもえば、また減っていくようである。 海をきれいに、保護のもと、やっと干潟には大きなムツゴロウがうようよ。 蛍も飼育、保護、環境保全の繰り返し。なにがいけない、悪いか?など問いただした瞬間から 人は生きてはいけなくなりそう。 矛盾と不条理の人間界・果てしない地球の悪夢。 |
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2月27日(水)石巻無残 何かと変なアパートであった。 そのうちの一つ。各部屋のドア横の配電盤の蝶番から1mぐらいの輪っかのついた ビニール紐が垂れてる。 通路を歩く度に手や足にからみそうで用心した。何のための紐なのか?まったく見当がつかない。 翌朝、チェックアウトで外に出てとたん、判明した。 アパートを出るのもボクが最後だということもわかった。 ドアのノブに輪っかをひっかけドアが閉まらないようにするための紐なのであった。 部屋掃除のおねえさんたちが、シーツや毛布を運び出したり部屋の空気を入れ替えている のであった。納得。 フロントにリュックを預け、駅とは反対の海側の高台に行ってみることにした。 アパート宿から勾配のある住宅街を延々と歩く。住宅地の道や家々を見ていくと その土地の構造が見えてくるような気がする。どこにでもあるような普通の庶民の暮らしが 見えるが、閉まっている商店もある。 とある一軒の「石巻産物屋」が目に留まった。ガラス戸越しに昆布などのパックが見え、 頭にネッカチーフをかぶった中年の女性が笑顔で表を向いて「いらっしゃいませ」と言わんばかりの 態勢で立っているのであった。「ガンバッテる」とおもったが、人通りはない。 路地から路地をGPSを頼りに30分ぐらい歩くと気仙沼市立女子高校に来た。その隣が” 日和が丘”という公園である。 あの日人々が非難していた場所でもあり、270度の俯瞰パノラマである。 今はただ、惨状のパノラマを見るばかりである。 木々の間から黄土と化した南浜地区の惨憺たる状態が姿を現し、もっと上に上がると、 南浜地区から旧北上川の両岸の漁港、北側の石ノ森章太郎漫画館までの大規模な悲惨な姿を 目の当たりとなる。 高台の柵には、そこから見える震災前の美しい風景の写真が飾ってあり、 比較して見ることができるが、 その変貌はむごい。 石巻の映像のほとんどがここから撮られたものであるということも判った。 「南無阿弥陀仏」をつぶやきながら丘を下った。 新しく立て直された墓地を通り南浜地区に降り立った。 海面がそのまま陸地になったようなところだ。 瓦礫のほとんど片付けられており、道路だけが地図のように走り、街の大きさが伺える。 ススキと雑草の黄土の荒野にお寺と石巻市立病院が姿をとどめ、なおのこと無惨である。 振り向くと丘の斜面に背中を合わせるように痛々しい姿で形をとどめている門脇小学校も まだそのままである。 壁となり耐えに耐えて日和が丘を守ったようにも見える。 「門小ガッツ僕らは負けない」と校舎に貼り付けられている看板に胸が熱くなる。 小学校の前の通りに家の土台とフローリングが残っており、その上に誰が置いたのか 壊れた子供の 三輪車が置いてある。 宮城ナンバーの軽乗用車がやって来て小学校の前に停まった。 車から降りた若者はしばらく小学校と対峙してから写真を撮って戻っていった。 今度はバスが来た。20人ぐらいの若者がしばらくガイドの説明を聞いたり、 小学校の写真を撮ったりして 引き上げていった。 ボクもきびすを返し墓地を通り丘に上がり、元来た道を戻るのであった。 ●なんのために!いや、一度、現場を見ておきたくてやってきた数日間。ただそれだけ。 心境の変化も何も今はない。 |
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2月26日(火)石巻へ ショベルカーが働く気仙沼港、破壊された商店街を抜け、被害を免れた商店街をさらに歩くこと30分、 気仙沼駅に着く。 そして石巻へ向かう。 気仙沼線が不通で気仙沼線BRS(鉄道バス)にて柳津までで行くことになる。 「2時間はかかりますから」と駅員さん。10時50分発。乗車客はボク一人。貸切だ。 部分的に線路が舗装道路になっており、そこをバスが高速で走っていく。 電車のように踏み切りも降りる。 海岸線を南下して行く。 大小の漁港という漁港が壊滅している。更地なのだ。想像を絶する。 破壊された住居やビルでも残っていなければ、被災地とは気づかないくらい 冬枯れの風景とマッチしていたりする。 「復興?復興??・・」。 報道されていない大小の地域がいくらでもあるようだ。 鉄道線路もずたずたに寸断されてる。無残。無残。南無阿弥陀仏。 終点、気仙沼線の柳津駅で7人の男の乗客がバスを降り、電車を待つが、 易者にも外にも店はなし。それぞれが持参したパンなどを食べる。僕もリュックに忍ばせていた 丸ボーロを小腹に落とした。 やってきた電車に乗り込むと、電車は元来た線路を戻って行く。 冬枯れの広大な田園地帯でさえ被災地に見えてくるから困る。 前谷地で石巻線に乗り換える。 14時10分、石巻到着。 カラフルでポップな駅舎。 駅前は、漁港、被災地とは見えないほどの明るさ、にぎやかさがある。 サイボーグ009や仮面ライダーが迎えてくれる。 石ノ森章太郎さんのキャラを前面に押し出した街のようだ。 早速、商店街の漫画ロードを歩く。商店街の駐車場に”復興支援商店街”があったが、 店の人も客もおらず、無人であった。冬の風よりも人の世はきびしいと見るべきなのか。 商店街を抜け河岸に出る。若いおまわりさんと「こんにちは」を交わし土手に上がると、 中州の橋のたもとに銀色のUFOのような建物が目に入る。 それが石ノ森章太郎漫画館であった。 それ以外は流されたのか?被害状況がちょとつかめにくい。 対岸の堤防も新たに塀が高く作られよく見えないのである。 漫画館はオープンの目どもなく閉館状態。外観よりも内部がやられているのだろう。 中州をさらに海側に歩いていくと、真っ白な自由の女神台座に乗って立っており、 元は公園であったのだろう。自由の女神の下半身右半分が壊れ支柱がむき出しである。 ”猿の惑星”のラストシーンがよぎる。 寒く、腹も空いた。今日はこれくらいにと街に戻り真っ赤々な中華屋の 前後に開く戸をギギーッと押して入店。 マカロニウエスタンでジャンゴがBARに入るシーンだ。 店内は明るくストーブがガンガンたいてあり、おばさん二人でやってる食堂であった。 リュックを下ろし、タバコを一服。タンメンをいただく。ボリュームがある、そしてうまい。 あったまる体もよろこんでいる。 そして、もう一服。 その間、注文の件でヤーさんの嫁さんから嫌がらせの電話があり、そのことを姉妹に見える 70代の 女性が二人が延々と話していたのが、漫才みたいに面白かった。600円はらい、 夜また来ます閉店時間8時を確認して店を出た。(結局、再来しなかったけど) 駅前のデパートの二階が仮説の市役所になっており、その前を通った路地の奥の奥にある アパート形式ビジネスホテル事務所で金を払い、鍵をもらい部屋へ。 やはりアパート。けれど落ち着く。 夜は、市役所のあるデパートでサンマ缶、ビールカップめんなどを買い出し、 文字通りのアパートの夜。昔がなつかしい。 |
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2月25日(月)陸前高田 気仙沼 仙台から新幹線(はやて101)にて一関へ。中尊寺へは行かず、 大船渡線の「スーパードラゴンに乗り換え、気仙沼へ、そして陸前高田に向かう予定。 スーパードラゴン」と言うからにはと期待するが、一両のみの快速ローカル線であった。 終点、気仙沼に着いたものの海は見えない。高地に位置するようだ。 陸前高田行きのバスは1時間後であり、時間が惜しくタクシーに乗る。 これがよかった。 いくつかのトンネルを抜け「ここからが岩手です・・」と運転手さんは語り出す。 いろんな意味でこちらの気持ちを察するような気配りと震災を通しての 気持ちの変化などを散りばめガイドしてくれるのであった。 美しいリアス式海岸の村や町が壊滅している。南無阿弥陀仏。 「ここが高田です・・」と何もない荒野に停まった時には唖然とし言葉もなかった。 美しい湾を前に広大な高田市があったのだろうが、駅舎も病院も図書館、 博物館、市民会館、警察署、幼稚園、小中高学校、ショッピングモール、コンビニ、 飲み屋、レストランもなにもかもが消えている。海面がそのまま陸につながったような平地である。 テレビで見聞きしたのは何なのだろう?「私たちも今はみなさんに見に来て欲しいんです・・」と。 千昌夫さんが建てたというホテルと残す残さないで議論があった市役所が 解体中で残るは廃墟の中学校がと公営マンション。 やがて瓦礫も撤去され更地となるだろう。 「高田の一本松」への道は工事のため「進入禁止」となっている。 しかし運転手さんは進入した。「この間もパトカーに追い出されたんですけどね・・」 と車を走らす。松原の海水浴場も跡形もない。 それでもそばまでは行けなかった。 枯れた一本松を新たに加工して、同じ場所に設置する作業が始まっており、 幹の部分が姿を現していた。 高田の人々のシンボルなのであろうが、現実はいろいろありそう。 タクシーを停めてもらいスケッチをするが、数分と外に立ってはおれない。 冷たい強風がほほを打つ。 もしバスで来て、こんなところで降ろされたんでは、どうなってたかわからない。 訪れる人の姿もない。 「冬ってこともあるでしょうが、訪れる人も減り、近々、瓦礫もすべて片付けられ、 さら地となるでしょう。」 そして「忘れられていくのが心配です」と運転手さん。 気仙沼に戻るが、そのまま被災地をガイドしてもらう。 巨大な船が道路の上にあるなんて、スピルバーグの映画?どころではない。 シュールなディペインズマン。 しかし、被災地の人たちにとっては残したくない風景でもあるのだ。 加工工場地区が全滅しており仕事もなく人々も出て行くらしい。再開したフカヒレ屋さんが サメの尻尾を天日干ししてたが、工場は壊れたまま。 ここはテレビで見たという場所や建物が無残。 高くはついたが、3時間ホント助かった。S木さん 宿から眼下に気仙沼港が見える。5メートルのかさ上げ工事が進行中で、 7台のショベルカーがの作業音のみが港に響いている。 漁船は停泊したままで、連絡船が往来する。港町ブルース。 夜、復興支援屋台村へいく。 屋台の半分は店を閉めており、客のいない居酒屋に入る。 無愛想な男に見えたが、50歳ぐらいのよく喋るマスターであった。 気仙沼ならではのサメの心臓、カジキのハーモニカ、酒は男山と別格。 そこへ地元の男女の客が。 ”佐賀の城下ひな祭り”に来たことがあるという。 4人で震災の話となるが、ボクが言ったところで空論。 先の見えない現実に彼らはどこかで苛立っている。本心までは見えない、わからない。 酔いがまわり、勘定を済ませ、何故か逃げるように店を出たのであった。 海に落ちないように注意して港を歩いて帰った。 |
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2月11日市町村 黒木町上陽 福岡県の最果て上陽町に行く。 イイ天気である。 三連石橋の産直販売所の前のテーブルでおじさんたちが楽しそうに弁当をひろげている。 川下の日陰では焚き火に当たり弁当を食している人もいる。 地区の人たちがなにやら祭りの準備でもしているのだろう。 でも一帯の大豪雨で破壊された堤防やつり橋はまだそのままである。 川底が鮮やかに透けて見え、ウサギ追いし彼の山である。 戻る途中、道筋を替え左へ折れ丘を超えると陽射しを浴び輝 く田園が目に飛び込んできた。 さらに行くと車も通らない山道に入った。とにかく前へ進み、 山を越えたら今度は住居がひろがる町が見えてきた。黒木町である。 見方を変えると大きな町である。 いつもの商店街にでる。シャッター通りではあるが、街灯、 歩道ときれいに整備されている。昔のようににぎやかになる日は来るのだろうか。 それでも人々はそこで生きている。 ”黒木町出身 安部龍太郎 先生 「等伯」直木賞・受賞”の横断幕がちょっと誇らしい。 町 |
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2月6日季節を満喫 大財町 昼前、Y(K)ちゃんが「TPP断固反対」とボディーに入った会社の車で来た。 「昼飯を食いに行こう」ということになり、Yちゃんの会社が経営するレストランへ。 生ビを昼から・・うまい。Yちゃんは仕事中なので呑まない。 いい気分でボクは歩いて帰る。 本道をはずれ裏道に入った。 どこの町とは言わないが、数十年前はよく自転車でよく好んで通った。それ以来か。 狭いエリアではあるが、樹木も多く小川もあり、人家が密集するる。 ほとんどの家が新しくなっているけど、地理的には当時のままのようにイイ雰囲気である。 少ないが老人力でがんばってる家もあり、雀かと思うほどにメジロがいて、 キジバト、モズもいた。雀はいないのである。 旧住宅地を抜けクリークに出ると、ホオジロとジョウビタキにも遭遇。 カワセミも見たいところであったが、いないのかどうか? こんなイイ場所(環境)がこんな身近にあったとは・・。 Yちゃんのおかげ。生ビのおかげ。歩いたおかげ。環境さん、景色さんにおかげさんです。、 |
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1月1日新年 昨年、2012年の正月。田んぼの雪の草原で脱出できなくなった。 車に積んでいたダンボールをタイヤにかませ道を作って脱出。非常にあせった。 昨日、12月31日も田んぼにいた。車を動かそうといたらスリップ。 車を停めた落ち葉の下はぬかるみだった。後輪が空転して雪マークの警告! 枯れ木や丸太を敷いて、なんとか脱出成功。 ところが雪マークとパンクマークが消えない。電子機器の誤作動とはおもうが、 困った。本日警告マークは消え正常にもどった。 そして2013年を迎えた。 が、西暦1年とはどんな時代だったの?と考えると眠れない。 弥生の前日、キリストの生誕日?と昨日のことのように実にさわやかに言うが、 その時代なんて全く知らない。未来なのか過去なのか、その他なのかと。 あっという間の2000年でした。と言ってもさしつかえないのでしょうが、 私わずか数十年しか生きていません。 いくらパソコン、ケイタイがあっても日本は海に囲まれ、 田んぼがあってと2000年前と大して変わりゃしないのでありました。 今年はそこいらで遊べばもつかなとも。 酔いを覚まして夕方、田んぼはこりごりで戸ヶ里の漁港に行った。 すう席の漁船が海から戻って来るだけの静かな漁港。 陸に上げた漁船を修理する漁船屋さんがいた。犬と散歩のいつもの老人。 一瞬、雲がどいてヘビメタ潟に後光が射した。 新しいものを作りたいと、やってはいるが、今年もこれだ。 まずは平穏な自然に感謝。 |
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2012年 | |||
11月26日(月)ゴンドラに乗った植木屋さん 朝から前のお屋敷がにぎやか。 恒例の植木屋さんの庭木の手入れである。 クレーンを伸ばしゴンドラに乗った職人さんがチョキチョキ。 黄色くなったカエデ、赤い実が豊作のモチノ木が日に映える。 |
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10月28日(日)牛島天満宮のお祭り 昼前、通りから雅な笛の音が。 5年に一度の牛島天満宮の行列であった。 大勢の氏子さんたちが幟を持ったり台車を引いている。 昔は牛が台車を引いていたけど・・。 台車の下をくぐり無病息災を祈願。 しかし、行列に集まる町民があまりにも少ない。 子供も出て来ない。そう子供もご近所から消えて久しい。 昔はにぎわったものだが、祭りの盛り上がりもなく、通り過ぎてしまった。 けれど、なつかしい風景をまだ眼前にできてよかったなぁ。 午後、家にいる気分じゃなくなって、山へむかった。 街の街路樹がすっかり秋の装い。田んぼでは稲刈り。 そんな自然の変化にもうとくなったこのごろ。 天気もいいから車も多い。すれ違う車は自分も含め高齢者ばっか。 これでいいのか、どうなってんのか。 嘉瀬川ダムの産直所でソフトクリーム食べて、福岡産のブドウ買って帰った |
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5月26日(金)亀さんの産卵 駐車場に行くと、駐車場鉄骨の根元に大きな亀がいた。 この間逃がした亀かもしれないが、よく見ると、後ろ足で穴を掘ってる。 直ぐ下は水気を含んだ柔らかい土である。 両足で必死に土を掻き上げ、お尻が沈んでいく。 時々後方から覗くボクを亀さんも首を回して覗くが、逃げてる場合ではない。 人間でいえば陣痛が始まった状態なのであろう。 しかし、なんでまた駐車場で?とおもうのであるが、川まで5mの距離。 亀さんたちのレーダーや探査能力は計り知れない。 しかし、路上の走行車には勝てないのである。 梅雨の時期亀さんたちがあちこちへ移動するのも産卵の場所を求めてのことでもあるようだ。 正確には和製の亀ではなくアカミミガメであるが、どこの亀族であろうと人種であろうと同じことである。 用事を済ませもどってくると亀さんの姿はなかった。 土がきれいにかぶせられ整地され、ここに卵の部屋があるなど、だれも気付くことはないだろう。 |
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5月21日(月)金環日食 7時20分ごろ種子島の上空6600mで金環日食を見た。 フィルターを通してだが、機上から見るオレンジのリングはかけがえのないやはり神秘であった。 この日を楽しみに待っていた。 小学生の時運動場でロウソクのすすを付けたガラス片をかざして空を見上げていた。 小型機はゆらっゆっらっと雲を抜け晴天の雲海に出た。 気圧でプロペラのエンジン音も遠のいていく。 Uボートにでも乗っているようなジュラルミン一枚の臨場感である。 機上からでも太陽は見上げなければならない。 首がしんどい。 リングが出来ておよそ3分、長くも短くもある時空間。 これほどに完璧なものを天空間で体感するなどありえない事実だ。 2012 Odysseyとでも言おうか。 船内は特別に感嘆の声が上がる訳でもないが、津々と刻々と脈打つよろこびの顔で満ち溢れていた。 機を降りて、大任をやり終えたよろこびの機長さん、Cアテンダントさんとも握手。 天文学のH先生は「黄金の一日」と、かく語りき。 すべての生命と宇宙にありがとう。 |
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5月24日 モンシロチョウ モンシロチョウが草原で乱舞してる。 一匹のメスを巡って6匹のオスが争っている。 メスはストンと落下したかとおもうと、ヒバリのように天空へ上昇する。 フェイントをかけられてもまだ追いかけるオス。 4匹が脱落し、3匹がもつれ合いながら天空に見えなくなった。 茂みに目を転じると対のモンシロチョウが羽を閉じたままとまっている。 ハート型かトライアングルだ。 賢いカップルだ。下手に動くと若い衆に狙われるはめになる。 カメラに気づいて飛び立った。 メスは羽ばたきもせず、ただぶら下がっているだけ。 それをオスは必死ではばたき、吊り上げ、飛んでいき、若い衆に気づかれず、 無事次の場所に着葉した。 |
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5月24日(火)亀さん おっとアブナイ。 道路の真ん中に亀さん。 漬物石ほどのあアカミミガメ(ミドリガメ)。 手でつかむと、じょーじょーとおしっこをする。 ズボンにかかったが、敵を威嚇する悪臭はゼロ。 川に放したが、この時期彼らの移動が始まったようだ。 カメも恋人や産卵場所を求めて移動すのであろうが、どんなレーダーを備えているのだろう。 それにしても、いつの間にか日本中の池やクリークを席巻してしまった。 最早亀は珍しくもなんともなくなった。 生態系はめっちゃくちゃ。 日本種のクサガメちゃん、イシガメちゃんはどうなったの。 |
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2011年 | |
6月25日(木)生物の棲む水田 早く寝ると朝も早い。 窓外はカーッと明るい。 時計は6時であった。 せっかくだからちょと出かけるか・・。 「ウォーキングしたら」とS子さん。 改めてウォーキングなどはしたくない。 車でコンビニにより早速タバコを買う人種である。 赤信号で待ってると同じくらいの歳の男性が身を整え、 姿勢よろしく腕を振り振り、信号を横切って行く。 益々ウォーキングが遠のいていく。 田んぼへ出た。見渡す限り田植えが終わり、早苗がそよ そよと水田に揺れている。 ある区画の水田に10羽のシラサギが下りて水中昆虫など をついばんでいる。 この水田だけはまだ農薬が撒かれていないのか、元々有機 土なのか、とにかく生物が棲んでいる。動く小さな静物が視 力の落ちたボクにも見える。 水が騒いでいる。 とそこへギンヤンマのカップルが早苗の根元に産卵してまわ っているではないか。”水田”に産卵するギンヤンマを見るの も子供の頃以来のようだ。 正しく少年の頃は麦畑そして水田にギンヤンマやそのカップル を追ったものだ。その度にお百姓さんから叱られた。 水田上でギンヤンマを見ることはなくなっていただけに、こんな 田んぼが増えるなり、農薬をもっと薄めにするとかできないものかね。 ”カエル、魚類、昆虫の棲む佐賀の田んぼ”ってネ! ギンヤンマにも棲める田んぼと棲めない田んぼが判るのだろう。 もうギンヤンマを見ると子供の頃同様に興奮するが、ここは冷静に、 補虫網があっても、捕ってはいけない。子孫のヤゴを増やさなくては・・。 ならば、カメラで撮ればイイのだが望遠カメラ持って来なかった。 ケイタイでサギだけパチリ。三文以上のことはあった。 |
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6月23日 (木) 入道雲 朝の光がいつもと違う。 梅雨が明けたかと思う真夏の陽射しである。 空には入道雲が・・。 遠い子供のころの入道雲でもある。 そこで久し振りに川副の漁港に行ってみた。 満潮の河口が海のように波打っている。 海鳥でもないツバメが飛ぶ。 漁船もほとんどが陸に上がっている。 大型のリフトがやって来て、岸壁から海際まで下りていく。 そこへ今度は漁船が近づいて来る。 黄色のリフトが白い漁船を二本のアームで軽々と抱して陸へと運んでいく。 ♪負われてみたのはいつの日か・・。 入道雲が空より大きい。 |
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3月21日(月)おめぐりさん 彼岸の中日ということで、今日はお巡りさんが見える。 家人もいなく止めにしようかともおもったが、連絡もつかず、 いつものように玄関に簡単な祭壇を用意して、お巡りさんの到着を待った。 午後、雨の中「同行二人」を背に遍路姿の15名が車4台でお見えであった。 般若心経、御詠歌が神妙に通りに流れること数分。 お接待の菓子を配ばると、お巡りさんたちは、車に乗り込んで次へと 向かわれた。ぱかーっと空が抜けたように何事もなく終わった。 子供の頃から何十回と見てきた風景だが、自分一人でやる日が来る とは思いもよらなかった。 |
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3月20日 (日)古寺探訪 昨日Mさんが墓参りにいったと言ってた。 彼岸である。 普段は家人任せであるが、S子さんと二つのお墓を参った。 雨のお寺も墓地もしずかなもので誰もいない。 すでに他家の墓にはお花がお供えしてある。 直下の状況が状況なだけに、墓地の景色にも言葉が浮かばない。 全く別の次元の中にいるような孤地である。 墓石の前でS子さんはぽつりと言った。 「あなたもここにはいるの?」 虚空の空の上から下りてきたようなお訊ねである。 「・・・・・」 お葬式もいらない。 お墓にも入りたくない、というのが普段からのS子さんの心情である。 お寺の西側に今は使われていない朽ちた映画「羅生門」のような 山門があるので見に行く。 屋根はもうきれいになくなっており、頑丈な柱だけがむき出しになっている。 この時期に崩壊の美などと言ってはいけないが、津々とこみ上げる ような何かに高揚する。 奥さんを亡くされた和尚さんが本堂を箒ではいておられた。 和尚さんと決まったような挨拶をしてお寺を出る。 「そうそう、フライパンを買わなきゃ・・」とS子さん。 |
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3月11日 (金)東日本大震災 11日午後、2時46分ごろ、地震を知らせる緊急放送に NHKのテレビが変わった。なんとなく見ているうちに事態は 想像を絶する酷い映像へと展開した。 津波により三陸の街町、風景が一瞬にして消えて行く。 人も家も車も船も呑みこまれ、風景は未曾有の地獄の惨状と化した。 人間の想像力をはるかに超え言葉もない。 三陸沖を震源とするマグニチュード(M)9.0の地震だった。 連絡がとれたところは無事だったが、 仙台に住む身内とは以前連絡付かず。 |
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2月24日 木)ひょうたん公園 景色はまだ冬だが、 ぽかぽかとイイ天気である。 ヒバリが彼女を求めて空で鳴いている。 麦も大分伸びてきた。 麦踏が終われば巣作りに入るのだろう。 町ではほとんど見なくなった雀も、ここでは群れてる。 雀のお宿か学校である。 じゃれ合う仲良しな小鳥である。 クリークも空を映し、春の訪れにスタンバイ。 |
