クリークの春


   
   
クリークの春

 逆光の漁村がまぶしい。有明海の漁港から海を見ていた。
海苔タンクを積んだ漁船が一隻、川面をえぐり、ディーゼル音を響かせ河口を上っていく。
抗う開き直りの歌にも聞こえる。
ヒバリの声は途切れることがない。姿は見えぬ。ぽかぽかの空から海も山も川も田んぼも
見えていることだろう。すべてがSAGA・佐賀だ。
目をそらすといつの間にか、離れた岸壁の車止めに割烹着のお婆さんと犬が腰を下ろして
海を見ていた。漁村の人も海を見るのだ。
遠くへ行きたいとか、どれくらい人生が経ったとか、お婆さんに何が見えているのか、知る由もなし。
 「一人になりますと日がなごうなりますわ・・」。
 「東京物語」のエンディング。尾道の漁港からポンポン船が出ていく
 エコロジーと言わずとも山も川も田んぼも海も執拗につながっている。そこには歴史や
伝統や人もあらゆる生命が宿り、恵も災いももたらす地球のひだに他ならない。
希望という名のチケットを買い、欲望という名の電車に乗る。春の息吹を身にまとい、
一歩踏みだす。不毛の風景の光と影。見えすぎる諸々が逆光の中で核になる。葉隠れに倣うなら、
「朝死して、今日に生きる」である。何もない荒野に見えてくるものこそ「在るもの」であろう。
 大きな石を両手に持ち、ガマの背後に忍び寄り指を開く。何事もなっかったかのように田んぼは静かだ。
桜の下には、死体が埋まっており、手術台ではミシンと蝙蝠傘が出会うのである。
 磁場のエネルギーが時間の口を開けたようなクリークに倒れかかる笹藪の根元。
いつも深淵の闇(やみ)のごとく、凝視に耐えられぬ淫靡な生き物の眼がこちらを伺っている。
 雑草も麦もレンゲも藪もヘビもカエルも小さき者たちの博物誌。肥溜めに放り込むのは己が性(さが)。
用意周到な自然の演出に身も心も躍る。罠でも仕掛けでもない。肥溜めにはまった日のようにどこまで素直になれるか。
遠い日は、今もまぶたの中、だから、逆光の海を見る。