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2月22日 (火)カモメ K子さんを某所へ送り、漁港をうろうろ。 諸富の漁港はぽかぽか春。 暑い。 岸壁にずらり、黒いビニール袋が100メートルに並んでいる。 中にはの海苔網が入っているはず(。酸処理中なのか?) 茶色の汁が漏れ臭く、ハエがわいている。ビニール袋の上では カモメたちがそのハエをついばみ、地面ではセグロセキレイ たちもハエを食っている。 舟留めの支柱のてっぺんではカモメが日向ぼっこ。 近づいても逃げない人慣れしたものである。 こちらもついうとうと・・。 カモメで思い出すのはヒッチコックの「トパーズ」。 カモメがマイクロフィルムか?何かが仕込まれたパンを運んで来るシーンにゾクゾク・・。 |
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2月18日 (金)火葬場の煙 まだ川副の漁港は冬のような景色だが、風は春めいている。 岸壁の火葬場から白煙がたゆたう。 人が煙になって昇っていく。 小津安二郎の「小早川家の秋」にあった。 ラスト・・、火葬場の見える川で洗濯する麦わら帽子の 農夫(笠智衆)は、傍らの妻と言葉少なに語る。 「ああ〜。(煙が)出とるなぁ。」 「けど、死んでも、死んでも、後から後から、せんぐり、 せんぐり(順々に)生まれてくるわ…」。 |
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2月10日 (木)葦原 弁当買って、芦刈の漁港にいく。 コンクリート護岸の両岸には葦原がつらなり、 今正に枯れ葦色の枯野である。 ムツゴロウの養殖地にもまだ動く生物は見当たらない。 沖へ出る漁船の波がときおり岸辺へ押し寄せる。 摘んだ海苔をトラックのタンクにホースで注いでいる。 葦原の一角では危険物などを焼いている人がいて、いやな臭いが流れて来る。 曇天の空の下で繰り広げられている漁船と人の仕事の風景。 日本海のどこかにいるような鉛色の風景。 教室を飛び出して、ここから野望をふくらませる彼奴はいないのか。 |
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2010年12月20日 (月) アオサギ夜、満月を背に集合場所へと自転車で行く。 神社の小川にさしかかったところ、川の中央で何かが激しく暴れている。 街の灯りを頼りに目を凝らすと、アオサギである。 交尾をしようとしているのか・・、判らない。 二羽は羽を広げ、奇妙な声を発して、プロレスのようにもみ合う。 相手の羽の関節を噛み、はがい締めのように頭を水中に抑え込んでいる。 いじめである。いや鳥殺だ。 ボクは大きな声を出すが、逃げようともしない。鳥目なのか。それどころでないのか・・。 そういえば、かつてカチガラスがもつれ、争っていた。周りが見えないのである。一羽は羽がぼろぼろにひん死の重傷で逃げてはいたが・・。 いじめなのか、発情なのか、恋なのか。 長い首が蛇のようにくねる。 声に気付いたのか、アオサギはボクの方を見る。まるでシマ蛇の目だ。 まだ押さえつけている。 これ以上は耐えられない。悪夢である。 ハラテツさんが亡くなられて10年。 焼き鳥屋のカウンターに座り、偲ぶ男四人はぴんぴん。 だいこん、こんにゃく、すじ、タン、レバ、皮、バラなどをビール、日本酒、焼酎で胃袋へ流し込む。 見ればカウンターはぎっしり、どう譲り合っても余地はない。 |
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12月18日(土)He Ain`t Heavy, He`s my brothe 昨日の夜「ランボー怒りのアフガン」を見ていた。 ラスト・・、クレジットと同調して 「He Ain`t Heavy, He`s my brother」が流れる。 ド迫力な野太い声、ジョー・コッカーかとも思うがちがう。 YOU Tubedede 調べたらあった。Bill Medley・という1940年生れの歌手。 ホリーズでヒットしたのだが、ホリーズより人間くさく聴きほれる。 「レオン」のラストにはスティングのShape of My Heart(ボクの心はどんな形にもあてはまらない)が流れる。 冒頭のみに曲が流れ、後は一切音楽なしだったのが、「狼たちの午後」。 ニューヨークの港、労働者たちが映し出されエルトンジョンのAmoreena が流れ、ゾクゾクっとする。 当時ニューヨークで買ったエルトンのアルバムにAmoreena は入っている。 レコード盤が擦り切れるくらい聴いて、歌ったな。 スティングのShape of My HeartDVDを買った。 車で聴いてる。 最も思い出深いのがホリーズのHe Ain`t Heavy, He`s my brotherである。 ストックホルムのカジノ、ディスコで働いていた時の閉店の縁でキング曲が 「兄貴はわずらわしくない、兄弟なんだから・He Ain`t Heavy, He`s my brother」であった。He Ain`t Heavy, He`s my brother ジョッキーのマイケルが毎夜鳴らすHe Ain`t Heavy, He`s my brotherは心にしみた。 そしてミュージックショップでドーナツ盤を買って何回も何回聴いてた。 冬のストックホルムを歌うような曲だけに、スウェーデンの音楽とさえ思っていた。 しかし、ビルメドレーの歌い方はすご味がありアグレッシブである。 エンディングだはなく今日のオープニングにしよう。 Live in moment. |
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11月6日(土)小倉の点と線 娘に誘われて博多から新幹線で一駅、小倉へ行く。 小倉からモノレールで二駅、旦過(たんか)で降りる。 今人気の旦過市場を歩く。 昔ながらの魚、野菜、肉、食堂、雑貨などの小さな店がぎっしりと軒を連ねるマーケットである。人でにぎわい活気がある。 市場を抜けアーケードの商店街へと。 シャッターの下りた店など一軒もない。さらに商店街を歩きアーケードを抜けると川の向こうに小倉城の天守閣が見えてくる。 橋のたもとの「水環境館」の看板があり、入ってみる。 地下にある紫川に生息する魚類、階、小動物の水族館である。 一時期汚染された川は、市民の努力で現在のきれいな川にもどったようだ。 親子が水槽に顔をくっつけてドジョウ、ザリガニ、ドンコなどを覗きこんでる。 大きな海の水族館とは一味も二味も違う景色だ。 淡水魚には子供にも大人もわくわくさせる親しみがある。 水族館は地下の川の中にあり、川をそのまま水槽にしてあったり、すごい。 松本清張記念館と黒田征太郎さん 紫川を渡り小倉城にの庭園へ行く。 小倉城の隣に松本清張記念館がある。 清張さんの本も沢山読ましてもらっただけに、入館する前からわくわくする。 膨大な原稿、資料である。肉筆の生原稿用紙だが、時代にそった緊迫感が、 ゆるやかにやさしく昭和を照らし出しているようで、じんと来る。 吹き抜けの記念館は清張さんの東京のご自宅の書庫、書斎、応接室ががすっぽり おさめられている。すごい発想である。それでも捉えきれない昭和の巨人だ。 ファンならずともこの空間に浸ることは幸せだろう。 一日ぐらいではとても見きれない。氏のすべての研究がなされるのもいつの日だろうと思う。 小倉は清張さんでもつ、と言いたくなる。 不動なる清張さんの存在は小倉城をもしのぐようだ。 記念館には昨年行われた、トランペットの近藤等則と黒田征太郎さんのコラボによる映像とライブペインティングも展示されており、 異なる角度から清張さんに切り込み黒田征太郎さんの作品群はどろどろと自由である。 さんに敬意を表す。 じゃじゃ馬馴らし 小倉城堀割の前に近代的再開発ビルがある。新旧が不思議とコラボしている。 その違和感の無さは、人々の流れ、集客群を見れば判る。 川、堀割の景色が自然に人々に溶け込んでいるようである。 そのビルの地下のラーメン通りで「塩ラーメン」食ってから、6階の北九州劇場へいく。 小倉へ来たのは、シェイクスピア喜劇の『じゃじゃ馬馴らし』を見るためであった。 蜷川幸雄演出による、すべての役を男性俳優が演じるオールメール・シリーズ。 キャストが、歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』で麻阿役を演じ、新たな女形像として観客を笑いの渦に巻き込んだ市川亀治郎さん。 これが初めての蜷川演出となる筧利夫さんら多数の個性的俳優さん。 舞台は中世イタリア。速射砲的に長い長い台詞が飛び交う。 筧さんは最初から最後まで3時間、はじけっぱなし。天才・亀治郎さんは比類なき様々なしぐさ、発声法で観客を魅了する。 ラストのカーテンコールがユニーク。歌舞伎調、現代調、そのいずれでもなしと5回も・・。 終わりよければすべてよしというか、さすがである。 車窓 外へ出ると、紫川、小倉城周辺はイルミネーションが浮かび上がっている。 木にまきつけたのはない。木にもやさしくである。 にぎわうアーケード、ネオン看板の歓楽街を通って小倉駅まで歩く。 点が線に、線から面へと拡がる町。見事な再生成である。 我が町はそのすべてをなくすのか、野放図のやりっぱなし。 核を持たない人材を持たない。 車窓の暗闇は底なし。己が映る顔の急所に人家の灯り点々。 |
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10月4日(月)玉の井 上野から東武線で駅三つの東向島に行く。 東向島と言うより、かつての玉の井駅の方が判りやすい。 東京にいたとしてもこちら方面に来ることはまずないだろう。 観光スポットにも入っていない。 駅を降りていろは通り(玉の井通り)を歩く。 スーパーパーケット(寄席玉の井館跡)の奥に身延山の寺、啓運閤があり、 ここを書いた永井荷風の「寺じま記」の一節が 看板に表示してある。 また歩く。佐賀の街か、神埼か小城といったぐらいの人がほとんどいな 住居だけが密集した下町である。 「抜けられません」の玉の井の面影など最早なにもないけれど雰囲気は 好きだな。 狭い路地が狭い一帯にいるくんでいおり、よくもこんなところに棲んでいるな なと思うくらいの落差・タイムスリップではあるが、 永井荷風さん、滝田ゆうさんの風景ははるかかなただ。 買い物に往来する自転車のご婦人たちはビュンビュン飛ばしてる。 信号機もなく、車もほとんど通らないからだろう。 それが、どこかなつかしい。 東京と言えども新宿、渋谷ではない。現在、過去、未来が共存と言えば 発展的だが、それでもなく人々は大都会のすぐ傍らでその環境を主眼に 生活していらっしゃること、まちがいない。 浅草六区の繁華街にある定食屋やさんの御夫婦も、浅草に染まることなく 昔ながらの店構えで質素にきちんとした「生姜焼き定食」を出してくれた。 浅草はそん観光地かも・・。「明日から長野の温泉に二泊三日でいきますので、 お休みします」と常連でもないボクらにおっしゃる。 玉ノ井を歩いて東向島駅に戻り、続いて電車高架を横断し、 さらに下町を延々と歩くと、小さなラジオ体操公園に幸田露伴さんの 石碑があった。そ露伴がここに16年間住んでいたらしい。 公園のベンチに座ると前のビルの内部から人の声と物を作っているような 機械音がする。意外と衛星などの部品を作っているのではないかと・・。 その隣は開けっ放しの小さな豆腐屋で人もなく売り切れのようだ。 表に置いてある運搬用自転車と販売用の改造リヤカーが昭和30年代である。 白衣を着た人たちが足早に行く先は行列の一坪ぐらいの弁当屋さんで 飛ぶように売れてる。白衣の人たちも病院の人出は無く「分析所」の 人たちであった。 そこから通りを折れると吉行淳之介さんの「原色の街」の舞台となった 鳩の街。路地には植物茂り呑み屋さんがぱらぱらとある。 不思議な通りではあるが、街でもなく、当時はそれこそ知らない。 けれど、どこかなつかしい下町に疲れを忘れる。 一つ手前の駅・ひきふねに着く筈が道を間違えたらしくどんどん スカイツリ―に近づいて行くのでおかしいと、近所のおじさんに尋ねたら、 業平橋はすぐそこだが、浅草だったら墨田公園に出てぶらぶら歩いても 30分と薦めるのであったが、業平橋から電車に乗った。駅二つを遠回りに 歩いていたのである。 業平橋ホームから目の前に見えるスカイツリーの工事現場は急ピッチに 作業員とクレーンが動いている。「現在410メートル」。 |
2009年 | ||
10月20日 (火) ショベルカー 子供や孫が農作業を手伝ってるという風景も遠い昔。 高齢のご夫婦がコンバインを動かし稲刈りしてた。 コンバインのお尻から刈り取った藁だけがたばねられ、ぽとんぽとんと落ちてくる。その藁を奥さんが円錐状に組んでいる。 収穫した籾はパイプを伸ばし、農道の軽トラックへ移される。 新米を早く食べたいネ。 河口では潮の引いた川でショベルカーが川底に溜まった泥を浚渫してた。 潮が引いた時にしかできない作業であるだけに、長期に渡っている。 川底によくも埋もれたり沈んだりしないものだ。 操縦してるのは男性だろうが、中が見えない。 向こうからは、こちらを見ているかも知れない。 「激突」のトラックをおもいだし、夕暮れの干上がった河川はにわかに緊張感をおびる。 操縦者はタバコでもふかしているかも知れないが、ショベルカーは黙々と働く。メカ恐竜のようだ。 ボクらの他には誰もいない。ディーゼル音が河川に響く。 いつまで作業をやるのだろうか、もう暗くなった。 ショベルカー・一人を川底に残し、ライトを灯し現場を後にした。 農道から本道にでれば、すでに町にも車にも明かりが・・。 |
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10月19日 (月)カニ穴 県庁での某会議が終わり、潟へと向かった。 天気もイイ。いつもの弁当買ってえ、漁港でいただく。 漁師さんたちのトラックがずらりと停まっている。 漁船の多くは出払っている。 今から出て行く船もある。 白波をたて、引き潮の河口を海へと急ぐ。 その波が露わになった干潟に打ち寄せる。 なんと無邪気な波頭であろうか・・。 海鳥に代わって鳩が来る。 そこへカラスも。一匹のユリカモメ飛来するも直ぐに姿を消した。 干潟には5センチ間隔の無限のピンホール、プツプツ。 カニの巣だ。多分シオマネキだろうが、このうちどれだけが生き延びるのやら・・。それにしてもすごいものだ。 船舶工場のトラックが来て、陸に上がった漁船の船尾を修理している。 そして、スクリューが取り付けられた。 今、田んぼでは稲刈り、海では海苔の種付けと・・収穫とその準備で忙しそう。活気ある田園と海の風景に我泣きぬれずカニと戯れ。 ※頂いた旬の柿を描いたので・・。 |
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8月24日(月)葦原 磁場展は休館日。 本庄江の河口にいく。 戦車のようなショベルカーが河川工事をしている。 海と川の境界だけにライフラインとして浚渫も、より強固な護岸も必要だろう。 ただここは両岸に葦が群生する美しい昔ながらの風景がある。 ここをスケッチする人も少なくない。 まさか葦原が無くなる、ということはないだろうね。 |
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6月18日 (木)田園情報 神埼の公園へ行く。 真夏日に汗ビッショビショ。 カタカタカタとコウノトリの声の方を見れば、アオサギだった。 高い楠のてっぺんに大きな巣を構えている。 コウノトリと似たような巣作りだ。 カメラの望遠レンズで覗くも、まだ遠い。 2羽のアオサギが巣の上に立っている。 巣のすぐ上の枝にハシブトガラスがいて、ポトポトポトと変な鳴き声を発する。ハシブトはたまたまここにやってきて、休憩してるだけ、といった風な 素知らぬ様子。 アオサギの雛をねらっているのだろう。 悪賢いカラスである。いやいや、そんな人間はいくらでもいるな。 対のアオサギがいたんでは、ハシブトも手が出せまい。 例年なら公園のクリークは菱で覆われているのだが、菱は育っていない。 ホテイアオイが多い。クリークの縁に刈り上げられて枯れてしまった大量のホテイがあるけど、尚増殖し、薄紫の可憐な花を咲かしている。 「今が見ごろ」なんて言ったらしかられるかもね・・。 この場所でクウズ(クサガメ)を見ることはないが、漬物石代の外来種アカクビガメはうようよいる。みなさん倒木や設置されてる浮板で甲羅干しの最中でざんす。 だが、蓮はぎっしりと茂り顕在でありました。カメが蓮の芽を食べ全滅させるの説は危うくなった。 佐賀新聞・有明抄に「海苔だけがとれて豊かな海とはいえない」(章)と有明海についてのコラムを締めくくってあったのと同様、「米麦だけがとれてきれいなクリークとは言えない」ということのようだ。 トンボの種類も数も近年にしては少ない。ボクが大好きなギンヤンマも少ない。クリークからも田植え前の水張(みはり)田からもカエルの声さえ聞こえてこない。 多くの原因は人間様の仕業だとおもわれる。 そうそう今日はギンヤンマの産卵場面を撮りにきたのだった。 ギンヤンマのカップルはいるのだが、近くに来てくれなくて、このカメラのレンズでは無理であった。 麦ワラ帽と作業着で全身を覆った管理人のおばさんが、鍵棒でホテイアオイを引き上げている。 あばさんの後ろを黙って通り過ぎ、太鼓橋を渡って対岸に回った。 そこで、あばさんはサングラスにカメラ、ビデオを肩と手に下げ三脚を持った見るからにアマチュア写真屋に気付き会釈をするのだった。「ようこそ・・」と言う感じで・・。 汗と泥にまみれたランニングシャツと破れズックの少年は顔を引きつらせ顔を伏せた・・。前方に人影を見たなら避けて通りたい内気な少年が、トリモチ竿をカメラに持ち変えてギンヤンマを追っている。 じりじりとあの日と同じ太陽がムルソーを不安にする。 路を塞いで土木作業のトラックが運転席のドアを開けたまま停まっている。 そばの草地でおっちゃんが陸に上がった3匹のアヒルにパン屑をうれしそうに投げ与えていたのであった。 遠い日にカエルでもスズメでもゴム銃で狙ったであろうおっちゃんの秘かなたのしみ、癒しの時間でもであったのだろう。 カメラ小僧の気配におっちゃんは空になったパンの袋をもって、素早くトラックに乗り込み去って行った。そのトラックの方に向かってアヒルはガーガー・・。 |
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2009年5月12日 (火)麦わらストロー ホームセンターの表にはダーッとガーデニングの花や野菜が並べられ、花壇や畑のようだ。 その上をギンヤンマがスーイ、スーイ・・。 田んぼは麦秋。もうヒバリも巣立ったろう。 直ぐに麦刈もはじまる。 麦わらのストロー作って、ひともうけとおもったのだが、すでに「無印」で販売してるとか・・。 ストロー=麦わら。子供のころ麦わらストローで氷水飲んでたな。 ストローにベリーがついてイチゴ・・? ストロベリー・フィールズ・フォーエバーはジョン・レノンだが、リバプールにあった孤児院の名前だとか。 まずはマイストローを作って、グラスに・・。 |
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月17日自然の力 気分よく田んぼへいった。水路の枯れ葦がもう新しい葦に覆い隠され、水面にもにも新緑の水草がひろがっている。この景色はまさしく初夏。おじさんが水草の脇に釣り糸を落としている。フナやコイが跳ねる恋の季節。ヒバリさえずり巣作りか。水草の間をくちばしの紅いバンがお散歩。アカミミカメ(ミドリカメ)がうき草の上で甲羅干し。糸トンボもいれば小魚も。生命が宿りクリークの水も澄み、若草映える。とおもっていたら、スイーッと目の前を・・、まぎれもないギンヤンマのオスだ。早くも4月17日に確認。もう夏なのだ。血沸き肉躍り毎日のように魚網もって田んぼへ出掛けた少年の日。初夏の誘惑。じっとしておれずに、恋も知らず初夏に恋してたのか。しかし、今、今日も目の前の麦畑では、収穫を前に、人力でトラクターでリモコンヘリコプターで除草剤が散布されてる。 |
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2009年4月14日 (火)原基 雨上がりの佐賀平野。 ビュンビュン、ゴーゴー、風が吹く。 土手の新緑が南になびき、車体も揺れる。 低い空に360度、白雲、黒雲が表情豊かでファンタスティック。 どこかで見たような・・と、ハワイの雨上がりであった。 遠景の山々はくっきり、近くの天山も上部は雲に隠れているが、下部の山肌はくっきり。 綿菓子ではなくビニール袋を膨らましたような天山の雲。 山や平野の部分部分に雲間から光がさして、山は緑に、町は白亜にビルが輝く。 絵にも写真にもとらえ切れるものではない。 実写ではなく感覚なのだが・・。 ここに人も動物も生きてる。 あらゆる表現の元気・原基。 人種、国境を越えて草木となる。 ピカソ、クリストの原基でもある。 |
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2009年4月13日 (月)漁港にクレーンが 漁港の風景が変わった。にょきにょきと巨大クレーンが空に向かって生えてる。雲の中まで伸びたらジャックと豆の木だな。 漁港はどこも引き揚げた海苔樋を片づけるのに大忙しである。 漁船が積んできた山ほどの海苔樋をクレーンで吊り上げ、トラックに下ろしている。 トラックはそれぞれの保管場所に行き、ここは人力でトラックから海苔樋を下ろすのである。 忙しそうなので遠慮して退散。 |
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2009年4月12日 (日)阿蘇路 菊池渓谷を抜けると、目の前にダイナミックな阿蘇外輪山がスペクタクルだ。 平野部の俯瞰に空を飛んでいるような感覚。 風を切るように走るバイクも多い。 大観峰の頂上から五岳が寝そべったお釈迦さまだとか。 山々は野焼きの後で、まだ草もないが、わずかに黄色い小さな花がさいてた。 彼方の山肌からもうもうと煙があがっていたが、それはニュースで山火事と判明。 車と同じくらいさまざまな大型バイクが停まっている。 「どうだっ、オレのバイクは・・」といったところ。 まるでバイクの品評会である。 団塊世代のおっさんのライダーもいれば、その夫婦もいる。 それぞれマナーはイイようだ。 崖っぷちではドラムスをたたき鳴らす少年がいた。 天才少年というのだろうか。阿蘇の峰峰に軽快なドラムスが響き渡る。 帰路は小国から中津江村、矢部、黒木ルート。 中津江の空地に「お茶でも飲んでいかんね」の看板。 その産直売所の「ばあちゃんたちの店」に寄ると、おばあさん4人が立ち上がり一歩前にでてにこにこと出迎えてくれた。 照れるなぁ。 お茶と5種類の漬物をいただく。タケノコは売り切れでフキを購入。 早速家でいただくが、今ならではのお味にありがとう。 |
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2009年4月9日 (木)土手のスカンポ クリニックを終え、山の手へ向かった。 土手の若草萌え、楠は黄紅、春霞のやま蒼く、遅れ桜がまだまだ満開。 午後の日差しは熱い。もう早くも初夏の暑さ。 車のクラーを入れる。 スーパーで弁当買って、引き返し川のきらめきを見ながら・・。 土手沿いに下ったら、ボートを浮かべてる人もいた。 ラジコン飛行機を飛ばしてる大人たちもいた。 淡水と海水が混ざる汽水域まで来ると、川岸に釣り人の青白の傘が点々と開いている。 ヘラブナかボラを釣っているんだろうが、誰の竿にもかからない。 単なる流行なのだろうか。 しかし、のんびりと糸を垂れる風景はイイ景色である。 竹竿で釣ってたころがなつかしいよ。 くさむらの足もとに絡みつくものがある。よく見るとグリーンの釣り糸である。 足をばたつかせると益々絡みついた。危ないアブナイ。これなら人間でも倒れかねない。手に巻きとってみたところ30メートルはあった。 おろかなるは人間か。 |
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2008年 | ||
2008年12月1日 (月)菜の花が 田んぼにいたら、暑くてシャツ一枚になった。 ラジオでは「風が冷たいので暖かくしてお出かけください」と現状の情報と かけ離れている。 農夫婦が麦の準備だろう?田んぼを農薬積んだトラクターで消毒している・・。 昼の弁当をと近くのショッピングタウンに寄るが、レジに長蛇の列であきらめる。何でもポイントが5になるとか、すごい人出である。 スーパー同士のイタチごっこのイタチを演じさせれれているのも庶民。 うどん屋もラーメン屋もちゃんぽん屋も素通りして、とうとう犬井道まできてしまい、HMOのシャケ弁にありつく。 犬井道の田んぼには例年どおりすでに黄色い菜の花が咲いてる。 漁港の河口が青い。ウルトラマリンに白い船だ。 夕暮れ迫り、西陽の漁港もだんだん冷えてくる。 水平線に普段は見えぬ長崎の山が霞んで見える。 |
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10月31日(金)函館 札幌から函館まで電車で3時間。 北欧の風景からいつしか電車は太平洋側に出た。左手に何もない広い海。右手に紅葉の山とサラブレッドの牧場。勉学不信や人間不信になった若者なら一度は来てみたいとおもいそうな懐の深さだ。長万部で名物の蟹弁当を買う。量は足りなかったが、評判通りに美味だ。 3時間は長いようでも短かかった。終着駅函館である。駅を出ると探すまでもなく目の前にホテルは見つかった。ホテルの窓から近代的な駅舎と函館港が見えるが、まるでプラモデルキットで組み立てたような要塞の町。 40年前の暗い函館とはすっかり変わって近代的な町になってる。それは当然のこと。♪はるばる来たぜ函館ーなんて歌が流行ってた頃だし・・、今更ながらに時の流れは驚きよりもくやしい限り。歓楽街の大門はさびれ、今じゃ五稜郭の本町が人気だとか。大門横丁の炉端焼き屋に入る。真たい(タラの白子)やイカのイカミソ煮で酒が進クンであった。そしてここでも「申し訳ありませんが時間ですので・・」と来た。外に出たとたん店の明かりが消えた。雨は止んでたが、函館の夜は寒い。函館駅でTさんらと別れる。駅舎のベンチには青森から来る札幌行きの夜行列車を待つ人たち20人程が寝て待っているのだった。そう言えば「道内に早期新幹線実現を!」の看板を町で見かけた。本州を「内地」とつい口走る人もいらっしゃる。鉄路も空路もあるけれど津軽海峡のきびしさは、”〜我泣きぬれて蟹と戯れ”なのか・・。 |
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10月25日(土)よそわし もう寒風が・・。ミカンの葉にアオムシ一匹。ほかの3匹は何処かへいってサナギになただろう。食べかけの新葉の上で、触ってもじっとしている。最後の新葉も硬くまずいのだろう。エネルギーの消耗を抑えているのだろう。太陽が出て暖かくなるのをこうやって待つのか。このまま暖かくならなきゃ、葉のある枝へ移動もできまい。ところが、東与賀の河原では、モンシロチョウが群れてた。 100匹ぐらいが草原を乱舞。異様な光景である。通りかかった麦わら帽に野良着のおばさん・3人。「ほら、見てんしゃい、あがんもチョウチョの飛びよっ」「ほんなこて、よそわしかねぇ・・」「なしじゃろかね、今頃・・、よそわし・・」気色悪い、異様、不気味、驚異とも微妙に違う「よそわしっ」がひさしぶりに聞く佐賀弁であると同時にこの情景を見事に表現している。 |
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10月2日(火)大豆の黄金 弁当屋に新しく鮭弁スペシャルというのがあったので買ってみた。土建会社の今は使われていない空地から太陽を背に麦畑を臨む。ここはかつての干拓地。減反政策でこの地域は見渡す限り大豆の黄金の海。スペシャルというだけにおかずも多くおいしかった。最後に梅干しのタネをプーッと吹き。さて「大豆畑さん描かしてもらいますよ」。描いていてまたしても眠くなる。手だけは大豆畑をなでているけど、もう夢の中。ゴゴグーグワーァァァ、大型のトラックがボクの車を田んぼへ押し落とそうとするところでびっくりこいて目を覚ます。15分の夢だった。空地の裏でトラックが何かの資材を下ろしていたのであった。車も通らなけりゃ、人などいないと思っていたのに・・。真昼の戦慄。スティーブン・キングの世界だ。この大豆県民の口に入るのだろうか。あやしい海外物や県外物はもうイイから、地産地消、これで豆腐、納豆、黒豆を作ってくれないかな。 |
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9月9日(火)風のうつせみ ガラス戸を開けたら、秋風にレースのカーテンがなびいて、家の一番奥のドアがバタンと閉まった。眼にはさやかに見えねども・・。ミカンのアオムシも数が減った。大きくなったのは何処かへ隠れサナギになったのだろう。もう越冬するしかない。籠のオオカマキリは数日、何も食べてない。籠の天井に張り付いたままじっと獲物を待っている。もう直に虫たちの夏も終わる。後手後手になってた定婆ちゃん家の屋根に上がって、瓦の修理。上手くいったかは、台風が来てみないとわからない。屋根のてっぺんに股がるも天下太平の世には見えず。セミの抜け殻だけが木の葉にしがみつく。リンゴ園から嫁いだ若奥さんが、実家から貰ってきたと、おすそ分け。もう大分リンゴ園には行ってない。リンゴの絵も描いてない。ないないづくしの屋根ん上。夜、キム・ギドクの「うつせみ」を見ていた。ワルイ男とさびしい女。非現実と現実。寺は心の拠りどころか。抜けガラに内包する現実。抜けガラは幽霊でもない風のような気配をもった形なのだ。「この世が夢か現実かは誰にもわからない。(キム・ギドク)」。夢かうつつか幻か・・秋だねぇ・・ |
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9月8日(月)ガキの魂 コーロギも鳴いていないけど、しんーんとして冷やりと、秋の夜長。暑い夏に疲れたからだろう。家にいてゆったりとした気持ちになれるのはこの時期。温泉宿にでも居るような。情緒なんてものじゃないけど、子供のころは一年中そうだった。学校行ってご飯食べて寝て、疲れては我に返り、の連続線上。大人への甘酸っぱいスリリングな関門峡。狭き門より出でよか。深夜外へ出てみた。月は見えず、無数に星が出ている。澄んだ空気に五感が生き返る。別の一角ではたくさんコーロギが鳴いてた。これでイイのだ。都会の溝の下でもジャンクボックスの下でも鳴いていよう。鳴かぬゴキブリ増殖中。 |
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9月1日(月)橋の下 今日は幕の内弁当もって大宅間へ。ものすごい暑さだ。6月の日差しである。夏がぶり返した。これはいかんぞ、日陰に入らなければ。昼前だったので大橋の下は一台の車もいない。橋が作る影と川面の風はありがたい。満々としていた河がうねり押し上げたゴミといっしょに引き始める。河向こうに緑色の浚渫船が停泊している。それがあるだけでいつもの風景と違ってくる。振り向くと漁港に2台の電気工事のトラックがエンジンを鳴らしたまま停まっている。場所を取られたので遠慮したようだ。左官の車がボクの隣に停まった。2人の若い左官は、コンビニで買った弁当とマンガ本を下げて橋下駄の土手を上り日陰にになった土手の上で弁当を広げていた。川面の橋下駄の上にアオサギも休んでいる。時折小型の漁船が白波をたてて通り過ぎる。日陰以外は焼けつく世界だ。今年、小生は何歳になったんだ。 |
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5月18日(日)高千穂・八百万の神々 朝、8時30分、帰ってきたN子を駅でピックアップして高千穂へ向かう。八女ICから益城ICで降り高森まで、途中ドライブインに寄るも観光バスが到着する度に女子トイレは行列となる。ちゃっかりと男子トイレに潜りこむおばちゃんもいた。高森から上がって阿蘇に出て牧内というのが今までのルートであるが、今回は高森から右に折れ宮崎に入るのである。高千穂まで40キロ、意外に近い??。 12時半ごろ高千穂峡に着く。食堂で昼食をとるが、観光地とはおもえない安い値段におどろく。食堂から高千穂峡に下りて山あり谷ありの遊歩道をふーふー言いながら歩く。景色のイイのがかろうじて救いである。ボート小屋には長蛇の列。受付で住所氏名を記載して船賃¥1500を払い、30分待ちでボートに乗り峡谷を散策。瀧が落ちる峡谷に手漕ぎボートが群れる。岩と石との地質学的な風景には神々の800万年の記憶があるのだろうが、ただスペクタクル、ダイナミックな風景に目を見張るだけ。八百万の神々の”へそ”かもね。再び遊歩道を歩いて何度も休憩して駐車場にもどる。車で15分ぐらい。天の岩戸にもいくが、「もう歩くのはいや」と一人残り天の岩戸神社の鳥居をスケッチ。もどってきた家人らが「石積みのある薄暗い洞窟が高千穂峡よりすばらしかった」と言うものの・・ああ・・。熊本ICから高速に乗り朝来ルートで佐賀まですっとばす。9時30分、娘らを佐賀駅に降ろす。結果、近くはなかった、遠い道のりではあった |
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5月9日(金)ヒロシマ のぞみで徳山から広島にはいる。今までボクにとって広島は関東への往来の通過地のよなところであった。遅すぎた春とでもいうのか、初めて広島の地を踏んだ。きれいな平和宣言の町。原爆ドームや平和公園を歩き、スケッチもした。観光客や修学旅行の小学生、中学生が広い公園のあちこちに一杯いる。そして、平和についての学習をしている。美術館もたくさんあるが、ひろしま美術館へはいる。印象派からピカソまでの、まだ見たこともない作品がたくさんあった。気持ちよく流れるようにじっくりと見れる。威圧感がなく顔面を作品に接触さえ出来るおおらかさのある美術館である。正面中央にあるマイヨールのブロンズ女性像は最高。パーフェクトを久し振りにに見た。美術館庭にはピカソ美術館から贈られたマロニエのピンクの花が満開で、アート広島を願った。 |
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4月6日(日)春なのだ 川掃除の後、満開の境内で川さらいを終えたおじさんたちは昔話でお酒をいただいてた。平和だなぁ。ボクはぶらりとひょうたん公園まででかけ、桜の下で弁当を開いた。親子連れが宴会したり遊んだり、声がよく響く。ここも平和。枯れ蓮のクリークには小魚。桜にはブーンブンブン、ミツバチが。モウウシロとモンキも飛んでた。だんだん見られなくなっていくレンゲも見た。今回はこれにて引き上げる。 |
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3月38日(金)ホーケキョ ホーケキョ、ホーケキョ。裏の某宗教団体施設の林から聞こえてきた。あのウグイスちゃんか??ひかえめである。遠慮がちである。それでも、こうなるとメジロちゃんも立場がない。メジロちゃんは止まり木でミカンをつつくが、もういいかげんである。食料も増えたのであろう、ミカンが次の日まで残り、メジロちゃんの飽食みたい。ある種の危機感をもっていきるはずのメジロちゃんもペットとなるなら、餌付の行為は考えものだ、人間が喜ぶだけでは、逆行の一途かもね。「鳥のように獣のように」中上 健次 がにくい枯木灘、無南〜・・。 |
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3月21日(金)横浜港 風が強く花粉舞う横浜ベイを歩いた。38年前の手がかり、痕跡がないかと・・。港ががらりと変わってしまったというより、あの日の風景を憶えていないようだ。デジャブみたいなものもない。友人たちとテープを投げ結ばれていた瞬間の顔、顔、顔にとどまる。 M博ちゃんが桟橋の下まで下りて、届かなかったテープを拾っていたっけ。彼らも目に焼き付けているから、夢でも幻想でもない1969年9月1日は確かにあった。 |
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3月7日(金)Time after Time あったかい。ぽかぽか。花粉さえなけりゃぁァー・・。メジロとウグイスが、ミカンを催促する。啓蟄だし、もうミカンは止めて、タンパク質をとらなきゃ。床や地面に耳を押しあてれば、ザワザワ、蒸し蒸し虫の声。恋の季節。隣の猫が木に登り、屋根に飛び移る。イタチとおもっていた天井裏の足音は・・。屋根に穴が空いてるのか・・。発車ぁオーライ。あかるくあかるく〜だ。 |
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2月19日(火)ミカンとリンゴ 庭に立つボクの姿を見ると、メジロちゃんたち、チュルチュルチュルとよろこびのさえずりで、「早く、おやつちょうだいよ」と頭上の木の枝をぴょんぴょんする。今日はミカンとリンゴをやった。リンゴをちょっとつついたが、ミカンにもどった。ヒヨがリンゴ食ってしまった。室内から写真を撮ろうと汚れまくっていたガラス戸を磨いた。室内の人影がよく見えるようになり、ビックリ・・用心しているようだ。ウグイスが現れたが、すぐに姿を消した。いつの日か、メジロちゃんウグイスちゃんが手のひらに乗ってくれるのをたのしみに・・。 |
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2月15日(金)ウグイス 声は聞こえど、姿は見えぬ。ウグイスはメジロに比べると数段用心深い。丸見えの木の枝には留らない。中空よりは地面、庭樹の下の方から姿を表す。一匹とおもっていたら、どうやらカップルのようだ。さえずりもなく忍者というか、臆病鳥にも見える。過去のDNAに何が植え込まれているのか。また、あるいはそうやって生き残ってきたのかも知れない。野鳥を拉致して籠の鳥にはすまい。ホーホケキョと鳴くのはいつの日か。 |
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2月7日(木)縁側 冬は油絵の具の乾きが遅い。陽の当たる場所は暖かい。梅が咲き始めている。刺したミカンをつつきにメジロが来る。千葉でも菜の花が咲いてた。佐賀でも菜の花は12月から咲いてる。お天気さえよけりゃ、人も花を咲かすだろう。 |
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2月6日(水)船団 潟の漁港にいた。防寒頭巾をかぶった海苔漁師のおちゃんがボクの車をのぞきこみ、船へと下りて行った。おっちゃんは再び上がってくると、また覗きこんだので、ボクは車のウインドウを開けてあいさつした。「おんじさんはようここに来とんさけど、絵ば描きよんさっと・・」本物のおんじさんにおんじさんと呼ばれたのには、参った。「もう、何年もきてますよ」「どこから、来んさったと」「佐賀市の○○町からですよ」おっちゃんはボクが写生しているのをしばらく見物して「どうも」とトラックで去って行った。夕方、5時から6時にかけて、船団がぞくぞくと潮が引いた河口を下り海へと向かっていく。水平線に消えていく勇壮な船団の風景である。その波が繰り返しざわざわバサーンと干潟と桟橋に打ち寄せる。静かなる虚空の空間が、華々しく動へと一変する。ディーゼル音と波音は北風に勝り、白いしぶきの航跡は鉛色の水面をえぐり広げ、大キャンバスの大ストロークのごとく。ふと、顔を右に振れば、西の空は紅い。 |
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2月5日(火)正面 クリーク公園のクリークの正面に車を停めた。クリークが遠近法の三角になる。三角の頂点に数軒の農家と林があり、そこから傾斜の2辺は葦の枯れ野となり、△の外側は一面緑の麦畑。この形を僕は「正面」と考える。風景は正面から臨むときがすきっとする。その正面を見つけるのに月日がかかるものである。 |
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2月4日(月)欠落 潟に行った。車から外に出ると寒い。漁師は漁師。この寒い海で働いてる。本当は寒風に吹かれ描かねばならない。テクノロジーにたよるだけでは、何かが足らない、かならず核心が欠落する。ストックホルムの氷の海を前に寒風に鼻水を垂らしスケッチしていた画家をおもいだす。あれから38年。 |
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2月3日(日)メジロ どこに巣んでいるのだろう。メジロがよく来る。かなりの数がいるようだ。グジュグジュとさえずり、枝のミカンをつつく。きょろきょろと警戒しているが、近ずいてもあわてては逃げない。人にも慣れてきている。人も昔のように、焼き鳥、ペットにと捕まえようとはしなくなった。鳥といっしょに住めるなら、籠の鳥もいらない。メジロより小型の薄茶色の鳥もくるが、名前は知らない。それをメジロが追っ払う。虫も食べているんだろうが、刺したミカンも皮だけになるのが早い。集団のメジロ押しを見てみたいが、メジロちゃんたち、一体どこに棲んでいるんだろうね。 |
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1月21日(月)自然に暮らす 鳥が食べに来る。カバも食べに来る。雨が降るのを待つ間も草取りは続く。アフリカのある村の天候次第の稲作。 サハラ砂漠を片道14日間、往復1月のラクダキャラバン隊が塩の買い付けにいく。砂漠に地図はない、星も当てにならない。「頭の中の地図」を頼りに死の砂漠を歩き続ける。彼らが世界を知らないわけではなかろうが、初めて苛酷なキャラバンに同行した子供たちも疲れるどころか輝ける大人へと変貌していく。自然に抗わず、神とのかかわりも自然なもの。 |
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1月18日(金)張り込みのような 自動車修理工場の裏は田んぼだ。修理音は聞こえてこないが、整備士の姿が確認できる。張り込みの刑事のようだ。村外れの通りにちょうどイイ空き地があり、車を停めた。広々とした田んぼに小さな集落が点在する。低い帯状の雲が地平と重なろうとする夕暮れ。垣間見る陽光に風景は鈍から鋭の間を行ったり来たり。笹やぶの隙間から自動車工場が見える。麦畑に突き出たシルバーと赤い車がいやに意味ありげなのだ。果たして、犯人はここへ逃亡してくるのか・・。 |
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1月17日(木)空と平野の間 河口にそそり立つ本庄江にいった。三叉路の水門から脊振山系を臨む。下り坂は土手へと続き本庄川に沿い、横一直線の町へと消える。土手の両側にはダダっ広く麦畑。澄んだ空気が見えるように山もクリアー。晴天の天山おろし吹き荒む中、ローラー機による麦踏が盛んだ。何もない田んぼにいろんなものがみえたような・・。 |
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1月1日(火)薄化粧 初雪の正月。宴の前に、チョロッと田んぼへ行ってみた。芽吹いた麦畑と薄化粧の山々が陽光に輝く。あるのに何もない。何もないけどあってしまう満目蕭条とした空間。クリークからカップルの鴨がビックリして飛び立った。犬と人が農道を散歩をしている。 |
2007年。 | |
12月9日(日)日田 小国 東に向かうのはいいが、右へ曲がるか、左へ折れるか、という選択がある。何も閃かなかったら、ひたすらまっすぐ前へ前へと進む。心に変動あり、コース変更、小郡で右に折れ、再び左に折れ東に向かう。周りすべてが田んぼである。刈り取られた土壌向きだしの田んぼである。広い、広い。狭い日本というけれど、日ごとに広いとおもっているようだ。筑後川にぶっつかり、土手上を行く。左手に甘木のビニールハウス群が見渡す田んぼを覆うっている。ぬけるような空の下、家もない広い広い大地は、日本人の食糧、エネルギーの素。風景としてもいつまでも、そのままであればイイのである。少々高くても信頼できる日本の大地で生産されたものを食べよう。できれば、ヒマな人は自給自足で忙しく日々を費やせばイイことでもある。人間、ヒマな時は、金と遊ぶことしか考えない節がある。未来の見えるリーダーがいて、タヌキにもカエルにもやさしい、イイ政治を願うのだが・・。道の駅はどこも人と車であふれている。郊外のショッピングモールもにぎわっていることだろうが、衰退していく町の数の多さ。このごちゃごちゃの現状を憂えるマニエリスムと見るか、ルネッサンスの兆しと見るか、嘆くだけは(僕ら)高齢者にとどめておこう。何であろうと、子供、若者は広く広く生きていく。人生が目に見えぬ(平和な)戦場であることには変わりない。杷木で柿を2箱買う。とにかく安い。生産者はこれで採算がとれるのだろうか・・とさえ。柿食う世代も減ったよ。日田から阿蘇に折れ、小国へ。小国の高台の食堂で焼肉定食。ぐるりと山に囲まれた盆地に人工数万の家々がぎっしり方を寄せ合っている。人の心もそうでなくてはならないはず・・。坂本善三美術館の前まで来る。「アジアの空間展」。ここではあえて見るのを止め、矢部、黒木町、八女の山越えルートを選ぶが、またまちがって日田にでてしまった。遠うまわりになったけど、佐賀へ引き返す。「ファンタスティックな野郎たち展」の最終日。搬出、片付けに間に合うかどうか。浮羽、田主丸、久留米そして、ぎゃらりー久光に撤去時間5時30分の2分前に到着。 |
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12月4日8(火)狸無残 ゆっ君から預かったというか、貰ったクワガタが死んでた。このところだいぶ飼育箱をのぞいていなかった。体長・9pの外来種で名前を聞いたが忘れた。越冬する種族でなく、寿命だったのかも、どちらとも言えない。虫の世話をするゆとりもなければ、もの忘れはする、トホホ。まずは標本にして、デスボディーを描いて、供養としよう。先日、1日の朝、K子さんを空港に送っていく、空港道にタヌキが二匹轢き殺されてた。轢き逃げである。それをカラスがつついてた。まるまる太った大型のタヌキであった。夫婦であったのだろうか?一体2匹そろってどうしたというのだろう。全てが刈り取られ、隠れる茂みも無い田んぼにて、狸無残。最早、山だけでなく、街にもどこにでもいる狸。イタチ、タヌキもかわいがらなくては・・。 |
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11月20日 (火)札幌 福岡から1時間50分で札幌。 遠いようで近い。映画一本見ている時間である。 40年前、東京にいた同窓生、K君とF君の三人で北海道一周をした以来のことである。 K君の兄さんの会社のスズキ・フローリアンでの旅であった。 車体に「TOKYO,北海道一周」とテープでロゴを入れてのイージーライダー。 補助ガソリンを携行し、猪苗代湖のFくんの彼女家でおにぎり、硫黄噴き出す恐山、の十勝地震の列車転覆、豪雨の山中の夜通しのドライブ、札幌のFくんの姉さん家でジンギスカン、K君の知り合いの開拓村で見たこともない大きな蟹を御馳走になり、旭川へ向う大平原の道路でボクはスピード違反で切符を切られ、旭川の中学生と小学生の「いつか自分たちも旅に出たい」という姉と弟、旭川の高校生・おてんば3人娘との出会いなどなど、甘酸っぱい青春のおもいでである。 今回、新千歳空港から電車で札幌に向かう車窓の風景に見入った。 木立、畑、平原、家々、車、諸々のたたずまいが、まえるで北欧でなのである。日本文字の看板が見えたとしても、極寒のきびしくも美しい北欧と全くなんら変わらぬ風景なのである。北欧に行かずとも北欧が日本にもあった。 札幌も見違えるようにビル群の新しい街に生まれ変わっていた。 時計台、札幌タワーを歩いたが、寒い、寒い零下の北国である。 2日後に迫ったホワイトイルミネーションの準備がタワー通りをメインに進んでいる。しかし、残念ながらその前に変えることになるが・・。 海鮮は本場ならでは、新鮮で美味しく安く食べられる。 中島公園のコンサートホールで「歌談の会」はあった。 孝さんは今夜も伸びに伸びる歌声と三味線で観客を魅了した。 新曲「真さらな台本」も耳になれてきた。”〜よしとしよう〜・・」 長蛇の人々がCD買ってサイン会にのぞんでいた。 孝さんがどんどん大きくなっていく。 29階から見渡す札幌の夜景もすばらしい。 ちらちらとフル雪に日本にいてヨーロッパにいるような気分になっている。 |
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11月7日 (水)古代文字 漁港の堤防から河口ではなく、田んぼを一望にする。 のどかな広い田んぼである。 ゴッホがここにいても描いただろう。 なんの変哲もない風景も絵になると、行ってみたい場所になる。 描いて描いて描きまくる。目をつぶっても描けるくらいに・・。 歌川国芳の戯画と月岡芳年の無惨絵がこの田んぼとどうリンクすると言うのか・・。 映画館で映画を見ているまでは、充実しているのだが、館を出た時の現実の眩しさに焼失しそうだった青春。 時が経とうと、変わらぬものばかり・・。 |
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11月1日 (木)大豆畑でつかまえて 川副一帯は大豆畑が多い。 晴れてる訳じゃないが、イイ天気だ。 路肩に腰掛け黄葉の大豆畑を一望する。 まだ、モンシロチョウがいる。 ヒバリも飛来して目の前の大豆畑に消えた。 脊を後ろに倒し、仰向けに寝そべっていたい。 道路工事のおじさんが来たが、こちらに見向きもしないで、用を済まし去って行った。 暑くもなく寒くもなく、風もなく全身からプクプクと気泡が上がっていくような陸上の魚人。 スケッチのタイトルは「大豆畑でつかまえて」にしておこう。 |
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10月23日 (火)大三郎先生 「ファーブル昆虫記・南仏・愛しき小宇宙」NHK BSの2回目を見た。 奥本さんって歳とらない人だとつくづく思いいる。 たばこは吸われたか忘れたが、声も当時のまま。 髪はふさふさ、肌はつるつる。 酒は強く、カラオケもお好きだったが、曲名がおもいだせない。 ボクより3つ先輩、まだまだお若いはず。 何せ昆虫少年であるのだから。 奥本さんの豊富な知識を交え昆虫を語られるから、どの本もおもしろく夢中になる。「大学教授、三日やったら辞めたくなる」「虫の宇宙詩」「当世 虫のゐどころ」などウイットとユーモアに飛んで、知らぬうちに雑学してるのであった。”恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす”とか日本の民謡らしいが・・。 足がご不自由だが、まだまだ、トンボ追っかけ”ボク”をたのしましてください。 |
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2007年10月22日 月)ファーブル ファーブル昆虫記・南仏・愛しき小宇宙」NHK BS。 を見た。 富士町でやってた「ファーブル交流・・」はどうなったのか・・?奥本大三郎さんとも会えなくなった。 番組中、長野県 小諸町 奥本さんと海野和男さんが、長野県小諸町の野原で 、少年のように赤い捕虫網構えてオニヤンマ捕ってた。 待ち伏せして空振りした奥本さは「もう駄目なのかなァ・・」と首をかしげたが、2度目は成功し、指にはさんで、「こうして、たくさんはさんだものですよ」としてやったりの笑顔。オニヤンマの肢体と感触をしばしたのしみ野に放った。 いつまでも昆虫少年であることは意外にかっこイイ。 K高さんとボとのトンボ捕りはどんだけ〜ぇ。 |
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2007年10月15日 (月) コアな風景と 好きでもないのに、今日も有明の河口にいた。 ここで生まれここで暮らすもよしとはしてない。 そうせざるを得ないだけ。 今日は遠い日も未来も見えない。過去も未来も寄せ付けぬ鉛色の現実。 現実のリアルさが正しく海上空に浮かぶマグリットの巨石である。 マグリットのトリックはトリックでもなく現実を巨石にとじこめたのであることと、・・ひも解けていく。 岸田劉生の林檎にしても、彼の時代を林檎に閉じ込めたのである。 法隆寺の夢違い観音は夢がかなうどころか、夢を閉じ込めてある。 そこを開くのが現代の迷宮のアートである。 Today is firstday for lost my life.(ゲーテ)と小椋さんが言ってた。 |
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2007年10月7日 (日)見あきた風景 午後漁港をまわった。 曇天の水面は鈍い鉛色だ。 戻ってきた漁船から潟スキー、釣竿、零頭ボックスをひきあげていた。 そして、干潟にいるムツゴロウを見つけ竿をだして釣針でひっかけようと試みるも失敗に終わり、男三人はひきあげていった。 桟橋に男4人が並んでハゼ釣りをしていたが、つれる気配がない、それなのにまだ、釣りを続けていた。 入れ食いでなけりゃ、いつまで待っても釣れないとおもう。 水鳥もすっかり数と種類が減ったようだ。北国へもどっていったのだろうか。いるのは、定住したアオ鷺、白鷺のみ。カモメもとんと見なくなった。 漁村の少女たち10人ぐらいが、耳の長い毛糸のような体をした2匹の犬をつれてやってきた。女の子ばかりが漁港に遊びにくること事態めずらしい。 連休とあって里帰りしてきた子供たちかも・・。 見あきた風景に変化が起こった。 |
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9月27日 (木)ギンヤンマの空 滑走路と平行に堤防が走る。 堤防から顔を出すと有明海の干潟が広がっている。 濡れた干潟のあちこちに金属的な白い反射がある。 それさえをカッコいいとおもはなければ、ただの泥の海。 臭いもなければ、毎日太陽に殺菌され、有機物いっぱいの泥パックができる。干潟表面の藻を主食とするムツゴロウが見渡す限りうじゃうじゃいて、お散歩、ジャンプしている。 沖の海苔ヒビの川を白い漁船が往来する。なくしてはいけない風景だ。 クリークでギンヤンマのカップルが産卵していた。それを捕ろうと補虫網を取り出したところへ、後ろから「この土地はだれのですか・・?」。 赤い車で通りかかったおやじさんであった。 確かにクリークとクリークの間にチェーンが渡してあり、進入禁止になってる。荒地の中に泥山が散在し、資材置き場のようでもある。 「この辺の者ではないから判りません」。 「ああ、そうですか、どうも」とおやじは去って行った。 畑や稲田しかないようなところに放置された土地があるというのは、言われてみれば変だし、不気味である。 しかし、訊ねた男も何者なんだ。 おかげでギンヤンマのカップルを見失った。 着水した辺りを角度を変えたんねんに調べるとなんと、目の前の枯れた葦クズが浮かぶ上んにいるではないか。 ギンヤンマは水草にも枯れ草にも対応できる保護色であるようだ。 あわてず、そっと補虫網で葦クズもろともかぶせすくった。 カシャガシャカシャ、少年の日を呼び起こす胸躍るギンヤンマの羽音である。 コンポーズブルーの腹をしたオス。そしてライトエメラルドの腹をしたメス。尾はオスより一回り太く赤味をおび、アメ色の羽には充足した遠い日の憧れがつまっている。2頭を重ね、口にくわえ、空を仰ぐ・・・。 「よし・・」1頭づつ空に放った。 ゆっくりと秋空に舞い上がり、点となり消えていった。 |
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9月26日 (水)筑後川 筑後川沿いを散策。人っ子一人いないさびしい土手が夕方になると、これでもか、 まだ来るかと言うぐらいに、犬の散歩のオンパレード。 諸富鉄橋の産直販売所で、ジャガイモ、タマネギ、グリーンアスパラ、ナスを買う。 〆て¥400。嫁さんもいないことだし、カレーでも作るか・・。 家に帰るとケイタイが鳴る。W氏である。 「王さん、僕より先に待っててくれたよ、小久保選手も来てくれてね、20分いっしょだった・・」 とすべてうまくいった安堵の報告。 親しいとはいえ、フロントを通した方がスムーズにいくようである。 「今??広島、これからヤクルト-広島戦・・」とよく動き忙しい男である。 ボクもちょうどソフトB-オリックス戦を観戦しつつカレーを作った。これまた美味い。 はらはらしながらもソフトBが3-1で勝ち、人ごとながら胸をなでおろした。 |
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9月20日 (木)コォーロギ コオロギがよく鳴いている。 昼の暑さ忘れさす自然な音色だ。 20歳のころ、蒲原マンションの側溝で道路が凍りつく12月になっても 鳴いているコオロギがいた。 自分を重ね「コオロギ爺さん」という一遍の詩を下宿人誌「飢餓」に書いたものだ。 それを同居人・U君がボクの個展の時にガリ版刷りの詩集にして、配った。その、 薄っぺらな一冊が本棚のどこかにあるはずだが、所在は判らず。 あの時代は金もなく、たのしかったのだが、ホントはきつかったのだとおもう。 季節を超えてコオロギでありたいね。 |
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9月16日(日)変わりゆく都市 よく寝た。 11階のカーテンを開けると眼前のリクルートのカーテンウォールに青い空と大小のビルが万華鏡のように映っている。眼下のビルの屋上はキットを積み上げた要塞のようだ。緑の見えないガラスとコンクリートの世界である。 田んぼばかり見ているものにとっては、新鮮でもあった。 新橋アーバンを出て六本木ハイアットにいく。 ハイアットの「フレンチキッチン」にてランチ。 広いスペースに厨房と客席が互いに見ると見られるの関係にある。 厨房に目をすえているだけで、厨房の中を道路のように動くシェフたちが見られる。 昨夜の「NOBU」といい、室内空間の捉えかたには目を見張るものがある。 お客も外国人が半分はいてそれぞれの母国語が聞こえるというのもイイ。 ゆっくりと食事を済ませ、ぶらぶらと今年オープンした新国立美術館へいく。黒川紀章建築である。カーテンウォールの巨大な美術館である。 ロビーは深く長く、逆円錐の柱が室内のビルのようでもあり、カーテンウォールから外の景色も取り込んでいる。 日曜日とはいえ、見物客もあろうが、ものすごい人の数で美術館とはおもえないほど。 二科展があってたが、いくらなんでもこれを見に来た人ばかりではなかろとおもうのだが・・。 二科展入場口でばったりと二科会員の大隈猛夫さんに会った。 何年ぶりであろうか・・。 「見ていかんね」とタダで入れてもらった。 「展示スペースの壁も可動式で、広く、天井も高く、都美術館よりは断然イイ」そうである。 久し振りに見る大隈さんのインドシリーズの作品も以前の褐色から色彩やタッチががらりと変わりロマンチックであった。 時間もなかったので第一室の会員さんの作品だけ見せてもらい、積る話もあり名残惜しかったが、おいとました。 それにしても団体展が主流の美術館はうらやましくももったいないような・・。 通りを挟んだミッドタウンには安藤忠雄氏の21_21 DESIGN SIGHTもあり、 お二人の闘いもおもしろく、旧陸軍跡地は新しい街へと変貌している。 |
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9月5日 (水)ウォーターヒヤシンス 昨日、見つけたホテイアオイを見に、川副の田んぼにいく。 ピーク時は過ぎたが、汗がしたたり落ちる。 日中でもしなることなく、クリーク一面に白と淡紫のホテイアオイの花が満開である。 白秋がウォータヒヤシンスと呼ぶように可憐で涼し気だ。 生産的な水路としてのクリークばかりより、ホテイアオイのあるクリークも農業をやる人たちに とっても心なごむことだろう。 ホテイアオイ、いやウォーターヒヤシンス公園にしてもいいくらいだ。 佐賀空港に入ってくる他県の人たちを淡紫のホテイアオイの花が出迎える。 5月から9月まで咲き続ける。 発想さえ変えれば、ホテイアオイは邪魔モノではなくなるだろうが・・。 童謡「砂山」 トンカジョンはびいどろびん 南の風のふくところ ウォーター・ヒアシンス からたちの小道 本をよむよろこび きらいな数学 大火にまきこまれた家 さよなら、ふるさと 花ひらく詩と歌と 日本の童謡 ああ、ふるさと柳川 <白秋> ーわがおいたちー 前略・・あるいは佐賀より筑後川の流をこえて、わがマチに入りくる旅びとはそのあたりの 大平野に分岐して、遠く近くロウ銀の光をはなっているいくたの人工的河水を眼にするであろう。 そうしてあゆむにつれて、その水面のずいしょに、ヒシの葉、ハス、マコモ、河骨、あるいは赤褐黄緑 その他さまざまのウキモの強烈な更紗もようのなかにほのかにあわむらさきのウォーターヒヤシンスの 花を見いだすであろう。・・後略<白秋> |
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9月1日 (土)9月の空 空と港の見える稲田にいた。 ギンヤンマがいた。 アオサギ、シラサギもいる。 抜き足差し足とはアオサギのことか・・。 しゃがんでクリークに近づき、スーッと首を伸ばすと、口ばしに小魚が・・。 日がな一日、えさを探し求め、優雅な舞も決して遊びではなかろう。 人間でよかったのか、シラサギであるべきだったのか、9月の空に入道雲。 部分的には除草剤の枯草地帯が異様に目につくのだが、水草らでクリークは浄化されているようだ。 ほっ、とはするものの、自然の回復、治癒力をあたりまえとおもってはいけない。 それも、もうたぶん限界ではなかろうか。 濃い緑のはずが、今夏は新緑のころのように見えるのである。 衰えた視力の底力ならば、ありがたい。 大きな樹木は、幹の数倍にも葉をひろげている。 陽光との闘いでもあるようだ。 日差しが強ければ強いほど葉をひろげ、そして木陰をつくる。 そうでなくば、樹木とて生きてはいけまい。 地の底に根をはる形相など夢のまた夢。 夏の野山を注視するほどに、9月の空も初夏になる。 |
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7月9日(日)アウラ 雨音がイイ。 日曜日に家に居るのはめずらしい。 「のど自慢」はそれなりに、「新婚さんいらっしゃい」、まだやってる。 三枝さんのばかばかしい方向への誘導が飽きずおもしろい。 テレビが煩わしい時もあるが、息抜きにちょうどいい時もある。 世の中は別にしても、自分にとって退屈は退屈なのか・・。 緊張と無防備。無防備と緊張、充足と空っぽを交互に繰り返す。 このバランスがどちらかに偏ると一種の病気にも似る。 スポーツ選手などがある緊張状態に入るのは、美しさとも見てとれる。 芸術家の場合も同じだが、理解出来ぬ場合は狂気、天才と見なされる。 手術台でミシンとこうもり傘が出会ったり、日常のアウラに出会うのも、現代社会に反しては、病的構造の範疇であろう。 |
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7月5日(木)健在チョウトンボ(からっこん) 梅雨の晴れ間にギンヤンマを捕りに横武のクリーク公園に行った。 クリークを見るに、「これはいない」と直感。 昆虫が好きな水や空の輝きはないものの、遠景にもギンヤンマの独特の滑空がちらりともしないのである。 クリークを歩いたが、ギンヤンマのオスを1匹見ただけであった。 時期が早いとか遅いとか、曇り空だからではない、5月から6月7月がご当地では最盛期である。 数年前はギンヤンマだらけであった。昨年もあまりいなかった。 ある時期衰退していた野山のトンボが復活したのだが、ここでまた減少していくようだ。単に農薬だけの問題でもない、環境全体の弱体化と見るべきのようだ。 人や子供が捕ってる訳でもなく、他のトンボの種類も数も減ってる。 クリークと樹木に恵まれた環境からして、この原因を突き止めるべきである。 もっとうじゃうじゃいるのが本来の水辺の姿なのだ。 今日目にしたのは、シオカラ、ショウロウ、チョウ、オニヤンマ、ウチワヤンマ。 以前見なかったオニヤンマが増えてる。4,5匹はいた。 クリークは雨でよどんではいたが、ウシガエルのオタマジャクシ、ミドリガメがいるものの水自体に生彩がない。 そばの水田にはそれこそミジンコたりともいない。一体全体どうなってる。あの生き物であふれていた豊饒の水田はどこへいった。 救いはチョウトンボがたくさんいることだ。 夕方、ハゼの木のてっぺんで風に飛ばされることもなく、20匹ぐらいが群れ遊び、追いかけ、カップルが誕生しているよう。 別の木のてっぺんにもチョウトンボが群れ、まるでチョウトンボのお宿。 鳥や大型トンボにも襲われない。 上昇気流に乗ってるかとおもえば猛スピードでカップルが飛行していく。 薄いぺらぺらの羽で頼り気なくチョウのように舞うから「チョウトンボ」なのだろうが、鳥も寄せ付けない真っ黒な姿態と高速の飛行も隠し持つ。 最も弱く絶滅危惧種第一号と思いきや、意外にしたたか、弱体化した天敵の隙間に生存しているのだろうか。 ギンヤンマの勇姿は子供の憧れだったが、のらりくらりとゆらゆらとしたたかに生き延びるチョウトンボは熟年の憧れか?見直さなければ・・。 |
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6月26日(火)憂鬱なる小説家・開高健 美協の日直当番にいく。 当番と言っても、特別やることはない。 写真、ムービーを撮ったりしているうちに一日も終わった。 今日を見る限りでは以前にまして、観覧者がぞろぞろと、うれしいことだ。 「開高健のオーパ!冒険旅」をNHK教育で見る。 画塾教師とその教え子の母親との恋、 その子供は「ふんどしに刀差した殿様がお城の前を歩いている絵」を描く芥川賞の「裸の王様」に始まり、 ベトナム従軍記以後、開高さんは小説が書けなくなる。 自殺にまで追い込まれる。 そこで、例の映像が流される。 井伏鱒二翁に「書けないんですよ、どうしたらいいんですかね」と 居酒屋で一杯やりながら乞うシーンである。 「何でもいいから書けばいいんだよ、いろはにほへとでもいいから・・」と井伏鱒二翁はとつとつと答えるだけ。 また、書斎でのインタビューでは。 書斎にバーバリーのシャツを着て、あぐらをかき、机にはワインのボトルと何故か レモン片の入ったウイスキーグラスがあり、タバコにジュッポで火を点け、もう一杯入ったような風呂上がりのような顔で煙を吐きだしながらしゃべり出す。 「見えざる危機は自分の心ですね」 「自分の心を異常に危機をはらむものはないですね」 「外側からくる危機に対しては、人間は割合に抵抗のすべを死っているんですね」 「自分の心に生じてくる危機に対しては手の付けようがない、なかなか」 「これが最大の問題です」 「私にとって最大の危機は私の心です。生きてる限り」(40代のころであろうか) やがて、開高さんは書くのを止めたかのように呑み喰い、世界の釣りに明け暮れる。 文字なない中国やモンゴルの河にイトウを追った。 現代社会で培ったものを捨て、生まれいでた時のように未踏の地平に立つ、それが最大のウツから解放であったのだろうか。 |
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6月14日(木)初心、1年生の時の絵 早起きして、シャワーしてひげそって、 さわやかな気分で余裕藻ってクリニックにいく。 外のしとしと雨のように、みなさんもどんより。 お絵かきして気分をかえなくっちゃ。 雨の絵を情緒たっぷりに描いた人たちもいて、正常である。 お絵かきの魅力をあらためて感じる。 紙と鉛筆とクレヨンを手にしたときの感動。 以来ずっと描いているけど初心を忘れてる。 便所の紙さえ新聞紙、ましてや紙に絵を描くなどまれで、基本的には地面に描いて皆で遊んでいたものだ。 小学1年生になって、図工の時間に紙をわたされたときは、さぞうれしかったにちがいない。 茶色の藁半紙を半分にしたサイズであった。電信柱のカチガラス、田んぼのカエル、オタマジャクシ、それにカニをよく捕っており、穴の中のカニを捕るのは巧かったので、カニ捕りの絵。 紙に描いた記念すべき最初の絵と言っていいだろう。 こうしてみると興味ある物は何一つ消え去りもしなければ、変わらないのである。子供のままと言うよりは子供の延長線上から外れることなし。 大人おとなといばるな子供。 |
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5月12日(火)カラスの襲撃 カチガラスの巣を対のハシブトカラスが襲っている。 少し離れた屋根でカチがなすすべもなく鳴くだけ。 カチの巣からカラスが飛びたった。 卵も雛も食ってしまったのだろうか。 カチの2、3倍の体格だ。 人の気配にカラスは逃げた。 スカチガラスもズメもキジバトのようにもっと人間に接近しないといかんな。 何を怖がってるのか。 オーストラリアではカラスでさえも人の側に来るンだけど・・。 焼き鳥にされたおもいが消えないんだな。 スズメとカメが路上で平面になってた。 梅雨時には何かと事故が多い。 |
2023年 | |
佐賀大学美術館開館10周年記念 ・響きあうアート | |
2013 | |
田植えのころ/2月27日(水)石巻無残/2月26日(火)石巻へ/ 2月25日(月)陸前高田 気仙沼/市町村 黒木町上陽町/季節満喫/新年/ |
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2012年 | |
ゴンドラに乗った植木屋さん/ 牛島天満宮のお祭り/亀さんの産卵/金環日食/ 亀さん/モンシロチョウ/ |
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2011年 | |
生物の棲む水田/入道雲/ おめぐりさん/古寺探訪/東日本大震災/ひょうたん公園/ カモメ/火葬場の煙/葦原/ |
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2010年 | |
He Ain`t Heavy, He`s my brothe/アオサギ/小倉の点と線/玉の井/ | |
2009年 | |
ショベルカー/ カニ穴/葦原/田園情報/麦わらストロー/自然の力/原基/ 漁港にクレーンが/)阿蘇路/土手のスカンポ/ |
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2007年〜2008年 | |
菜の花が/函館/ よそわし大豆の黄金/池田武邦さん/橋の下/風のうつせみ/ガキの魂 高千穂・八百万の神々/ヒロシマ/春なのだ/ホーケキョ/横浜港/ Time after Time/ミカンとリンゴ/ウグイス/縁側船団/正面/欠落/ メジロ/自然に暮らす/張り込みのような/空と平野の間/薄化粧日田 小国/狸無残/ /札幌/古代文字/大豆畑でつかまえて /大三郎先生/ファーブル/コアな風景/見あきた風景/ ギンヤンマの空/筑後川/コォーロギ/変わりゆく都市/ ウォーターヒヤシンス/9月の空/カラスとカメ/風景のズレ/ 公園・セントラルパーク/ 作品がしずかに語るとき/ トンネル/カチガラスの巣/トロイの木馬/ 黒と白がコラボするとき/カラスの襲撃/初心、 1年生の時の絵/ 憂鬱なる小説家・開高健/ 健在チョウトンボ(からっこん)/アウラ/ |
2013年 | |||
6月13日(木)田植えのころ いまにも雨が降りだしそうで降らない。 田植えの準備も進んでいる。 山間部は田植えも終わり、平野部から海岸部へと移っていく。 ご当地では空梅雨でも水の心配はなさそうで、海側の有明佐賀空港周辺でも田に水 が入れられている。 人が手で田植えしていたころと比べれば、農作業も大変な変わりようだ。 祭りのにぎわいもなく、田植えもたんたんと、あっという間に終わるようだ。 場所によっては、除草剤がくりかえしまかれているのだろう、枯れた草の中から新しい草 が出てきては枯れ、また新らしく出てくるの繰り返し様。 冬と夏が喧嘩しているように痛ましい風景を呈している。 枯れ草の部分もやけど大やけどとさまざまな枯れ色ぐあいで、小麦色なんていってる場合ではない。 不条理な虎刈り、虫歯、まだらはげの田園である。 わずかにトンボがいるけどギンヤンマはまだ見当たらない。 ギンヤンマも増えたかとおもえば、また減っていくようである。 海をきれいに、保護のもと、やっと干潟には大きなムツゴロウがうようよ。 蛍も飼育、保護、環境保全の繰り返し。なにがいけない、悪いか?など問いただした瞬間から 人は生きてはいけなくなりそう。 矛盾と不条理の人間界・果てしない地球の悪夢。 |
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2月27日(水)石巻無残 何かと変なアパートであった。 そのうちの一つ。各部屋のドア横の配電盤の蝶番から1mぐらいの輪っかのついた ビニール紐が垂れてる。 通路を歩く度に手や足にからみそうで用心した。何のための紐なのか?まったく見当がつかない。 翌朝、チェックアウトで外に出てとたん、判明した。 アパートを出るのもボクが最後だということもわかった。 ドアのノブに輪っかをひっかけドアが閉まらないようにするための紐なのであった。 部屋掃除のおねえさんたちが、シーツや毛布を運び出したり部屋の空気を入れ替えている のであった。納得。 フロントにリュックを預け、駅とは反対の海側の高台に行ってみることにした。 アパート宿から勾配のある住宅街を延々と歩く。住宅地の道や家々を見ていくと その土地の構造が見えてくるような気がする。どこにでもあるような普通の庶民の暮らしが 見えるが、閉まっている商店もある。 とある一軒の「石巻産物屋」が目に留まった。ガラス戸越しに昆布などのパックが見え、 頭にネッカチーフをかぶった中年の女性が笑顔で表を向いて「いらっしゃいませ」と言わんばかりの 態勢で立っているのであった。「ガンバッテる」とおもったが、人通りはない。 路地から路地をGPSを頼りに30分ぐらい歩くと気仙沼市立女子高校に来た。その隣が” 日和が丘”という公園である。 あの日人々が非難していた場所でもあり、270度の俯瞰パノラマである。 今はただ、惨状のパノラマを見るばかりである。 木々の間から黄土と化した南浜地区の惨憺たる状態が姿を現し、もっと上に上がると、 南浜地区から旧北上川の両岸の漁港、北側の石ノ森章太郎漫画館までの大規模な悲惨な姿を 目の当たりとなる。 高台の柵には、そこから見える震災前の美しい風景の写真が飾ってあり、 比較して見ることができるが、 その変貌はむごい。 石巻の映像のほとんどがここから撮られたものであるということも判った。 「南無阿弥陀仏」をつぶやきながら丘を下った。 新しく立て直された墓地を通り南浜地区に降り立った。 海面がそのまま陸地になったようなところだ。 瓦礫のほとんど片付けられており、道路だけが地図のように走り、街の大きさが伺える。 ススキと雑草の黄土の荒野にお寺と石巻市立病院が姿をとどめ、なおのこと無惨である。 振り向くと丘の斜面に背中を合わせるように痛々しい姿で形をとどめている門脇小学校も まだそのままである。 壁となり耐えに耐えて日和が丘を守ったようにも見える。 「門小ガッツ僕らは負けない」と校舎に貼り付けられている看板に胸が熱くなる。 小学校の前の通りに家の土台とフローリングが残っており、その上に誰が置いたのか 壊れた子供の 三輪車が置いてある。 宮城ナンバーの軽乗用車がやって来て小学校の前に停まった。 車から降りた若者はしばらく小学校と対峙してから写真を撮って戻っていった。 今度はバスが来た。20人ぐらいの若者がしばらくガイドの説明を聞いたり、 小学校の写真を撮ったりして 引き上げていった。 ボクもきびすを返し墓地を通り丘に上がり、元来た道を戻るのであった。 ●なんのために!いや、一度、現場を見ておきたくてやってきた数日間。ただそれだけ。 心境の変化も何も今はない。 |
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2月26日(火)石巻へ ショベルカーが働く気仙沼港、破壊された商店街を抜け、被害を免れた商店街をさらに歩くこと30分、 気仙沼駅に着く。 そして石巻へ向かう。 気仙沼線が不通で気仙沼線BRS(鉄道バス)にて柳津までで行くことになる。 「2時間はかかりますから」と駅員さん。10時50分発。乗車客はボク一人。貸切だ。 部分的に線路が舗装道路になっており、そこをバスが高速で走っていく。 電車のように踏み切りも降りる。 海岸線を南下して行く。 大小の漁港という漁港が壊滅している。更地なのだ。想像を絶する。 破壊された住居やビルでも残っていなければ、被災地とは気づかないくらい 冬枯れの風景とマッチしていたりする。 「復興?復興??・・」。 報道されていない大小の地域がいくらでもあるようだ。 鉄道線路もずたずたに寸断されてる。無残。無残。南無阿弥陀仏。 終点、気仙沼線の柳津駅で7人の男の乗客がバスを降り、電車を待つが、 易者にも外にも店はなし。それぞれが持参したパンなどを食べる。僕もリュックに忍ばせていた 丸ボーロを小腹に落とした。 やってきた電車に乗り込むと、電車は元来た線路を戻って行く。 冬枯れの広大な田園地帯でさえ被災地に見えてくるから困る。 前谷地で石巻線に乗り換える。 14時10分、石巻到着。 カラフルでポップな駅舎。 駅前は、漁港、被災地とは見えないほどの明るさ、にぎやかさがある。 サイボーグ009や仮面ライダーが迎えてくれる。 石ノ森章太郎さんのキャラを前面に押し出した街のようだ。 早速、商店街の漫画ロードを歩く。商店街の駐車場に”復興支援商店街”があったが、 店の人も客もおらず、無人であった。冬の風よりも人の世はきびしいと見るべきなのか。 商店街を抜け河岸に出る。若いおまわりさんと「こんにちは」を交わし土手に上がると、 中州の橋のたもとに銀色のUFOのような建物が目に入る。 それが石ノ森章太郎漫画館であった。 それ以外は流されたのか?被害状況がちょとつかめにくい。 対岸の堤防も新たに塀が高く作られよく見えないのである。 漫画館はオープンの目どもなく閉館状態。外観よりも内部がやられているのだろう。 中州をさらに海側に歩いていくと、真っ白な自由の女神台座に乗って立っており、 元は公園であったのだろう。自由の女神の下半身右半分が壊れ支柱がむき出しである。 ”猿の惑星”のラストシーンがよぎる。 寒く、腹も空いた。今日はこれくらいにと街に戻り真っ赤々な中華屋の 前後に開く戸をギギーッと押して入店。 マカロニウエスタンでジャンゴがBARに入るシーンだ。 店内は明るくストーブがガンガンたいてあり、おばさん二人でやってる食堂であった。 リュックを下ろし、タバコを一服。タンメンをいただく。ボリュームがある、そしてうまい。 あったまる体もよろこんでいる。 そして、もう一服。 その間、注文の件でヤーさんの嫁さんから嫌がらせの電話があり、そのことを姉妹に見える 70代の 女性が二人が延々と話していたのが、漫才みたいに面白かった。600円はらい、 夜また来ます閉店時間8時を確認して店を出た。(結局、再来しなかったけど) 駅前のデパートの二階が仮説の市役所になっており、その前を通った路地の奥の奥にある アパート形式ビジネスホテル事務所で金を払い、鍵をもらい部屋へ。 やはりアパート。けれど落ち着く。 夜は、市役所のあるデパートでサンマ缶、ビールカップめんなどを買い出し、 文字通りのアパートの夜。昔がなつかしい。 |
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2月25日(月)陸前高田 気仙沼 仙台から新幹線(はやて101)にて一関へ。中尊寺へは行かず、 大船渡線の「スーパードラゴンに乗り換え、気仙沼へ、そして陸前高田に向かう予定。 スーパードラゴン」と言うからにはと期待するが、一両のみの快速ローカル線であった。 終点、気仙沼に着いたものの海は見えない。高地に位置するようだ。 陸前高田行きのバスは1時間後であり、時間が惜しくタクシーに乗る。 これがよかった。 いくつかのトンネルを抜け「ここからが岩手です・・」と運転手さんは語り出す。 いろんな意味でこちらの気持ちを察するような気配りと震災を通しての 気持ちの変化などを散りばめガイドしてくれるのであった。 美しいリアス式海岸の村や町が壊滅している。南無阿弥陀仏。 「ここが高田です・・」と何もない荒野に停まった時には唖然とし言葉もなかった。 美しい湾を前に広大な高田市があったのだろうが、駅舎も病院も図書館、 博物館、市民会館、警察署、幼稚園、小中高学校、ショッピングモール、コンビニ、 飲み屋、レストランもなにもかもが消えている。海面がそのまま陸につながったような平地である。 テレビで見聞きしたのは何なのだろう?「私たちも今はみなさんに見に来て欲しいんです・・」と。 千昌夫さんが建てたというホテルと残す残さないで議論があった市役所が 解体中で残るは廃墟の中学校がと公営マンション。 やがて瓦礫も撤去され更地となるだろう。 「高田の一本松」への道は工事のため「進入禁止」となっている。 しかし運転手さんは進入した。「この間もパトカーに追い出されたんですけどね・・」 と車を走らす。松原の海水浴場も跡形もない。 それでもそばまでは行けなかった。 枯れた一本松を新たに加工して、同じ場所に設置する作業が始まっており、 幹の部分が姿を現していた。 高田の人々のシンボルなのであろうが、現実はいろいろありそう。 タクシーを停めてもらいスケッチをするが、数分と外に立ってはおれない。 冷たい強風がほほを打つ。 もしバスで来て、こんなところで降ろされたんでは、どうなってたかわからない。 訪れる人の姿もない。 「冬ってこともあるでしょうが、訪れる人も減り、近々、瓦礫もすべて片付けられ、 さら地となるでしょう。」 そして「忘れられていくのが心配です」と運転手さん。 気仙沼に戻るが、そのまま被災地をガイドしてもらう。 巨大な船が道路の上にあるなんて、スピルバーグの映画?どころではない。 シュールなディペインズマン。 しかし、被災地の人たちにとっては残したくない風景でもあるのだ。 加工工場地区が全滅しており仕事もなく人々も出て行くらしい。再開したフカヒレ屋さんが サメの尻尾を天日干ししてたが、工場は壊れたまま。 ここはテレビで見たという場所や建物が無残。 高くはついたが、3時間ホント助かった。S木さん 宿から眼下に気仙沼港が見える。5メートルのかさ上げ工事が進行中で、 7台のショベルカーがの作業音のみが港に響いている。 漁船は停泊したままで、連絡船が往来する。港町ブルース。 夜、復興支援屋台村へいく。 屋台の半分は店を閉めており、客のいない居酒屋に入る。 無愛想な男に見えたが、50歳ぐらいのよく喋るマスターであった。 気仙沼ならではのサメの心臓、カジキのハーモニカ、酒は男山と別格。 そこへ地元の男女の客が。 ”佐賀の城下ひな祭り”に来たことがあるという。 4人で震災の話となるが、ボクが言ったところで空論。 先の見えない現実に彼らはどこかで苛立っている。本心までは見えない、わからない。 酔いがまわり、勘定を済ませ、何故か逃げるように店を出たのであった。 海に落ちないように注意して港を歩いて帰った。 |
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2月11日市町村 黒木町上陽 福岡県の最果て上陽町に行く。 イイ天気である。 三連石橋の産直販売所の前のテーブルでおじさんたちが楽しそうに弁当をひろげている。 川下の日陰では焚き火に当たり弁当を食している人もいる。 地区の人たちがなにやら祭りの準備でもしているのだろう。 でも一帯の大豪雨で破壊された堤防やつり橋はまだそのままである。 川底が鮮やかに透けて見え、ウサギ追いし彼の山である。 戻る途中、道筋を替え左へ折れ丘を超えると陽射しを浴び輝 く田園が目に飛び込んできた。 さらに行くと車も通らない山道に入った。とにかく前へ進み、 山を越えたら今度は住居がひろがる町が見えてきた。黒木町である。 見方を変えると大きな町である。 いつもの商店街にでる。シャッター通りではあるが、街灯、 歩道ときれいに整備されている。昔のようににぎやかになる日は来るのだろうか。 それでも人々はそこで生きている。 ”黒木町出身 安部龍太郎 先生 「等伯」直木賞・受賞”の横断幕がちょっと誇らしい。 町 |
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2月6日季節を満喫 大財町 昼前、Y(K)ちゃんが「TPP断固反対」とボディーに入った会社の車で来た。 「昼飯を食いに行こう」ということになり、Yちゃんの会社が経営するレストランへ。 生ビを昼から・・うまい。Yちゃんは仕事中なので呑まない。 いい気分でボクは歩いて帰る。 本道をはずれ裏道に入った。 どこの町とは言わないが、数十年前はよく自転車でよく好んで通った。それ以来か。 狭いエリアではあるが、樹木も多く小川もあり、人家が密集するる。 ほとんどの家が新しくなっているけど、地理的には当時のままのようにイイ雰囲気である。 少ないが老人力でがんばってる家もあり、雀かと思うほどにメジロがいて、 キジバト、モズもいた。雀はいないのである。 旧住宅地を抜けクリークに出ると、ホオジロとジョウビタキにも遭遇。 カワセミも見たいところであったが、いないのかどうか? こんなイイ場所(環境)がこんな身近にあったとは・・。 Yちゃんのおかげ。生ビのおかげ。歩いたおかげ。環境さん、景色さんにおかげさんです。、 |
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1月1日新年 昨年、2012年の正月。田んぼの雪の草原で脱出できなくなった。 車に積んでいたダンボールをタイヤにかませ道を作って脱出。非常にあせった。 昨日、12月31日も田んぼにいた。車を動かそうといたらスリップ。 車を停めた落ち葉の下はぬかるみだった。後輪が空転して雪マークの警告! 枯れ木や丸太を敷いて、なんとか脱出成功。 ところが雪マークとパンクマークが消えない。電子機器の誤作動とはおもうが、 困った。本日警告マークは消え正常にもどった。 そして2013年を迎えた。 が、西暦1年とはどんな時代だったの?と考えると眠れない。 弥生の前日、キリストの生誕日?と昨日のことのように実にさわやかに言うが、 その時代なんて全く知らない。未来なのか過去なのか、その他なのかと。 あっという間の2000年でした。と言ってもさしつかえないのでしょうが、 私わずか数十年しか生きていません。 いくらパソコン、ケイタイがあっても日本は海に囲まれ、 田んぼがあってと2000年前と大して変わりゃしないのでありました。 今年はそこいらで遊べばもつかなとも。 酔いを覚まして夕方、田んぼはこりごりで戸ヶ里の漁港に行った。 すう席の漁船が海から戻って来るだけの静かな漁港。 陸に上げた漁船を修理する漁船屋さんがいた。犬と散歩のいつもの老人。 一瞬、雲がどいてヘビメタ潟に後光が射した。 新しいものを作りたいと、やってはいるが、今年もこれだ。 まずは平穏な自然に感謝。 |
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2012年 | |||
11月26日(月)ゴンドラに乗った植木屋さん 朝から前のお屋敷がにぎやか。 恒例の植木屋さんの庭木の手入れである。 クレーンを伸ばしゴンドラに乗った職人さんがチョキチョキ。 黄色くなったカエデ、赤い実が豊作のモチノ木が日に映える。 |
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10月28日(日)牛島天満宮のお祭り 昼前、通りから雅な笛の音が。 5年に一度の牛島天満宮の行列であった。 大勢の氏子さんたちが幟を持ったり台車を引いている。 昔は牛が台車を引いていたけど・・。 台車の下をくぐり無病息災を祈願。 しかし、行列に集まる町民があまりにも少ない。 子供も出て来ない。そう子供もご近所から消えて久しい。 昔はにぎわったものだが、祭りの盛り上がりもなく、通り過ぎてしまった。 けれど、なつかしい風景をまだ眼前にできてよかったなぁ。 午後、家にいる気分じゃなくなって、山へむかった。 街の街路樹がすっかり秋の装い。田んぼでは稲刈り。 そんな自然の変化にもうとくなったこのごろ。 天気もいいから車も多い。すれ違う車は自分も含め高齢者ばっか。 これでいいのか、どうなってんのか。 嘉瀬川ダムの産直所でソフトクリーム食べて、福岡産のブドウ買って帰った |
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5月26日(金)亀さんの産卵 駐車場に行くと、駐車場鉄骨の根元に大きな亀がいた。 この間逃がした亀かもしれないが、よく見ると、後ろ足で穴を掘ってる。 直ぐ下は水気を含んだ柔らかい土である。 両足で必死に土を掻き上げ、お尻が沈んでいく。 時々後方から覗くボクを亀さんも首を回して覗くが、逃げてる場合ではない。 人間でいえば陣痛が始まった状態なのであろう。 しかし、なんでまた駐車場で?とおもうのであるが、川まで5mの距離。 亀さんたちのレーダーや探査能力は計り知れない。 しかし、路上の走行車には勝てないのである。 梅雨の時期亀さんたちがあちこちへ移動するのも産卵の場所を求めてのことでもあるようだ。 正確には和製の亀ではなくアカミミガメであるが、どこの亀族であろうと人種であろうと同じことである。 用事を済ませもどってくると亀さんの姿はなかった。 土がきれいにかぶせられ整地され、ここに卵の部屋があるなど、だれも気付くことはないだろう。 |
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5月21日(月)金環日食 7時20分ごろ種子島の上空6600mで金環日食を見た。 フィルターを通してだが、機上から見るオレンジのリングはかけがえのないやはり神秘であった。 この日を楽しみに待っていた。 小学生の時運動場でロウソクのすすを付けたガラス片をかざして空を見上げていた。 小型機はゆらっゆっらっと雲を抜け晴天の雲海に出た。 気圧でプロペラのエンジン音も遠のいていく。 Uボートにでも乗っているようなジュラルミン一枚の臨場感である。 機上からでも太陽は見上げなければならない。 首がしんどい。 リングが出来ておよそ3分、長くも短くもある時空間。 これほどに完璧なものを天空間で体感するなどありえない事実だ。 2012 Odysseyとでも言おうか。 船内は特別に感嘆の声が上がる訳でもないが、津々と刻々と脈打つよろこびの顔で満ち溢れていた。 機を降りて、大任をやり終えたよろこびの機長さん、Cアテンダントさんとも握手。 天文学のH先生は「黄金の一日」と、かく語りき。 すべての生命と宇宙にありがとう。 |
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5月24日 モンシロチョウ モンシロチョウが草原で乱舞してる。 一匹のメスを巡って6匹のオスが争っている。 メスはストンと落下したかとおもうと、ヒバリのように天空へ上昇する。 フェイントをかけられてもまだ追いかけるオス。 4匹が脱落し、3匹がもつれ合いながら天空に見えなくなった。 茂みに目を転じると対のモンシロチョウが羽を閉じたままとまっている。 ハート型かトライアングルだ。 賢いカップルだ。下手に動くと若い衆に狙われるはめになる。 カメラに気づいて飛び立った。 メスは羽ばたきもせず、ただぶら下がっているだけ。 それをオスは必死ではばたき、吊り上げ、飛んでいき、若い衆に気づかれず、 無事次の場所に着葉した。 |
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5月24日(火)亀さん おっとアブナイ。 道路の真ん中に亀さん。 漬物石ほどのあアカミミガメ(ミドリガメ)。 手でつかむと、じょーじょーとおしっこをする。 ズボンにかかったが、敵を威嚇する悪臭はゼロ。 川に放したが、この時期彼らの移動が始まったようだ。 カメも恋人や産卵場所を求めて移動すのであろうが、どんなレーダーを備えているのだろう。 それにしても、いつの間にか日本中の池やクリークを席巻してしまった。 最早亀は珍しくもなんともなくなった。 生態系はめっちゃくちゃ。 日本種のクサガメちゃん、イシガメちゃんはどうなったの。 |
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2011年 | |
6月25日(木)生物の棲む水田 早く寝ると朝も早い。 窓外はカーッと明るい。 時計は6時であった。 せっかくだからちょと出かけるか・・。 「ウォーキングしたら」とS子さん。 改めてウォーキングなどはしたくない。 車でコンビニにより早速タバコを買う人種である。 赤信号で待ってると同じくらいの歳の男性が身を整え、 姿勢よろしく腕を振り振り、信号を横切って行く。 益々ウォーキングが遠のいていく。 田んぼへ出た。見渡す限り田植えが終わり、早苗がそよ そよと水田に揺れている。 ある区画の水田に10羽のシラサギが下りて水中昆虫など をついばんでいる。 この水田だけはまだ農薬が撒かれていないのか、元々有機 土なのか、とにかく生物が棲んでいる。動く小さな静物が視 力の落ちたボクにも見える。 水が騒いでいる。 とそこへギンヤンマのカップルが早苗の根元に産卵してまわ っているではないか。”水田”に産卵するギンヤンマを見るの も子供の頃以来のようだ。 正しく少年の頃は麦畑そして水田にギンヤンマやそのカップル を追ったものだ。その度にお百姓さんから叱られた。 水田上でギンヤンマを見ることはなくなっていただけに、こんな 田んぼが増えるなり、農薬をもっと薄めにするとかできないものかね。 ”カエル、魚類、昆虫の棲む佐賀の田んぼ”ってネ! ギンヤンマにも棲める田んぼと棲めない田んぼが判るのだろう。 もうギンヤンマを見ると子供の頃同様に興奮するが、ここは冷静に、 補虫網があっても、捕ってはいけない。子孫のヤゴを増やさなくては・・。 ならば、カメラで撮ればイイのだが望遠カメラ持って来なかった。 ケイタイでサギだけパチリ。三文以上のことはあった。 |
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6月23日 (木) 入道雲 朝の光がいつもと違う。 梅雨が明けたかと思う真夏の陽射しである。 空には入道雲が・・。 遠い子供のころの入道雲でもある。 そこで久し振りに川副の漁港に行ってみた。 満潮の河口が海のように波打っている。 海鳥でもないツバメが飛ぶ。 漁船もほとんどが陸に上がっている。 大型のリフトがやって来て、岸壁から海際まで下りていく。 そこへ今度は漁船が近づいて来る。 黄色のリフトが白い漁船を二本のアームで軽々と抱して陸へと運んでいく。 ♪負われてみたのはいつの日か・・。 入道雲が空より大きい。 |
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3月21日(月)おめぐりさん 彼岸の中日ということで、今日はお巡りさんが見える。 家人もいなく止めにしようかともおもったが、連絡もつかず、 いつものように玄関に簡単な祭壇を用意して、お巡りさんの到着を待った。 午後、雨の中「同行二人」を背に遍路姿の15名が車4台でお見えであった。 般若心経、御詠歌が神妙に通りに流れること数分。 お接待の菓子を配ばると、お巡りさんたちは、車に乗り込んで次へと 向かわれた。ぱかーっと空が抜けたように何事もなく終わった。 子供の頃から何十回と見てきた風景だが、自分一人でやる日が来る とは思いもよらなかった。 |
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3月20日 (日)古寺探訪 昨日Mさんが墓参りにいったと言ってた。 彼岸である。 普段は家人任せであるが、S子さんと二つのお墓を参った。 雨のお寺も墓地もしずかなもので誰もいない。 すでに他家の墓にはお花がお供えしてある。 直下の状況が状況なだけに、墓地の景色にも言葉が浮かばない。 全く別の次元の中にいるような孤地である。 墓石の前でS子さんはぽつりと言った。 「あなたもここにはいるの?」 虚空の空の上から下りてきたようなお訊ねである。 「・・・・・」 お葬式もいらない。 お墓にも入りたくない、というのが普段からのS子さんの心情である。 お寺の西側に今は使われていない朽ちた映画「羅生門」のような 山門があるので見に行く。 屋根はもうきれいになくなっており、頑丈な柱だけがむき出しになっている。 この時期に崩壊の美などと言ってはいけないが、津々とこみ上げる ような何かに高揚する。 奥さんを亡くされた和尚さんが本堂を箒ではいておられた。 和尚さんと決まったような挨拶をしてお寺を出る。 「そうそう、フライパンを買わなきゃ・・」とS子さん。 |
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3月11日 (金)東日本大震災 11日午後、2時46分ごろ、地震を知らせる緊急放送に NHKのテレビが変わった。なんとなく見ているうちに事態は 想像を絶する酷い映像へと展開した。 津波により三陸の街町、風景が一瞬にして消えて行く。 人も家も車も船も呑みこまれ、風景は未曾有の地獄の惨状と化した。 人間の想像力をはるかに超え言葉もない。 三陸沖を震源とするマグニチュード(M)9.0の地震だった。 連絡がとれたところは無事だったが、 仙台に住む身内とは以前連絡付かず。 |
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2月24日 木)ひょうたん公園 景色はまだ冬だが、 ぽかぽかとイイ天気である。 ヒバリが彼女を求めて空で鳴いている。 麦も大分伸びてきた。 麦踏が終われば巣作りに入るのだろう。 町ではほとんど見なくなった雀も、ここでは群れてる。 雀のお宿か学校である。 じゃれ合う仲良しな小鳥である。 クリークも空を映し、春の訪れにスタンバイ。 |
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2月22日 (火)カモメ K子さんを某所へ送り、漁港をうろうろ。 諸富の漁港はぽかぽか春。 暑い。 岸壁にずらり、黒いビニール袋が100メートルに並んでいる。 中にはの海苔網が入っているはず(。酸処理中なのか?) 茶色の汁が漏れ臭く、ハエがわいている。ビニール袋の上では カモメたちがそのハエをついばみ、地面ではセグロセキレイ たちもハエを食っている。 舟留めの支柱のてっぺんではカモメが日向ぼっこ。 近づいても逃げない人慣れしたものである。 こちらもついうとうと・・。 カモメで思い出すのはヒッチコックの「トパーズ」。 カモメがマイクロフィルムか?何かが仕込まれたパンを運んで来るシーンにゾクゾク・・。 |
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2月18日 (金)火葬場の煙 まだ川副の漁港は冬のような景色だが、風は春めいている。 岸壁の火葬場から白煙がたゆたう。 人が煙になって昇っていく。 小津安二郎の「小早川家の秋」にあった。 ラスト・・、火葬場の見える川で洗濯する麦わら帽子の 農夫(笠智衆)は、傍らの妻と言葉少なに語る。 「ああ〜。(煙が)出とるなぁ。」 「けど、死んでも、死んでも、後から後から、せんぐり、 せんぐり(順々に)生まれてくるわ…」。 |
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2月10日 (木)葦原 弁当買って、芦刈の漁港にいく。 コンクリート護岸の両岸には葦原がつらなり、 今正に枯れ葦色の枯野である。 ムツゴロウの養殖地にもまだ動く生物は見当たらない。 沖へ出る漁船の波がときおり岸辺へ押し寄せる。 摘んだ海苔をトラックのタンクにホースで注いでいる。 葦原の一角では危険物などを焼いている人がいて、いやな臭いが流れて来る。 曇天の空の下で繰り広げられている漁船と人の仕事の風景。 日本海のどこかにいるような鉛色の風景。 教室を飛び出して、ここから野望をふくらませる彼奴はいないのか。 |
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2010年12月20日 (月) アオサギ夜、満月を背に集合場所へと自転車で行く。 神社の小川にさしかかったところ、川の中央で何かが激しく暴れている。 街の灯りを頼りに目を凝らすと、アオサギである。 交尾をしようとしているのか・・、判らない。 二羽は羽を広げ、奇妙な声を発して、プロレスのようにもみ合う。 相手の羽の関節を噛み、はがい締めのように頭を水中に抑え込んでいる。 いじめである。いや鳥殺だ。 ボクは大きな声を出すが、逃げようともしない。鳥目なのか。それどころでないのか・・。 そういえば、かつてカチガラスがもつれ、争っていた。周りが見えないのである。一羽は羽がぼろぼろにひん死の重傷で逃げてはいたが・・。 いじめなのか、発情なのか、恋なのか。 長い首が蛇のようにくねる。 声に気付いたのか、アオサギはボクの方を見る。まるでシマ蛇の目だ。 まだ押さえつけている。 これ以上は耐えられない。悪夢である。 ハラテツさんが亡くなられて10年。 焼き鳥屋のカウンターに座り、偲ぶ男四人はぴんぴん。 だいこん、こんにゃく、すじ、タン、レバ、皮、バラなどをビール、日本酒、焼酎で胃袋へ流し込む。 見ればカウンターはぎっしり、どう譲り合っても余地はない。 |
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12月18日(土)He Ain`t Heavy, He`s my brothe 昨日の夜「ランボー怒りのアフガン」を見ていた。 ラスト・・、クレジットと同調して 「He Ain`t Heavy, He`s my brother」が流れる。 ド迫力な野太い声、ジョー・コッカーかとも思うがちがう。 YOU Tubedede 調べたらあった。Bill Medley・という1940年生れの歌手。 ホリーズでヒットしたのだが、ホリーズより人間くさく聴きほれる。 「レオン」のラストにはスティングのShape of My Heart(ボクの心はどんな形にもあてはまらない)が流れる。 冒頭のみに曲が流れ、後は一切音楽なしだったのが、「狼たちの午後」。 ニューヨークの港、労働者たちが映し出されエルトンジョンのAmoreena が流れ、ゾクゾクっとする。 当時ニューヨークで買ったエルトンのアルバムにAmoreena は入っている。 レコード盤が擦り切れるくらい聴いて、歌ったな。 スティングのShape of My HeartDVDを買った。 車で聴いてる。 最も思い出深いのがホリーズのHe Ain`t Heavy, He`s my brotherである。 ストックホルムのカジノ、ディスコで働いていた時の閉店の縁でキング曲が 「兄貴はわずらわしくない、兄弟なんだから・He Ain`t Heavy, He`s my brother」であった。He Ain`t Heavy, He`s my brother ジョッキーのマイケルが毎夜鳴らすHe Ain`t Heavy, He`s my brotherは心にしみた。 そしてミュージックショップでドーナツ盤を買って何回も何回聴いてた。 冬のストックホルムを歌うような曲だけに、スウェーデンの音楽とさえ思っていた。 しかし、ビルメドレーの歌い方はすご味がありアグレッシブである。 エンディングだはなく今日のオープニングにしよう。 Live in moment. |
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11月6日(土)小倉の点と線 娘に誘われて博多から新幹線で一駅、小倉へ行く。 小倉からモノレールで二駅、旦過(たんか)で降りる。 今人気の旦過市場を歩く。 昔ながらの魚、野菜、肉、食堂、雑貨などの小さな店がぎっしりと軒を連ねるマーケットである。人でにぎわい活気がある。 市場を抜けアーケードの商店街へと。 シャッターの下りた店など一軒もない。さらに商店街を歩きアーケードを抜けると川の向こうに小倉城の天守閣が見えてくる。 橋のたもとの「水環境館」の看板があり、入ってみる。 地下にある紫川に生息する魚類、階、小動物の水族館である。 一時期汚染された川は、市民の努力で現在のきれいな川にもどったようだ。 親子が水槽に顔をくっつけてドジョウ、ザリガニ、ドンコなどを覗きこんでる。 大きな海の水族館とは一味も二味も違う景色だ。 淡水魚には子供にも大人もわくわくさせる親しみがある。 水族館は地下の川の中にあり、川をそのまま水槽にしてあったり、すごい。 松本清張記念館と黒田征太郎さん 紫川を渡り小倉城にの庭園へ行く。 小倉城の隣に松本清張記念館がある。 清張さんの本も沢山読ましてもらっただけに、入館する前からわくわくする。 膨大な原稿、資料である。肉筆の生原稿用紙だが、時代にそった緊迫感が、 ゆるやかにやさしく昭和を照らし出しているようで、じんと来る。 吹き抜けの記念館は清張さんの東京のご自宅の書庫、書斎、応接室ががすっぽり おさめられている。すごい発想である。それでも捉えきれない昭和の巨人だ。 ファンならずともこの空間に浸ることは幸せだろう。 一日ぐらいではとても見きれない。氏のすべての研究がなされるのもいつの日だろうと思う。 小倉は清張さんでもつ、と言いたくなる。 不動なる清張さんの存在は小倉城をもしのぐようだ。 記念館には昨年行われた、トランペットの近藤等則と黒田征太郎さんのコラボによる映像とライブペインティングも展示されており、 異なる角度から清張さんに切り込み黒田征太郎さんの作品群はどろどろと自由である。 さんに敬意を表す。 じゃじゃ馬馴らし 小倉城堀割の前に近代的再開発ビルがある。新旧が不思議とコラボしている。 その違和感の無さは、人々の流れ、集客群を見れば判る。 川、堀割の景色が自然に人々に溶け込んでいるようである。 そのビルの地下のラーメン通りで「塩ラーメン」食ってから、6階の北九州劇場へいく。 小倉へ来たのは、シェイクスピア喜劇の『じゃじゃ馬馴らし』を見るためであった。 蜷川幸雄演出による、すべての役を男性俳優が演じるオールメール・シリーズ。 キャストが、歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』で麻阿役を演じ、新たな女形像として観客を笑いの渦に巻き込んだ市川亀治郎さん。 これが初めての蜷川演出となる筧利夫さんら多数の個性的俳優さん。 舞台は中世イタリア。速射砲的に長い長い台詞が飛び交う。 筧さんは最初から最後まで3時間、はじけっぱなし。天才・亀治郎さんは比類なき様々なしぐさ、発声法で観客を魅了する。 ラストのカーテンコールがユニーク。歌舞伎調、現代調、そのいずれでもなしと5回も・・。 終わりよければすべてよしというか、さすがである。 車窓 外へ出ると、紫川、小倉城周辺はイルミネーションが浮かび上がっている。 木にまきつけたのはない。木にもやさしくである。 にぎわうアーケード、ネオン看板の歓楽街を通って小倉駅まで歩く。 点が線に、線から面へと拡がる町。見事な再生成である。 我が町はそのすべてをなくすのか、野放図のやりっぱなし。 核を持たない人材を持たない。 車窓の暗闇は底なし。己が映る顔の急所に人家の灯り点々。 |
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10月4日(月)玉の井 上野から東武線で駅三つの東向島に行く。 東向島と言うより、かつての玉の井駅の方が判りやすい。 東京にいたとしてもこちら方面に来ることはまずないだろう。 観光スポットにも入っていない。 駅を降りていろは通り(玉の井通り)を歩く。 スーパーパーケット(寄席玉の井館跡)の奥に身延山の寺、啓運閤があり、 ここを書いた永井荷風の「寺じま記」の一節が 看板に表示してある。 また歩く。佐賀の街か、神埼か小城といったぐらいの人がほとんどいな 住居だけが密集した下町である。 「抜けられません」の玉の井の面影など最早なにもないけれど雰囲気は 好きだな。 狭い路地が狭い一帯にいるくんでいおり、よくもこんなところに棲んでいるな なと思うくらいの落差・タイムスリップではあるが、 永井荷風さん、滝田ゆうさんの風景ははるかかなただ。 買い物に往来する自転車のご婦人たちはビュンビュン飛ばしてる。 信号機もなく、車もほとんど通らないからだろう。 それが、どこかなつかしい。 東京と言えども新宿、渋谷ではない。現在、過去、未来が共存と言えば 発展的だが、それでもなく人々は大都会のすぐ傍らでその環境を主眼に 生活していらっしゃること、まちがいない。 浅草六区の繁華街にある定食屋やさんの御夫婦も、浅草に染まることなく 昔ながらの店構えで質素にきちんとした「生姜焼き定食」を出してくれた。 浅草はそん観光地かも・・。「明日から長野の温泉に二泊三日でいきますので、 お休みします」と常連でもないボクらにおっしゃる。 玉ノ井を歩いて東向島駅に戻り、続いて電車高架を横断し、 さらに下町を延々と歩くと、小さなラジオ体操公園に幸田露伴さんの 石碑があった。そ露伴がここに16年間住んでいたらしい。 公園のベンチに座ると前のビルの内部から人の声と物を作っているような 機械音がする。意外と衛星などの部品を作っているのではないかと・・。 その隣は開けっ放しの小さな豆腐屋で人もなく売り切れのようだ。 表に置いてある運搬用自転車と販売用の改造リヤカーが昭和30年代である。 白衣を着た人たちが足早に行く先は行列の一坪ぐらいの弁当屋さんで 飛ぶように売れてる。白衣の人たちも病院の人出は無く「分析所」の 人たちであった。 そこから通りを折れると吉行淳之介さんの「原色の街」の舞台となった 鳩の街。路地には植物茂り呑み屋さんがぱらぱらとある。 不思議な通りではあるが、街でもなく、当時はそれこそ知らない。 けれど、どこかなつかしい下町に疲れを忘れる。 一つ手前の駅・ひきふねに着く筈が道を間違えたらしくどんどん スカイツリ―に近づいて行くのでおかしいと、近所のおじさんに尋ねたら、 業平橋はすぐそこだが、浅草だったら墨田公園に出てぶらぶら歩いても 30分と薦めるのであったが、業平橋から電車に乗った。駅二つを遠回りに 歩いていたのである。 業平橋ホームから目の前に見えるスカイツリーの工事現場は急ピッチに 作業員とクレーンが動いている。「現在410メートル」。 |
2009年 | ||
10月20日 (火) ショベルカー 子供や孫が農作業を手伝ってるという風景も遠い昔。 高齢のご夫婦がコンバインを動かし稲刈りしてた。 コンバインのお尻から刈り取った藁だけがたばねられ、ぽとんぽとんと落ちてくる。その藁を奥さんが円錐状に組んでいる。 収穫した籾はパイプを伸ばし、農道の軽トラックへ移される。 新米を早く食べたいネ。 河口では潮の引いた川でショベルカーが川底に溜まった泥を浚渫してた。 潮が引いた時にしかできない作業であるだけに、長期に渡っている。 川底によくも埋もれたり沈んだりしないものだ。 操縦してるのは男性だろうが、中が見えない。 向こうからは、こちらを見ているかも知れない。 「激突」のトラックをおもいだし、夕暮れの干上がった河川はにわかに緊張感をおびる。 操縦者はタバコでもふかしているかも知れないが、ショベルカーは黙々と働く。メカ恐竜のようだ。 ボクらの他には誰もいない。ディーゼル音が河川に響く。 いつまで作業をやるのだろうか、もう暗くなった。 ショベルカー・一人を川底に残し、ライトを灯し現場を後にした。 農道から本道にでれば、すでに町にも車にも明かりが・・。 |
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10月19日 (月)カニ穴 県庁での某会議が終わり、潟へと向かった。 天気もイイ。いつもの弁当買ってえ、漁港でいただく。 漁師さんたちのトラックがずらりと停まっている。 漁船の多くは出払っている。 今から出て行く船もある。 白波をたて、引き潮の河口を海へと急ぐ。 その波が露わになった干潟に打ち寄せる。 なんと無邪気な波頭であろうか・・。 海鳥に代わって鳩が来る。 そこへカラスも。一匹のユリカモメ飛来するも直ぐに姿を消した。 干潟には5センチ間隔の無限のピンホール、プツプツ。 カニの巣だ。多分シオマネキだろうが、このうちどれだけが生き延びるのやら・・。それにしてもすごいものだ。 船舶工場のトラックが来て、陸に上がった漁船の船尾を修理している。 そして、スクリューが取り付けられた。 今、田んぼでは稲刈り、海では海苔の種付けと・・収穫とその準備で忙しそう。活気ある田園と海の風景に我泣きぬれずカニと戯れ。 ※頂いた旬の柿を描いたので・・。 |
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8月24日(月)葦原 磁場展は休館日。 本庄江の河口にいく。 戦車のようなショベルカーが河川工事をしている。 海と川の境界だけにライフラインとして浚渫も、より強固な護岸も必要だろう。 ただここは両岸に葦が群生する美しい昔ながらの風景がある。 ここをスケッチする人も少なくない。 まさか葦原が無くなる、ということはないだろうね。 |
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6月18日 (木)田園情報 神埼の公園へ行く。 真夏日に汗ビッショビショ。 カタカタカタとコウノトリの声の方を見れば、アオサギだった。 高い楠のてっぺんに大きな巣を構えている。 コウノトリと似たような巣作りだ。 カメラの望遠レンズで覗くも、まだ遠い。 2羽のアオサギが巣の上に立っている。 巣のすぐ上の枝にハシブトガラスがいて、ポトポトポトと変な鳴き声を発する。ハシブトはたまたまここにやってきて、休憩してるだけ、といった風な 素知らぬ様子。 アオサギの雛をねらっているのだろう。 悪賢いカラスである。いやいや、そんな人間はいくらでもいるな。 対のアオサギがいたんでは、ハシブトも手が出せまい。 例年なら公園のクリークは菱で覆われているのだが、菱は育っていない。 ホテイアオイが多い。クリークの縁に刈り上げられて枯れてしまった大量のホテイがあるけど、尚増殖し、薄紫の可憐な花を咲かしている。 「今が見ごろ」なんて言ったらしかられるかもね・・。 この場所でクウズ(クサガメ)を見ることはないが、漬物石代の外来種アカクビガメはうようよいる。みなさん倒木や設置されてる浮板で甲羅干しの最中でざんす。 だが、蓮はぎっしりと茂り顕在でありました。カメが蓮の芽を食べ全滅させるの説は危うくなった。 佐賀新聞・有明抄に「海苔だけがとれて豊かな海とはいえない」(章)と有明海についてのコラムを締めくくってあったのと同様、「米麦だけがとれてきれいなクリークとは言えない」ということのようだ。 トンボの種類も数も近年にしては少ない。ボクが大好きなギンヤンマも少ない。クリークからも田植え前の水張(みはり)田からもカエルの声さえ聞こえてこない。 多くの原因は人間様の仕業だとおもわれる。 そうそう今日はギンヤンマの産卵場面を撮りにきたのだった。 ギンヤンマのカップルはいるのだが、近くに来てくれなくて、このカメラのレンズでは無理であった。 麦ワラ帽と作業着で全身を覆った管理人のおばさんが、鍵棒でホテイアオイを引き上げている。 あばさんの後ろを黙って通り過ぎ、太鼓橋を渡って対岸に回った。 そこで、あばさんはサングラスにカメラ、ビデオを肩と手に下げ三脚を持った見るからにアマチュア写真屋に気付き会釈をするのだった。「ようこそ・・」と言う感じで・・。 汗と泥にまみれたランニングシャツと破れズックの少年は顔を引きつらせ顔を伏せた・・。前方に人影を見たなら避けて通りたい内気な少年が、トリモチ竿をカメラに持ち変えてギンヤンマを追っている。 じりじりとあの日と同じ太陽がムルソーを不安にする。 路を塞いで土木作業のトラックが運転席のドアを開けたまま停まっている。 そばの草地でおっちゃんが陸に上がった3匹のアヒルにパン屑をうれしそうに投げ与えていたのであった。 遠い日にカエルでもスズメでもゴム銃で狙ったであろうおっちゃんの秘かなたのしみ、癒しの時間でもであったのだろう。 カメラ小僧の気配におっちゃんは空になったパンの袋をもって、素早くトラックに乗り込み去って行った。そのトラックの方に向かってアヒルはガーガー・・。 |
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2009年5月12日 (火)麦わらストロー ホームセンターの表にはダーッとガーデニングの花や野菜が並べられ、花壇や畑のようだ。 その上をギンヤンマがスーイ、スーイ・・。 田んぼは麦秋。もうヒバリも巣立ったろう。 直ぐに麦刈もはじまる。 麦わらのストロー作って、ひともうけとおもったのだが、すでに「無印」で販売してるとか・・。 ストロー=麦わら。子供のころ麦わらストローで氷水飲んでたな。 ストローにベリーがついてイチゴ・・? ストロベリー・フィールズ・フォーエバーはジョン・レノンだが、リバプールにあった孤児院の名前だとか。 まずはマイストローを作って、グラスに・・。 |
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月17日自然の力 気分よく田んぼへいった。水路の枯れ葦がもう新しい葦に覆い隠され、水面にもにも新緑の水草がひろがっている。この景色はまさしく初夏。おじさんが水草の脇に釣り糸を落としている。フナやコイが跳ねる恋の季節。ヒバリさえずり巣作りか。水草の間をくちばしの紅いバンがお散歩。アカミミカメ(ミドリカメ)がうき草の上で甲羅干し。糸トンボもいれば小魚も。生命が宿りクリークの水も澄み、若草映える。とおもっていたら、スイーッと目の前を・・、まぎれもないギンヤンマのオスだ。早くも4月17日に確認。もう夏なのだ。血沸き肉躍り毎日のように魚網もって田んぼへ出掛けた少年の日。初夏の誘惑。じっとしておれずに、恋も知らず初夏に恋してたのか。しかし、今、今日も目の前の麦畑では、収穫を前に、人力でトラクターでリモコンヘリコプターで除草剤が散布されてる。 |
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2009年4月14日 (火)原基 雨上がりの佐賀平野。 ビュンビュン、ゴーゴー、風が吹く。 土手の新緑が南になびき、車体も揺れる。 低い空に360度、白雲、黒雲が表情豊かでファンタスティック。 どこかで見たような・・と、ハワイの雨上がりであった。 遠景の山々はくっきり、近くの天山も上部は雲に隠れているが、下部の山肌はくっきり。 綿菓子ではなくビニール袋を膨らましたような天山の雲。 山や平野の部分部分に雲間から光がさして、山は緑に、町は白亜にビルが輝く。 絵にも写真にもとらえ切れるものではない。 実写ではなく感覚なのだが・・。 ここに人も動物も生きてる。 あらゆる表現の元気・原基。 人種、国境を越えて草木となる。 ピカソ、クリストの原基でもある。 |
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2009年4月13日 (月)漁港にクレーンが 漁港の風景が変わった。にょきにょきと巨大クレーンが空に向かって生えてる。雲の中まで伸びたらジャックと豆の木だな。 漁港はどこも引き揚げた海苔樋を片づけるのに大忙しである。 漁船が積んできた山ほどの海苔樋をクレーンで吊り上げ、トラックに下ろしている。 トラックはそれぞれの保管場所に行き、ここは人力でトラックから海苔樋を下ろすのである。 忙しそうなので遠慮して退散。 |
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2009年4月12日 (日)阿蘇路 菊池渓谷を抜けると、目の前にダイナミックな阿蘇外輪山がスペクタクルだ。 平野部の俯瞰に空を飛んでいるような感覚。 風を切るように走るバイクも多い。 大観峰の頂上から五岳が寝そべったお釈迦さまだとか。 山々は野焼きの後で、まだ草もないが、わずかに黄色い小さな花がさいてた。 彼方の山肌からもうもうと煙があがっていたが、それはニュースで山火事と判明。 車と同じくらいさまざまな大型バイクが停まっている。 「どうだっ、オレのバイクは・・」といったところ。 まるでバイクの品評会である。 団塊世代のおっさんのライダーもいれば、その夫婦もいる。 それぞれマナーはイイようだ。 崖っぷちではドラムスをたたき鳴らす少年がいた。 天才少年というのだろうか。阿蘇の峰峰に軽快なドラムスが響き渡る。 帰路は小国から中津江村、矢部、黒木ルート。 中津江の空地に「お茶でも飲んでいかんね」の看板。 その産直売所の「ばあちゃんたちの店」に寄ると、おばあさん4人が立ち上がり一歩前にでてにこにこと出迎えてくれた。 照れるなぁ。 お茶と5種類の漬物をいただく。タケノコは売り切れでフキを購入。 早速家でいただくが、今ならではのお味にありがとう。 |
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2009年4月9日 (木)土手のスカンポ クリニックを終え、山の手へ向かった。 土手の若草萌え、楠は黄紅、春霞のやま蒼く、遅れ桜がまだまだ満開。 午後の日差しは熱い。もう早くも初夏の暑さ。 車のクラーを入れる。 スーパーで弁当買って、引き返し川のきらめきを見ながら・・。 土手沿いに下ったら、ボートを浮かべてる人もいた。 ラジコン飛行機を飛ばしてる大人たちもいた。 淡水と海水が混ざる汽水域まで来ると、川岸に釣り人の青白の傘が点々と開いている。 ヘラブナかボラを釣っているんだろうが、誰の竿にもかからない。 単なる流行なのだろうか。 しかし、のんびりと糸を垂れる風景はイイ景色である。 竹竿で釣ってたころがなつかしいよ。 くさむらの足もとに絡みつくものがある。よく見るとグリーンの釣り糸である。 足をばたつかせると益々絡みついた。危ないアブナイ。これなら人間でも倒れかねない。手に巻きとってみたところ30メートルはあった。 おろかなるは人間か。 |
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2008年 | ||
2008年12月1日 (月)菜の花が 田んぼにいたら、暑くてシャツ一枚になった。 ラジオでは「風が冷たいので暖かくしてお出かけください」と現状の情報と かけ離れている。 農夫婦が麦の準備だろう?田んぼを農薬積んだトラクターで消毒している・・。 昼の弁当をと近くのショッピングタウンに寄るが、レジに長蛇の列であきらめる。何でもポイントが5になるとか、すごい人出である。 スーパー同士のイタチごっこのイタチを演じさせれれているのも庶民。 うどん屋もラーメン屋もちゃんぽん屋も素通りして、とうとう犬井道まできてしまい、HMOのシャケ弁にありつく。 犬井道の田んぼには例年どおりすでに黄色い菜の花が咲いてる。 漁港の河口が青い。ウルトラマリンに白い船だ。 夕暮れ迫り、西陽の漁港もだんだん冷えてくる。 水平線に普段は見えぬ長崎の山が霞んで見える。 |
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10月31日(金)函館 札幌から函館まで電車で3時間。 北欧の風景からいつしか電車は太平洋側に出た。左手に何もない広い海。右手に紅葉の山とサラブレッドの牧場。勉学不信や人間不信になった若者なら一度は来てみたいとおもいそうな懐の深さだ。長万部で名物の蟹弁当を買う。量は足りなかったが、評判通りに美味だ。 3時間は長いようでも短かかった。終着駅函館である。駅を出ると探すまでもなく目の前にホテルは見つかった。ホテルの窓から近代的な駅舎と函館港が見えるが、まるでプラモデルキットで組み立てたような要塞の町。 40年前の暗い函館とはすっかり変わって近代的な町になってる。それは当然のこと。♪はるばる来たぜ函館ーなんて歌が流行ってた頃だし・・、今更ながらに時の流れは驚きよりもくやしい限り。歓楽街の大門はさびれ、今じゃ五稜郭の本町が人気だとか。大門横丁の炉端焼き屋に入る。真たい(タラの白子)やイカのイカミソ煮で酒が進クンであった。そしてここでも「申し訳ありませんが時間ですので・・」と来た。外に出たとたん店の明かりが消えた。雨は止んでたが、函館の夜は寒い。函館駅でTさんらと別れる。駅舎のベンチには青森から来る札幌行きの夜行列車を待つ人たち20人程が寝て待っているのだった。そう言えば「道内に早期新幹線実現を!」の看板を町で見かけた。本州を「内地」とつい口走る人もいらっしゃる。鉄路も空路もあるけれど津軽海峡のきびしさは、”〜我泣きぬれて蟹と戯れ”なのか・・。 |
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10月25日(土)よそわし もう寒風が・・。ミカンの葉にアオムシ一匹。ほかの3匹は何処かへいってサナギになただろう。食べかけの新葉の上で、触ってもじっとしている。最後の新葉も硬くまずいのだろう。エネルギーの消耗を抑えているのだろう。太陽が出て暖かくなるのをこうやって待つのか。このまま暖かくならなきゃ、葉のある枝へ移動もできまい。ところが、東与賀の河原では、モンシロチョウが群れてた。 100匹ぐらいが草原を乱舞。異様な光景である。通りかかった麦わら帽に野良着のおばさん・3人。「ほら、見てんしゃい、あがんもチョウチョの飛びよっ」「ほんなこて、よそわしかねぇ・・」「なしじゃろかね、今頃・・、よそわし・・」気色悪い、異様、不気味、驚異とも微妙に違う「よそわしっ」がひさしぶりに聞く佐賀弁であると同時にこの情景を見事に表現している。 |
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10月2日(火)大豆の黄金 弁当屋に新しく鮭弁スペシャルというのがあったので買ってみた。土建会社の今は使われていない空地から太陽を背に麦畑を臨む。ここはかつての干拓地。減反政策でこの地域は見渡す限り大豆の黄金の海。スペシャルというだけにおかずも多くおいしかった。最後に梅干しのタネをプーッと吹き。さて「大豆畑さん描かしてもらいますよ」。描いていてまたしても眠くなる。手だけは大豆畑をなでているけど、もう夢の中。ゴゴグーグワーァァァ、大型のトラックがボクの車を田んぼへ押し落とそうとするところでびっくりこいて目を覚ます。15分の夢だった。空地の裏でトラックが何かの資材を下ろしていたのであった。車も通らなけりゃ、人などいないと思っていたのに・・。真昼の戦慄。スティーブン・キングの世界だ。この大豆県民の口に入るのだろうか。あやしい海外物や県外物はもうイイから、地産地消、これで豆腐、納豆、黒豆を作ってくれないかな。 |
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9月9日(火)風のうつせみ ガラス戸を開けたら、秋風にレースのカーテンがなびいて、家の一番奥のドアがバタンと閉まった。眼にはさやかに見えねども・・。ミカンのアオムシも数が減った。大きくなったのは何処かへ隠れサナギになったのだろう。もう越冬するしかない。籠のオオカマキリは数日、何も食べてない。籠の天井に張り付いたままじっと獲物を待っている。もう直に虫たちの夏も終わる。後手後手になってた定婆ちゃん家の屋根に上がって、瓦の修理。上手くいったかは、台風が来てみないとわからない。屋根のてっぺんに股がるも天下太平の世には見えず。セミの抜け殻だけが木の葉にしがみつく。リンゴ園から嫁いだ若奥さんが、実家から貰ってきたと、おすそ分け。もう大分リンゴ園には行ってない。リンゴの絵も描いてない。ないないづくしの屋根ん上。夜、キム・ギドクの「うつせみ」を見ていた。ワルイ男とさびしい女。非現実と現実。寺は心の拠りどころか。抜けガラに内包する現実。抜けガラは幽霊でもない風のような気配をもった形なのだ。「この世が夢か現実かは誰にもわからない。(キム・ギドク)」。夢かうつつか幻か・・秋だねぇ・・ |
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9月8日(月)ガキの魂 コーロギも鳴いていないけど、しんーんとして冷やりと、秋の夜長。暑い夏に疲れたからだろう。家にいてゆったりとした気持ちになれるのはこの時期。温泉宿にでも居るような。情緒なんてものじゃないけど、子供のころは一年中そうだった。学校行ってご飯食べて寝て、疲れては我に返り、の連続線上。大人への甘酸っぱいスリリングな関門峡。狭き門より出でよか。深夜外へ出てみた。月は見えず、無数に星が出ている。澄んだ空気に五感が生き返る。別の一角ではたくさんコーロギが鳴いてた。これでイイのだ。都会の溝の下でもジャンクボックスの下でも鳴いていよう。鳴かぬゴキブリ増殖中。 |
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9月1日(月)橋の下 今日は幕の内弁当もって大宅間へ。ものすごい暑さだ。6月の日差しである。夏がぶり返した。これはいかんぞ、日陰に入らなければ。昼前だったので大橋の下は一台の車もいない。橋が作る影と川面の風はありがたい。満々としていた河がうねり押し上げたゴミといっしょに引き始める。河向こうに緑色の浚渫船が停泊している。それがあるだけでいつもの風景と違ってくる。振り向くと漁港に2台の電気工事のトラックがエンジンを鳴らしたまま停まっている。場所を取られたので遠慮したようだ。左官の車がボクの隣に停まった。2人の若い左官は、コンビニで買った弁当とマンガ本を下げて橋下駄の土手を上り日陰にになった土手の上で弁当を広げていた。川面の橋下駄の上にアオサギも休んでいる。時折小型の漁船が白波をたてて通り過ぎる。日陰以外は焼けつく世界だ。今年、小生は何歳になったんだ。 |
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5月18日(日)高千穂・八百万の神々 朝、8時30分、帰ってきたN子を駅でピックアップして高千穂へ向かう。八女ICから益城ICで降り高森まで、途中ドライブインに寄るも観光バスが到着する度に女子トイレは行列となる。ちゃっかりと男子トイレに潜りこむおばちゃんもいた。高森から上がって阿蘇に出て牧内というのが今までのルートであるが、今回は高森から右に折れ宮崎に入るのである。高千穂まで40キロ、意外に近い??。 12時半ごろ高千穂峡に着く。食堂で昼食をとるが、観光地とはおもえない安い値段におどろく。食堂から高千穂峡に下りて山あり谷ありの遊歩道をふーふー言いながら歩く。景色のイイのがかろうじて救いである。ボート小屋には長蛇の列。受付で住所氏名を記載して船賃¥1500を払い、30分待ちでボートに乗り峡谷を散策。瀧が落ちる峡谷に手漕ぎボートが群れる。岩と石との地質学的な風景には神々の800万年の記憶があるのだろうが、ただスペクタクル、ダイナミックな風景に目を見張るだけ。八百万の神々の”へそ”かもね。再び遊歩道を歩いて何度も休憩して駐車場にもどる。車で15分ぐらい。天の岩戸にもいくが、「もう歩くのはいや」と一人残り天の岩戸神社の鳥居をスケッチ。もどってきた家人らが「石積みのある薄暗い洞窟が高千穂峡よりすばらしかった」と言うものの・・ああ・・。熊本ICから高速に乗り朝来ルートで佐賀まですっとばす。9時30分、娘らを佐賀駅に降ろす。結果、近くはなかった、遠い道のりではあった |
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5月9日(金)ヒロシマ のぞみで徳山から広島にはいる。今までボクにとって広島は関東への往来の通過地のよなところであった。遅すぎた春とでもいうのか、初めて広島の地を踏んだ。きれいな平和宣言の町。原爆ドームや平和公園を歩き、スケッチもした。観光客や修学旅行の小学生、中学生が広い公園のあちこちに一杯いる。そして、平和についての学習をしている。美術館もたくさんあるが、ひろしま美術館へはいる。印象派からピカソまでの、まだ見たこともない作品がたくさんあった。気持ちよく流れるようにじっくりと見れる。威圧感がなく顔面を作品に接触さえ出来るおおらかさのある美術館である。正面中央にあるマイヨールのブロンズ女性像は最高。パーフェクトを久し振りにに見た。美術館庭にはピカソ美術館から贈られたマロニエのピンクの花が満開で、アート広島を願った。 |
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4月6日(日)春なのだ 川掃除の後、満開の境内で川さらいを終えたおじさんたちは昔話でお酒をいただいてた。平和だなぁ。ボクはぶらりとひょうたん公園まででかけ、桜の下で弁当を開いた。親子連れが宴会したり遊んだり、声がよく響く。ここも平和。枯れ蓮のクリークには小魚。桜にはブーンブンブン、ミツバチが。モウウシロとモンキも飛んでた。だんだん見られなくなっていくレンゲも見た。今回はこれにて引き上げる。 |
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3月38日(金)ホーケキョ ホーケキョ、ホーケキョ。裏の某宗教団体施設の林から聞こえてきた。あのウグイスちゃんか??ひかえめである。遠慮がちである。それでも、こうなるとメジロちゃんも立場がない。メジロちゃんは止まり木でミカンをつつくが、もういいかげんである。食料も増えたのであろう、ミカンが次の日まで残り、メジロちゃんの飽食みたい。ある種の危機感をもっていきるはずのメジロちゃんもペットとなるなら、餌付の行為は考えものだ、人間が喜ぶだけでは、逆行の一途かもね。「鳥のように獣のように」中上 健次 がにくい枯木灘、無南〜・・。 |
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3月21日(金)横浜港 風が強く花粉舞う横浜ベイを歩いた。38年前の手がかり、痕跡がないかと・・。港ががらりと変わってしまったというより、あの日の風景を憶えていないようだ。デジャブみたいなものもない。友人たちとテープを投げ結ばれていた瞬間の顔、顔、顔にとどまる。 M博ちゃんが桟橋の下まで下りて、届かなかったテープを拾っていたっけ。彼らも目に焼き付けているから、夢でも幻想でもない1969年9月1日は確かにあった。 |
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3月7日(金)Time after Time あったかい。ぽかぽか。花粉さえなけりゃぁァー・・。メジロとウグイスが、ミカンを催促する。啓蟄だし、もうミカンは止めて、タンパク質をとらなきゃ。床や地面に耳を押しあてれば、ザワザワ、蒸し蒸し虫の声。恋の季節。隣の猫が木に登り、屋根に飛び移る。イタチとおもっていた天井裏の足音は・・。屋根に穴が空いてるのか・・。発車ぁオーライ。あかるくあかるく〜だ。 |
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2月19日(火)ミカンとリンゴ 庭に立つボクの姿を見ると、メジロちゃんたち、チュルチュルチュルとよろこびのさえずりで、「早く、おやつちょうだいよ」と頭上の木の枝をぴょんぴょんする。今日はミカンとリンゴをやった。リンゴをちょっとつついたが、ミカンにもどった。ヒヨがリンゴ食ってしまった。室内から写真を撮ろうと汚れまくっていたガラス戸を磨いた。室内の人影がよく見えるようになり、ビックリ・・用心しているようだ。ウグイスが現れたが、すぐに姿を消した。いつの日か、メジロちゃんウグイスちゃんが手のひらに乗ってくれるのをたのしみに・・。 |
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2月15日(金)ウグイス 声は聞こえど、姿は見えぬ。ウグイスはメジロに比べると数段用心深い。丸見えの木の枝には留らない。中空よりは地面、庭樹の下の方から姿を表す。一匹とおもっていたら、どうやらカップルのようだ。さえずりもなく忍者というか、臆病鳥にも見える。過去のDNAに何が植え込まれているのか。また、あるいはそうやって生き残ってきたのかも知れない。野鳥を拉致して籠の鳥にはすまい。ホーホケキョと鳴くのはいつの日か。 |
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2月7日(木)縁側 冬は油絵の具の乾きが遅い。陽の当たる場所は暖かい。梅が咲き始めている。刺したミカンをつつきにメジロが来る。千葉でも菜の花が咲いてた。佐賀でも菜の花は12月から咲いてる。お天気さえよけりゃ、人も花を咲かすだろう。 |
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2月6日(水)船団 潟の漁港にいた。防寒頭巾をかぶった海苔漁師のおちゃんがボクの車をのぞきこみ、船へと下りて行った。おっちゃんは再び上がってくると、また覗きこんだので、ボクは車のウインドウを開けてあいさつした。「おんじさんはようここに来とんさけど、絵ば描きよんさっと・・」本物のおんじさんにおんじさんと呼ばれたのには、参った。「もう、何年もきてますよ」「どこから、来んさったと」「佐賀市の○○町からですよ」おっちゃんはボクが写生しているのをしばらく見物して「どうも」とトラックで去って行った。夕方、5時から6時にかけて、船団がぞくぞくと潮が引いた河口を下り海へと向かっていく。水平線に消えていく勇壮な船団の風景である。その波が繰り返しざわざわバサーンと干潟と桟橋に打ち寄せる。静かなる虚空の空間が、華々しく動へと一変する。ディーゼル音と波音は北風に勝り、白いしぶきの航跡は鉛色の水面をえぐり広げ、大キャンバスの大ストロークのごとく。ふと、顔を右に振れば、西の空は紅い。 |
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2月5日(火)正面 クリーク公園のクリークの正面に車を停めた。クリークが遠近法の三角になる。三角の頂点に数軒の農家と林があり、そこから傾斜の2辺は葦の枯れ野となり、△の外側は一面緑の麦畑。この形を僕は「正面」と考える。風景は正面から臨むときがすきっとする。その正面を見つけるのに月日がかかるものである。 |
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2月4日(月)欠落 潟に行った。車から外に出ると寒い。漁師は漁師。この寒い海で働いてる。本当は寒風に吹かれ描かねばならない。テクノロジーにたよるだけでは、何かが足らない、かならず核心が欠落する。ストックホルムの氷の海を前に寒風に鼻水を垂らしスケッチしていた画家をおもいだす。あれから38年。 |
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2月3日(日)メジロ どこに巣んでいるのだろう。メジロがよく来る。かなりの数がいるようだ。グジュグジュとさえずり、枝のミカンをつつく。きょろきょろと警戒しているが、近ずいてもあわてては逃げない。人にも慣れてきている。人も昔のように、焼き鳥、ペットにと捕まえようとはしなくなった。鳥といっしょに住めるなら、籠の鳥もいらない。メジロより小型の薄茶色の鳥もくるが、名前は知らない。それをメジロが追っ払う。虫も食べているんだろうが、刺したミカンも皮だけになるのが早い。集団のメジロ押しを見てみたいが、メジロちゃんたち、一体どこに棲んでいるんだろうね。 |
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1月21日(月)自然に暮らす 鳥が食べに来る。カバも食べに来る。雨が降るのを待つ間も草取りは続く。アフリカのある村の天候次第の稲作。 サハラ砂漠を片道14日間、往復1月のラクダキャラバン隊が塩の買い付けにいく。砂漠に地図はない、星も当てにならない。「頭の中の地図」を頼りに死の砂漠を歩き続ける。彼らが世界を知らないわけではなかろうが、初めて苛酷なキャラバンに同行した子供たちも疲れるどころか輝ける大人へと変貌していく。自然に抗わず、神とのかかわりも自然なもの。 |
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1月18日(金)張り込みのような 自動車修理工場の裏は田んぼだ。修理音は聞こえてこないが、整備士の姿が確認できる。張り込みの刑事のようだ。村外れの通りにちょうどイイ空き地があり、車を停めた。広々とした田んぼに小さな集落が点在する。低い帯状の雲が地平と重なろうとする夕暮れ。垣間見る陽光に風景は鈍から鋭の間を行ったり来たり。笹やぶの隙間から自動車工場が見える。麦畑に突き出たシルバーと赤い車がいやに意味ありげなのだ。果たして、犯人はここへ逃亡してくるのか・・。 |
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1月17日(木)空と平野の間 河口にそそり立つ本庄江にいった。三叉路の水門から脊振山系を臨む。下り坂は土手へと続き本庄川に沿い、横一直線の町へと消える。土手の両側にはダダっ広く麦畑。澄んだ空気が見えるように山もクリアー。晴天の天山おろし吹き荒む中、ローラー機による麦踏が盛んだ。何もない田んぼにいろんなものがみえたような・・。 |
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1月1日(火)薄化粧 初雪の正月。宴の前に、チョロッと田んぼへ行ってみた。芽吹いた麦畑と薄化粧の山々が陽光に輝く。あるのに何もない。何もないけどあってしまう満目蕭条とした空間。クリークからカップルの鴨がビックリして飛び立った。犬と人が農道を散歩をしている。 |
2007年。 | |
12月9日(日)日田 小国 東に向かうのはいいが、右へ曲がるか、左へ折れるか、という選択がある。何も閃かなかったら、ひたすらまっすぐ前へ前へと進む。心に変動あり、コース変更、小郡で右に折れ、再び左に折れ東に向かう。周りすべてが田んぼである。刈り取られた土壌向きだしの田んぼである。広い、広い。狭い日本というけれど、日ごとに広いとおもっているようだ。筑後川にぶっつかり、土手上を行く。左手に甘木のビニールハウス群が見渡す田んぼを覆うっている。ぬけるような空の下、家もない広い広い大地は、日本人の食糧、エネルギーの素。風景としてもいつまでも、そのままであればイイのである。少々高くても信頼できる日本の大地で生産されたものを食べよう。できれば、ヒマな人は自給自足で忙しく日々を費やせばイイことでもある。人間、ヒマな時は、金と遊ぶことしか考えない節がある。未来の見えるリーダーがいて、タヌキにもカエルにもやさしい、イイ政治を願うのだが・・。道の駅はどこも人と車であふれている。郊外のショッピングモールもにぎわっていることだろうが、衰退していく町の数の多さ。このごちゃごちゃの現状を憂えるマニエリスムと見るか、ルネッサンスの兆しと見るか、嘆くだけは(僕ら)高齢者にとどめておこう。何であろうと、子供、若者は広く広く生きていく。人生が目に見えぬ(平和な)戦場であることには変わりない。杷木で柿を2箱買う。とにかく安い。生産者はこれで採算がとれるのだろうか・・とさえ。柿食う世代も減ったよ。日田から阿蘇に折れ、小国へ。小国の高台の食堂で焼肉定食。ぐるりと山に囲まれた盆地に人工数万の家々がぎっしり方を寄せ合っている。人の心もそうでなくてはならないはず・・。坂本善三美術館の前まで来る。「アジアの空間展」。ここではあえて見るのを止め、矢部、黒木町、八女の山越えルートを選ぶが、またまちがって日田にでてしまった。遠うまわりになったけど、佐賀へ引き返す。「ファンタスティックな野郎たち展」の最終日。搬出、片付けに間に合うかどうか。浮羽、田主丸、久留米そして、ぎゃらりー久光に撤去時間5時30分の2分前に到着。 |
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12月4日8(火)狸無残 ゆっ君から預かったというか、貰ったクワガタが死んでた。このところだいぶ飼育箱をのぞいていなかった。体長・9pの外来種で名前を聞いたが忘れた。越冬する種族でなく、寿命だったのかも、どちらとも言えない。虫の世話をするゆとりもなければ、もの忘れはする、トホホ。まずは標本にして、デスボディーを描いて、供養としよう。先日、1日の朝、K子さんを空港に送っていく、空港道にタヌキが二匹轢き殺されてた。轢き逃げである。それをカラスがつついてた。まるまる太った大型のタヌキであった。夫婦であったのだろうか?一体2匹そろってどうしたというのだろう。全てが刈り取られ、隠れる茂みも無い田んぼにて、狸無残。最早、山だけでなく、街にもどこにでもいる狸。イタチ、タヌキもかわいがらなくては・・。 |
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11月20日 (火)札幌 福岡から1時間50分で札幌。 遠いようで近い。映画一本見ている時間である。 40年前、東京にいた同窓生、K君とF君の三人で北海道一周をした以来のことである。 K君の兄さんの会社のスズキ・フローリアンでの旅であった。 車体に「TOKYO,北海道一周」とテープでロゴを入れてのイージーライダー。 補助ガソリンを携行し、猪苗代湖のFくんの彼女家でおにぎり、硫黄噴き出す恐山、の十勝地震の列車転覆、豪雨の山中の夜通しのドライブ、札幌のFくんの姉さん家でジンギスカン、K君の知り合いの開拓村で見たこともない大きな蟹を御馳走になり、旭川へ向う大平原の道路でボクはスピード違反で切符を切られ、旭川の中学生と小学生の「いつか自分たちも旅に出たい」という姉と弟、旭川の高校生・おてんば3人娘との出会いなどなど、甘酸っぱい青春のおもいでである。 今回、新千歳空港から電車で札幌に向かう車窓の風景に見入った。 木立、畑、平原、家々、車、諸々のたたずまいが、まえるで北欧でなのである。日本文字の看板が見えたとしても、極寒のきびしくも美しい北欧と全くなんら変わらぬ風景なのである。北欧に行かずとも北欧が日本にもあった。 札幌も見違えるようにビル群の新しい街に生まれ変わっていた。 時計台、札幌タワーを歩いたが、寒い、寒い零下の北国である。 2日後に迫ったホワイトイルミネーションの準備がタワー通りをメインに進んでいる。しかし、残念ながらその前に変えることになるが・・。 海鮮は本場ならでは、新鮮で美味しく安く食べられる。 中島公園のコンサートホールで「歌談の会」はあった。 孝さんは今夜も伸びに伸びる歌声と三味線で観客を魅了した。 新曲「真さらな台本」も耳になれてきた。”〜よしとしよう〜・・」 長蛇の人々がCD買ってサイン会にのぞんでいた。 孝さんがどんどん大きくなっていく。 29階から見渡す札幌の夜景もすばらしい。 ちらちらとフル雪に日本にいてヨーロッパにいるような気分になっている。 |
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11月7日 (水)古代文字 漁港の堤防から河口ではなく、田んぼを一望にする。 のどかな広い田んぼである。 ゴッホがここにいても描いただろう。 なんの変哲もない風景も絵になると、行ってみたい場所になる。 描いて描いて描きまくる。目をつぶっても描けるくらいに・・。 歌川国芳の戯画と月岡芳年の無惨絵がこの田んぼとどうリンクすると言うのか・・。 映画館で映画を見ているまでは、充実しているのだが、館を出た時の現実の眩しさに焼失しそうだった青春。 時が経とうと、変わらぬものばかり・・。 |
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11月1日 (木)大豆畑でつかまえて 川副一帯は大豆畑が多い。 晴れてる訳じゃないが、イイ天気だ。 路肩に腰掛け黄葉の大豆畑を一望する。 まだ、モンシロチョウがいる。 ヒバリも飛来して目の前の大豆畑に消えた。 脊を後ろに倒し、仰向けに寝そべっていたい。 道路工事のおじさんが来たが、こちらに見向きもしないで、用を済まし去って行った。 暑くもなく寒くもなく、風もなく全身からプクプクと気泡が上がっていくような陸上の魚人。 スケッチのタイトルは「大豆畑でつかまえて」にしておこう。 |
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10月23日 (火)大三郎先生 「ファーブル昆虫記・南仏・愛しき小宇宙」NHK BSの2回目を見た。 奥本さんって歳とらない人だとつくづく思いいる。 たばこは吸われたか忘れたが、声も当時のまま。 髪はふさふさ、肌はつるつる。 酒は強く、カラオケもお好きだったが、曲名がおもいだせない。 ボクより3つ先輩、まだまだお若いはず。 何せ昆虫少年であるのだから。 奥本さんの豊富な知識を交え昆虫を語られるから、どの本もおもしろく夢中になる。「大学教授、三日やったら辞めたくなる」「虫の宇宙詩」「当世 虫のゐどころ」などウイットとユーモアに飛んで、知らぬうちに雑学してるのであった。”恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす”とか日本の民謡らしいが・・。 足がご不自由だが、まだまだ、トンボ追っかけ”ボク”をたのしましてください。 |
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2007年10月22日 月)ファーブル ファーブル昆虫記・南仏・愛しき小宇宙」NHK BS。 を見た。 富士町でやってた「ファーブル交流・・」はどうなったのか・・?奥本大三郎さんとも会えなくなった。 番組中、長野県 小諸町 奥本さんと海野和男さんが、長野県小諸町の野原で 、少年のように赤い捕虫網構えてオニヤンマ捕ってた。 待ち伏せして空振りした奥本さは「もう駄目なのかなァ・・」と首をかしげたが、2度目は成功し、指にはさんで、「こうして、たくさんはさんだものですよ」としてやったりの笑顔。オニヤンマの肢体と感触をしばしたのしみ野に放った。 いつまでも昆虫少年であることは意外にかっこイイ。 K高さんとボとのトンボ捕りはどんだけ〜ぇ。 |
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2007年10月15日 (月) コアな風景と 好きでもないのに、今日も有明の河口にいた。 ここで生まれここで暮らすもよしとはしてない。 そうせざるを得ないだけ。 今日は遠い日も未来も見えない。過去も未来も寄せ付けぬ鉛色の現実。 現実のリアルさが正しく海上空に浮かぶマグリットの巨石である。 マグリットのトリックはトリックでもなく現実を巨石にとじこめたのであることと、・・ひも解けていく。 岸田劉生の林檎にしても、彼の時代を林檎に閉じ込めたのである。 法隆寺の夢違い観音は夢がかなうどころか、夢を閉じ込めてある。 そこを開くのが現代の迷宮のアートである。 Today is firstday for lost my life.(ゲーテ)と小椋さんが言ってた。 |
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2007年10月7日 (日)見あきた風景 午後漁港をまわった。 曇天の水面は鈍い鉛色だ。 戻ってきた漁船から潟スキー、釣竿、零頭ボックスをひきあげていた。 そして、干潟にいるムツゴロウを見つけ竿をだして釣針でひっかけようと試みるも失敗に終わり、男三人はひきあげていった。 桟橋に男4人が並んでハゼ釣りをしていたが、つれる気配がない、それなのにまだ、釣りを続けていた。 入れ食いでなけりゃ、いつまで待っても釣れないとおもう。 水鳥もすっかり数と種類が減ったようだ。北国へもどっていったのだろうか。いるのは、定住したアオ鷺、白鷺のみ。カモメもとんと見なくなった。 漁村の少女たち10人ぐらいが、耳の長い毛糸のような体をした2匹の犬をつれてやってきた。女の子ばかりが漁港に遊びにくること事態めずらしい。 連休とあって里帰りしてきた子供たちかも・・。 見あきた風景に変化が起こった。 |
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9月27日 (木)ギンヤンマの空 滑走路と平行に堤防が走る。 堤防から顔を出すと有明海の干潟が広がっている。 濡れた干潟のあちこちに金属的な白い反射がある。 それさえをカッコいいとおもはなければ、ただの泥の海。 臭いもなければ、毎日太陽に殺菌され、有機物いっぱいの泥パックができる。干潟表面の藻を主食とするムツゴロウが見渡す限りうじゃうじゃいて、お散歩、ジャンプしている。 沖の海苔ヒビの川を白い漁船が往来する。なくしてはいけない風景だ。 クリークでギンヤンマのカップルが産卵していた。それを捕ろうと補虫網を取り出したところへ、後ろから「この土地はだれのですか・・?」。 赤い車で通りかかったおやじさんであった。 確かにクリークとクリークの間にチェーンが渡してあり、進入禁止になってる。荒地の中に泥山が散在し、資材置き場のようでもある。 「この辺の者ではないから判りません」。 「ああ、そうですか、どうも」とおやじは去って行った。 畑や稲田しかないようなところに放置された土地があるというのは、言われてみれば変だし、不気味である。 しかし、訊ねた男も何者なんだ。 おかげでギンヤンマのカップルを見失った。 着水した辺りを角度を変えたんねんに調べるとなんと、目の前の枯れた葦クズが浮かぶ上んにいるではないか。 ギンヤンマは水草にも枯れ草にも対応できる保護色であるようだ。 あわてず、そっと補虫網で葦クズもろともかぶせすくった。 カシャガシャカシャ、少年の日を呼び起こす胸躍るギンヤンマの羽音である。 コンポーズブルーの腹をしたオス。そしてライトエメラルドの腹をしたメス。尾はオスより一回り太く赤味をおび、アメ色の羽には充足した遠い日の憧れがつまっている。2頭を重ね、口にくわえ、空を仰ぐ・・・。 「よし・・」1頭づつ空に放った。 ゆっくりと秋空に舞い上がり、点となり消えていった。 |
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9月26日 (水)筑後川 筑後川沿いを散策。人っ子一人いないさびしい土手が夕方になると、これでもか、 まだ来るかと言うぐらいに、犬の散歩のオンパレード。 諸富鉄橋の産直販売所で、ジャガイモ、タマネギ、グリーンアスパラ、ナスを買う。 〆て¥400。嫁さんもいないことだし、カレーでも作るか・・。 家に帰るとケイタイが鳴る。W氏である。 「王さん、僕より先に待っててくれたよ、小久保選手も来てくれてね、20分いっしょだった・・」 とすべてうまくいった安堵の報告。 親しいとはいえ、フロントを通した方がスムーズにいくようである。 「今??広島、これからヤクルト-広島戦・・」とよく動き忙しい男である。 ボクもちょうどソフトB-オリックス戦を観戦しつつカレーを作った。これまた美味い。 はらはらしながらもソフトBが3-1で勝ち、人ごとながら胸をなでおろした。 |
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9月20日 (木)コォーロギ コオロギがよく鳴いている。 昼の暑さ忘れさす自然な音色だ。 20歳のころ、蒲原マンションの側溝で道路が凍りつく12月になっても 鳴いているコオロギがいた。 自分を重ね「コオロギ爺さん」という一遍の詩を下宿人誌「飢餓」に書いたものだ。 それを同居人・U君がボクの個展の時にガリ版刷りの詩集にして、配った。その、 薄っぺらな一冊が本棚のどこかにあるはずだが、所在は判らず。 あの時代は金もなく、たのしかったのだが、ホントはきつかったのだとおもう。 季節を超えてコオロギでありたいね。 |
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9月16日(日)変わりゆく都市 よく寝た。 11階のカーテンを開けると眼前のリクルートのカーテンウォールに青い空と大小のビルが万華鏡のように映っている。眼下のビルの屋上はキットを積み上げた要塞のようだ。緑の見えないガラスとコンクリートの世界である。 田んぼばかり見ているものにとっては、新鮮でもあった。 新橋アーバンを出て六本木ハイアットにいく。 ハイアットの「フレンチキッチン」にてランチ。 広いスペースに厨房と客席が互いに見ると見られるの関係にある。 厨房に目をすえているだけで、厨房の中を道路のように動くシェフたちが見られる。 昨夜の「NOBU」といい、室内空間の捉えかたには目を見張るものがある。 お客も外国人が半分はいてそれぞれの母国語が聞こえるというのもイイ。 ゆっくりと食事を済ませ、ぶらぶらと今年オープンした新国立美術館へいく。黒川紀章建築である。カーテンウォールの巨大な美術館である。 ロビーは深く長く、逆円錐の柱が室内のビルのようでもあり、カーテンウォールから外の景色も取り込んでいる。 日曜日とはいえ、見物客もあろうが、ものすごい人の数で美術館とはおもえないほど。 二科展があってたが、いくらなんでもこれを見に来た人ばかりではなかろとおもうのだが・・。 二科展入場口でばったりと二科会員の大隈猛夫さんに会った。 何年ぶりであろうか・・。 「見ていかんね」とタダで入れてもらった。 「展示スペースの壁も可動式で、広く、天井も高く、都美術館よりは断然イイ」そうである。 久し振りに見る大隈さんのインドシリーズの作品も以前の褐色から色彩やタッチががらりと変わりロマンチックであった。 時間もなかったので第一室の会員さんの作品だけ見せてもらい、積る話もあり名残惜しかったが、おいとました。 それにしても団体展が主流の美術館はうらやましくももったいないような・・。 通りを挟んだミッドタウンには安藤忠雄氏の21_21 DESIGN SIGHTもあり、 お二人の闘いもおもしろく、旧陸軍跡地は新しい街へと変貌している。 |
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9月5日 (水)ウォーターヒヤシンス 昨日、見つけたホテイアオイを見に、川副の田んぼにいく。 ピーク時は過ぎたが、汗がしたたり落ちる。 日中でもしなることなく、クリーク一面に白と淡紫のホテイアオイの花が満開である。 白秋がウォータヒヤシンスと呼ぶように可憐で涼し気だ。 生産的な水路としてのクリークばかりより、ホテイアオイのあるクリークも農業をやる人たちに とっても心なごむことだろう。 ホテイアオイ、いやウォーターヒヤシンス公園にしてもいいくらいだ。 佐賀空港に入ってくる他県の人たちを淡紫のホテイアオイの花が出迎える。 5月から9月まで咲き続ける。 発想さえ変えれば、ホテイアオイは邪魔モノではなくなるだろうが・・。 童謡「砂山」 トンカジョンはびいどろびん 南の風のふくところ ウォーター・ヒアシンス からたちの小道 本をよむよろこび きらいな数学 大火にまきこまれた家 さよなら、ふるさと 花ひらく詩と歌と 日本の童謡 ああ、ふるさと柳川 <白秋> ーわがおいたちー 前略・・あるいは佐賀より筑後川の流をこえて、わがマチに入りくる旅びとはそのあたりの 大平野に分岐して、遠く近くロウ銀の光をはなっているいくたの人工的河水を眼にするであろう。 そうしてあゆむにつれて、その水面のずいしょに、ヒシの葉、ハス、マコモ、河骨、あるいは赤褐黄緑 その他さまざまのウキモの強烈な更紗もようのなかにほのかにあわむらさきのウォーターヒヤシンスの 花を見いだすであろう。・・後略<白秋> |
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9月1日 (土)9月の空 空と港の見える稲田にいた。 ギンヤンマがいた。 アオサギ、シラサギもいる。 抜き足差し足とはアオサギのことか・・。 しゃがんでクリークに近づき、スーッと首を伸ばすと、口ばしに小魚が・・。 日がな一日、えさを探し求め、優雅な舞も決して遊びではなかろう。 人間でよかったのか、シラサギであるべきだったのか、9月の空に入道雲。 部分的には除草剤の枯草地帯が異様に目につくのだが、水草らでクリークは浄化されているようだ。 ほっ、とはするものの、自然の回復、治癒力をあたりまえとおもってはいけない。 それも、もうたぶん限界ではなかろうか。 濃い緑のはずが、今夏は新緑のころのように見えるのである。 衰えた視力の底力ならば、ありがたい。 大きな樹木は、幹の数倍にも葉をひろげている。 陽光との闘いでもあるようだ。 日差しが強ければ強いほど葉をひろげ、そして木陰をつくる。 そうでなくば、樹木とて生きてはいけまい。 地の底に根をはる形相など夢のまた夢。 夏の野山を注視するほどに、9月の空も初夏になる。 |
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7月9日(日)アウラ 雨音がイイ。 日曜日に家に居るのはめずらしい。 「のど自慢」はそれなりに、「新婚さんいらっしゃい」、まだやってる。 三枝さんのばかばかしい方向への誘導が飽きずおもしろい。 テレビが煩わしい時もあるが、息抜きにちょうどいい時もある。 世の中は別にしても、自分にとって退屈は退屈なのか・・。 緊張と無防備。無防備と緊張、充足と空っぽを交互に繰り返す。 このバランスがどちらかに偏ると一種の病気にも似る。 スポーツ選手などがある緊張状態に入るのは、美しさとも見てとれる。 芸術家の場合も同じだが、理解出来ぬ場合は狂気、天才と見なされる。 手術台でミシンとこうもり傘が出会ったり、日常のアウラに出会うのも、現代社会に反しては、病的構造の範疇であろう。 |
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7月5日(木)健在チョウトンボ(からっこん) 梅雨の晴れ間にギンヤンマを捕りに横武のクリーク公園に行った。 クリークを見るに、「これはいない」と直感。 昆虫が好きな水や空の輝きはないものの、遠景にもギンヤンマの独特の滑空がちらりともしないのである。 クリークを歩いたが、ギンヤンマのオスを1匹見ただけであった。 時期が早いとか遅いとか、曇り空だからではない、5月から6月7月がご当地では最盛期である。 数年前はギンヤンマだらけであった。昨年もあまりいなかった。 ある時期衰退していた野山のトンボが復活したのだが、ここでまた減少していくようだ。単に農薬だけの問題でもない、環境全体の弱体化と見るべきのようだ。 人や子供が捕ってる訳でもなく、他のトンボの種類も数も減ってる。 クリークと樹木に恵まれた環境からして、この原因を突き止めるべきである。 もっとうじゃうじゃいるのが本来の水辺の姿なのだ。 今日目にしたのは、シオカラ、ショウロウ、チョウ、オニヤンマ、ウチワヤンマ。 以前見なかったオニヤンマが増えてる。4,5匹はいた。 クリークは雨でよどんではいたが、ウシガエルのオタマジャクシ、ミドリガメがいるものの水自体に生彩がない。 そばの水田にはそれこそミジンコたりともいない。一体全体どうなってる。あの生き物であふれていた豊饒の水田はどこへいった。 救いはチョウトンボがたくさんいることだ。 夕方、ハゼの木のてっぺんで風に飛ばされることもなく、20匹ぐらいが群れ遊び、追いかけ、カップルが誕生しているよう。 別の木のてっぺんにもチョウトンボが群れ、まるでチョウトンボのお宿。 鳥や大型トンボにも襲われない。 上昇気流に乗ってるかとおもえば猛スピードでカップルが飛行していく。 薄いぺらぺらの羽で頼り気なくチョウのように舞うから「チョウトンボ」なのだろうが、鳥も寄せ付けない真っ黒な姿態と高速の飛行も隠し持つ。 最も弱く絶滅危惧種第一号と思いきや、意外にしたたか、弱体化した天敵の隙間に生存しているのだろうか。 ギンヤンマの勇姿は子供の憧れだったが、のらりくらりとゆらゆらとしたたかに生き延びるチョウトンボは熟年の憧れか?見直さなければ・・。 |
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6月26日(火)憂鬱なる小説家・開高健 美協の日直当番にいく。 当番と言っても、特別やることはない。 写真、ムービーを撮ったりしているうちに一日も終わった。 今日を見る限りでは以前にまして、観覧者がぞろぞろと、うれしいことだ。 「開高健のオーパ!冒険旅」をNHK教育で見る。 画塾教師とその教え子の母親との恋、 その子供は「ふんどしに刀差した殿様がお城の前を歩いている絵」を描く芥川賞の「裸の王様」に始まり、 ベトナム従軍記以後、開高さんは小説が書けなくなる。 自殺にまで追い込まれる。 そこで、例の映像が流される。 井伏鱒二翁に「書けないんですよ、どうしたらいいんですかね」と 居酒屋で一杯やりながら乞うシーンである。 「何でもいいから書けばいいんだよ、いろはにほへとでもいいから・・」と井伏鱒二翁はとつとつと答えるだけ。 また、書斎でのインタビューでは。 書斎にバーバリーのシャツを着て、あぐらをかき、机にはワインのボトルと何故か レモン片の入ったウイスキーグラスがあり、タバコにジュッポで火を点け、もう一杯入ったような風呂上がりのような顔で煙を吐きだしながらしゃべり出す。 「見えざる危機は自分の心ですね」 「自分の心を異常に危機をはらむものはないですね」 「外側からくる危機に対しては、人間は割合に抵抗のすべを死っているんですね」 「自分の心に生じてくる危機に対しては手の付けようがない、なかなか」 「これが最大の問題です」 「私にとって最大の危機は私の心です。生きてる限り」(40代のころであろうか) やがて、開高さんは書くのを止めたかのように呑み喰い、世界の釣りに明け暮れる。 文字なない中国やモンゴルの河にイトウを追った。 現代社会で培ったものを捨て、生まれいでた時のように未踏の地平に立つ、それが最大のウツから解放であったのだろうか。 |
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6月14日(木)初心、1年生の時の絵 早起きして、シャワーしてひげそって、 さわやかな気分で余裕藻ってクリニックにいく。 外のしとしと雨のように、みなさんもどんより。 お絵かきして気分をかえなくっちゃ。 雨の絵を情緒たっぷりに描いた人たちもいて、正常である。 お絵かきの魅力をあらためて感じる。 紙と鉛筆とクレヨンを手にしたときの感動。 以来ずっと描いているけど初心を忘れてる。 便所の紙さえ新聞紙、ましてや紙に絵を描くなどまれで、基本的には地面に描いて皆で遊んでいたものだ。 小学1年生になって、図工の時間に紙をわたされたときは、さぞうれしかったにちがいない。 茶色の藁半紙を半分にしたサイズであった。電信柱のカチガラス、田んぼのカエル、オタマジャクシ、それにカニをよく捕っており、穴の中のカニを捕るのは巧かったので、カニ捕りの絵。 紙に描いた記念すべき最初の絵と言っていいだろう。 こうしてみると興味ある物は何一つ消え去りもしなければ、変わらないのである。子供のままと言うよりは子供の延長線上から外れることなし。 大人おとなといばるな子供。 |
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5月12日(火)カラスの襲撃 カチガラスの巣を対のハシブトカラスが襲っている。 少し離れた屋根でカチがなすすべもなく鳴くだけ。 カチの巣からカラスが飛びたった。 卵も雛も食ってしまったのだろうか。 カチの2、3倍の体格だ。 人の気配にカラスは逃げた。 スカチガラスもズメもキジバトのようにもっと人間に接近しないといかんな。 何を怖がってるのか。 オーストラリアではカラスでさえも人の側に来るンだけど・・。 焼き鳥にされたおもいが消えないんだな。 スズメとカメが路上で平面になってた。 梅雨時には何かと事故が多い。 |
6月9日(土) 黒と白がコラボするとき いつものように空港で広い滑走路眺めながら朝食をとる。 朝食の用意がしてあるのに今日もボクらを含め客は3.4人。 案内はせかすが、あわてることない。 のんびりとしたローカルな空港にしては、やってることはよそと同じ・・? 毎度、最後の最後に搭乗ロビーに入るのがK子さんである。 そうして、やってきて、また子さんはボンバルディアで帰っていった。 焼かれた田んぼのを耕耘機が耕し早くも水が濯がれている。 黒い田がじわじわと鏡面に変わっていく。 早苗の水田もそうなのだが、子供のころよりずっと変わらないこの季節の感覚が 田に水が入っていく瞬間である。 時の流れというか、時間を見るというか、田の黒と水の白とがゆるやかにマダラを形成し ながら融合していく。理由もなく沸き起こる沈潜の露呈。 砂遊びに興じる子供もやがてそこに水を濯ぐ。 流れるもの、形変えるもの、壊れいくもの。自然そのもの、人生そのものの遊び。 いや、やらねばならない本能の伝達、確認ののかも。 |
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6月7日(木) トロイの木馬 ホメロスの大叙事詩「オデッセイ」は大が付く割には短く、たのしく読める。 オデッセイの数十年も漂流の旅。 かつて、ご近所の医師、詩人のH先生がボクの個展で靴の「オデッセイ」を見て 「このとおり、女や娼婦の尻を追いかける話しですからね・・」 「・・・?」 その後、「オデッセイ」を読み、コッポラの「オデッセイ」も見た。 聞いたことのある様々の神が登場する。確かに女の館に囚われもする。 映画も本に忠実に創ってあり、二つを合わせるとよくわかる。 映像で見る「トロイの木馬」は想像以上だった。 H先生も病院をたたまれ、文学三昧だろうか、とんと姿を見掛けなくなった。 木曜日ということでトロイの木馬が浮かんだ。 酒呑んで寝込んでしまうと奇襲をうけるのである。 「クレージー ホース」のニール・ヤングが体を激しく上下に振りかき鳴らすギターも欲望の発露か。 |
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5月17日(水)カチガラスの巣 電柱には巣作り防止の帽子が取り付けられ、カチガラスをあまり見掛けなくなる。 田んぼの農家からも柿木らが消え、すっかり姿を消したかに見える。 国の天然記念物指定もどうなったのか。 山から下りてくる群れカラスばかりが、目に付く。 二階の窓から前のお屋敷の庭を見ると、巨木のてっぺんに枯れ枝を組んだ大きなカチガラスの巣がある。 巣までの距離5メートル。いつの間に・・。 ちょうど土蔵の屋根に枝をくわえたカチがいて、巣に運んでた。 まだ、巣作り中のようだ。 子供のころ同じこの木のてっぺんに留まっていたカラスを捕まえようと、興奮を抑え忍者のように 上り足を捕まえようとしたところで逃げられたことを思い出した。 動くものなら何であろうと捕まえたくなった少年時代。 あの胸の高鳴りは一生もんだな。 画家の深川先生からも似たようなスゴイ話しを聞いたことがある。 要約していえば、先生は友達と黒い服を着て松の木に上り、枝になってカラスが下りてくるのを待って いたというのであった。 子供のころから一度としてこの木にカチガラスが巣を作るなんてことはなかった。 人が上れない電柱や人が上っても折れやすい柿木を好むようだが、お屋敷の巨木に営巣するとは異変だ。 人が鳥類を追いまわさなくなったのを知った上でのことであろう。 ボクラが子供のころなら「ほら、あそこにカチガラスの巣があるぞ」とイイもワルイもいろんな 想いを馳せたであろうが、登下校する現在の子供には目に入っているのか、そうでないのか、 何の驚きも反応も聞こえてこない。 子供の目線がちがうのだろうか・・、教育とはおいそれとイイたくないのだが、勉強できなくても、 飛行機や、鳥、トンボを追っかける”ガキ”はいないのかな。 木の葉が邪魔をしなけりゃ、撮影できるのに。そのうち若葉で被われ外からは全く見えなくなるだろう。 それにしてもイイ光景である。 |
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5月14日(月) トンネル 朝、N子さんの増えすぎた不用荷物を車いっぱいに詰め込んで再び山越え。 山は新緑と初夏の輝き。 トトロの森もあれば、どろろの暗い森もある。 日本も美しい。外国の人が美しいというのも挨拶ではないのだ。 山を越えトンネルを抜け下りたところにノルウェーの港が見えてきてもおかしくない。 ただ、そこに現実の見慣れた顔があるから、そうはならないだけのことのよう。 「トンネルを抜けたら雪国だった・・」も人にある旅の感覚や彷徨いたい時間感覚があるのだろう。 「トンネルを抜けたら材木町だった・・・」 「トンネルを抜けたら長崎だった・・」 「トンネルを抜けたら東京だった・・」ではやっぱり・・。 「トンエルを抜けたら砂漠だった・・」 「トンエルを抜けたら夜だった・・」 「トンネルを抜けたらしゃばだった・・」ではどうだろう・・。 いろんな単語をあてはめてみるが・・、やっぱり・。 「窓を開ければ港が見える」もイイ文句だ。 比喩も説明も要らない。 「おぎゃー」と白日のもとに生まれたものの、そこから困難な物語がはじまるということか。 トンネルは序章にすぎないのか。いや、そこまでの過程の交錯する暗がり |
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5月9日(水) 作品がしずかに語るとき 作品を枠からはずしロールにしていたり、重ね合わせていたりで十数年。 汚れはともかく、ヒビ、剥離、変色、化学変化、物理的変化は完成時の姿を知るものからすれば悲惨だ。 ある意味その時点では見捨てた感がなきにしもあらず。許してね・・。 その時は、駄作、失敗とおもえた作品でも、意外や、それとは逆。 未熟さや考えの薄さはあっても、嘘は言ってない。 また、それらの傷、破損が時間という味を加え、新たな作品に進化したと見えないこともない。 宇宙船のカプセルに冬眠していた宇宙飛行士が数年の眠りから覚めるのだが、 実は数十年の時を経た顔に変貌し 衰え崩壊していくシーンのようだと・・。 究極には完璧さしかなかった当時からすれば、自分も変化したのだ。 当時の不満の原因が今明らかになっていくように、傷つき汚れた作品がボクの前に立つ。 過去の作品を見るというのは、その時は見えなかったものが見えてくるということ、 描き進めただけの情報や英知が潜在しているようだ。 大作60点あまりのビデオ撮影と写真撮影がひとまず終わった。 長い日数がかかった。 カメラのフレームから覗くごとに個展をしているような空間に突入していた。 やはり、自分が創りだした作品はないがしろにできない。思い入れ以上に責任がある。 意志をもった命と言ってもイイ。 |
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2007年4月23日(月)公園・セントラルパーク BSの2時間スペシャル「四季・セントラルパーク」を見ていた。 四季を通じてニューヨーク市民が集う憩いの場所。 市民団体が管理し、年間の運営費25億は、市民や企業からの寄付でまかなわれている、と言う。 過去に二度いったことがあるけど、いずれも冬でほとんど人はなく、リスちゃんたちが、 チョロチョロ活動していたぐらい。 映像で見るような人と公園のにぎやかな風景は知らない。 おいはぎに合いそうなところであった。治安がよくなったのだろうか。 ロンドンのハイドパークも素敵だった。馬も走ってたし、盗人の気配もなかった。 日本の公園と言えばどこだろう。いろいろあるが、花見の場所? 日本は公園と言っても庭園で、公園との関わりが薄い。 わざわざ公園を造らなくても、ボクには佐賀の山や田んぼや干潟が公園だな。 ニースのヨットハーバーからモナコのF1レースの道路を歩きカジノに出て、 時計屋で腕時計を修理してもらい、 それから小さな左右対称の公園に出た。 アントニオーニの映画「欲望」の公園のようでもあり、それよりも人工的な矩形の公園がボクの故郷の 田んぼに見えたことに、旅人は接点をもてた。 故郷に帰りボクは「公園」の絵を描き始めた。ニースの公園、ハイドパーク、パリの公園など。 ニースの「公園」は福岡の美術展で入賞し安井賞展にまで推薦された。 そのころ、佐賀にも県立美術館が出来、公園も整備されたが、今尚、人々は寄りつかない現状。 やっぱ、花見に尽きるのか。 元々、「公園」よりも公園な田んぼに囲まれて暮らしている。 都会にこそ「公園」は要るだろう。 佐賀出身のある作家が言ってた「天気のイイ日は新宿御苑で原稿書いてる」と。 そこは、彼にも田んぼなのかも知れない。 |
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2007年4月2日 (金)風景のズレ 佐賀の風景も変わっていく。 旧街道沿いの長屋跡地からは判りようもないのだが、 市街中央部のビルの上から東方を臨むと、新緑のセントラルパークから見るNYのようだ。 田舎と思っている場所も都会的な風景にじわじわと変わっているのだ。 ビルの多くはマンションと思われるが、木々とビルとが混然と融合している。 ビルで埋め尽くさず、近代建築と森と公園の街になれば素敵だ。 田舎の風景を田舎にで探しても最早ないに等しい。 ただ、その変化に住む人々がついていけてるかどうかであろう。 合併でこじれるのが農地の市街地調整区域問題でもある。 「高いところから失礼します」と言う作法があるが、すでに人々は高みに住み見下ろす 風景を手に入れていたのである。 旧市街にへばりついていたのでは判らない。 このズレが市民感情にも無縁ではなさそう、なのだが・・。 近代アートでもセザンヌやゴッホの「風景」は後にしか認められず、 現代の先端アートも風景そのものではないが、国内では認められないまま、 海外で新しいアートとして産声を上げている。 先端にあるものもスタイルは変わっても感情よりも風景の線上にある。 しかし、美術における新旧のズレは教育にあり、教育をヨシとしている側にある。 |
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2007年4月13日 (金)カラスとカメ 空港道路を進行中、カラスが何かくわえて飛んできて、路上に落とした。 石のようだが、車中から目撃するに、それはクサガメではないか。 佐賀ではクサガメ、イシガメらを”くうず”、”ぐうず”などと呼んでた。 じゃんけんの”ぐう”に似ているところからの名。 カラスはは空中より落とし、甲羅を割ろうとしたのだろう。 また、割れなくても車に轢かそうとしたのである。 カラスの頭脳的な食物行動は今ではよく知られるところだが、間近に見たのは 初めてのこと。 梅雨時に車に轢かれた亀の平面をよく見るが、それはカラスの仕業ではない。 亀も住処や産卵場を求めて移動する生物だが、けものみちを遮断した道路をわたるしかない。 道路の下や堰に動物や魚の通り道を造っている地域もあるようだが、 まだまだ、人間は自分らの利益しか見ない傲慢さ。 道路で轢かれた亀をカラスが食べに来て、カラスも轢かれ、それをイタチが食べに来て、 イタチはカラスに襲われ、カラスは車に轢かれ、 ちびクロサンボのトラかウロボロスの理論・死と再生が輪廻転生になる。 |
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